メッセージ 要旨 福音集会 (学び・福音)

鈴ヶ峰 キリスト 福音館

平成14年10月20日(日)

神に生きる

Tサムエル記15:22,23

15:22 するとサムエルは言った。「主は主の御声に聞き従うことほどに、全焼のいけにえや、その他のいけにえを喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。
15:23 まことに、そむくことは占いの罪、従わないことは偶像礼拝の罪だ。あなたが主のことばを退けたので、主もあなたを王位から退けた。」

 サウルはアマレクを聖絶せよという主の命に背き、良いものだけを取り除いた。ここで、神の方法によらなければ、人の行為は醜く神の損失となるのだということが描かれている。これは、肉の象徴であり、自我そのものである。

 私たち人間の体を見てもわかる。一つ一つの細胞は自分の分をわきまえるときにのみ健全でありうる。もしそのようになく、自分のあるべき場所をわきまえないで際限なく広がり繁栄しつづけようとしているのを見るなら、それはがん細胞である。彼そのものは生き、強くなる。しかし、体全体は滅びるのだ。

 神のみ声を聞かず、自分の良かれと思う道は神の道ではない。神の法を自分の良かれと思うままに判断し決定付けるのは肉の意欲そのものであり、パリサイ人の信仰である。ペテロもまた善意で十字架の前のキリストをいさめ、恐ろしくも「十字架にかかるというようなことがあってはならないことです」と発言する。主は激しくサタンの心を退けられた。彼の善意は神のみ声を聞くことを求めていない。神のことを思っていない。もし、へりくだりと神のみ声を聞く心を持って聞くなら、人はイエス・キリストの言葉を受け入れるであろう。

ローマ書6:3-11

6:3 それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。
6:4 私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。
6:5 もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。
6:6 私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。
6:7 死んでしまった者は、罪から解放されているのです。
6:8 もし私たちがキリストとともに死んだのであれば、キリストとともに生きることにもなる、と信じます。
6:9 キリストは死者の中からよみがえって、もはや死ぬことはなく、死はもはやキリストを支配しないことを、私たちは知っています。
6:10 なぜなら、キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、キリストが生きておられるのは、神に対して生きておられるのだからです。
6:11 このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。

 あなたは、キリストとともに死んで、今あるのはキリストの新しい命を生きているものだ(過去形)と知りなさい、と語る。もしいまなお、肉なる自分の立場、感情を言い張るなら、それは体のがん細胞と同じ働きとなる。ここに、私たちの内側にこそ、いつも問題がある。
 私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。もし私たちがキリストとともに死んだのであれば、キリストとともに生きることにもなる。
 「私」は問題ではない。ただ、神によって「生きることはキリスト、死ぬこともまた益」なのである。
 「私の気持ちはどうなるの?」というような教会には争いが絶えない。いま、肉によって自らを力強く生きることを望むのではない。私たちの既に与えられている命の立場を思うなら、神の損失となってしまう、人から出ることをではなく、ただ、我らは神の心を求める。

ローマ書6:7-9

6:7 死んでしまった者は、罪から解放されているのです。
6:8 もし私たちがキリストとともに死んだのであれば、キリストとともに生きることにもなる、と信じます。
6:9 キリストは死者の中からよみがえって、もはや死ぬことはなく、死はもはやキリストを支配しないことを、私たちは知っています。