福音集会 福音・学び 概要

鈴ヶ峰 キリスト 福音館

2002年10月27日(日)

求められた信仰

Br. T.Hiraoka


 

――イスラエルの信仰――

旧約聖書は「旧い約束」という語で書かれてあるが、イエス・キリスト以前の約束である。すなわち、旧約聖書はほとんどイスラエルの民に対して語られた。そして、その中において全世界に対する公平な救い主として現れてくださっている。
 神とはどんなお方か。選ばれたものがどういったものなのか。という歴史を見る。これによって、イスラエルを取り囲む全世界の民が神の取り扱いを受けたイスラエルの神をどのように見たかという証がなされるのだ。

 ただ、どの時代にあっても信仰を持つものに祝福を与えられる。
 イスラエルに向けられる神のみ業に一つの焦点を置いて全世界の民が見るように証されたということである。
 全世界は祝福されたイスラエルを見、また呪われたイスラエルを見た。

 しかし、この意味でイザヤが言っているように、「子らはわたしが大きくし、育てた。しかし彼らはわたしに逆らった。牛はその飼い主を、ろばは持ち主の飼葉おけを知っている。それなのに、イスラエルは知らない。わたしの民は悟らない。(イザヤ書1:3)」反逆の歴史をつづった。その中で幾たびも、なお立ち返り救われることを望む神の愛が流れている。

 最後のマラキ書は「私はあなたを愛している」という言葉から始まる。「あなたはどのように愛されたのですか」「エサウはヤコブの兄ではなかったか」
 なぜ生まれる前から決めておられるのだろう。しかし、創造者の御心は示され、ヤコブを通してイスラエルの歴史を通して信仰と人間の罪深さを示された。

 民はモーセによって戒めを受けたが結局反逆した。
 その後ダビデ・ソロモン――子たちの時代には反逆して分裂。
 反逆の歴史をつづりバビロン捕囚に至る。
 渇望とともに帰還。
 祝福の中でひと時繁栄を勝ち取るかのようである。しかし豊かになっていった後のユダヤ・ヘロデ大王は最終的にイエス・キリストを迫害した。
 主はヨハネを遣わして父の心を子に向けさせるための悔い改めのバプテスマを説き、キリストの道備えをしたが、民は受け入れなかった。

 これがイスラエルの歴史になる。これらのことを預言者は嘆きを持って語っている。このイスラエルこそ時が満ちるときだった。

ピリピ2:6-11
2:6 キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、
2:7 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。
2:8 キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。
2:9 それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。
2:10 それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、
2:11 すべての口が、「イエス・キリストは主である。」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。

 パウロを通してこのように聖霊はイエス・キリストを語った。
 イスラエルの民の系図の歴史からメシアを起こし、イスラエルをまず購い、全世界に救いを与えるために遣わされた。
 しかし、多くのものの欲望はキリストを釘付けにした。

 このようにして死を遂げられた主を、弟子たちは、失意の中でひと時をすごさなければならなかった。が、主は出会われた。しかし、そこにトマスだけがいない。トマスは主の御手、御わき腹に手を差し入れなければ決して信じないという。復活の主は弟子トマスに会われ、そして言われた。
「あなたは見たから信じたのですか」と。
「信じないものにならないで信じるものになりなさい。」――『不信者ではなく信者であれ』

 このことばこそ、神が「イスラエル」に語られるメッセージだ。
 信じないものではなく信じるものであれ。見ずに信じるものは幸いである。
 ここには、主への本当の意味の信頼関係がある。そして、神の私たちに求められる信仰がある。
 それはまた、私たちも今、生きておられるキリストに対して生ける体験を持つことを願う。しかし、この体験をもって、はじめてそれを信仰の「証拠」とすることなのではなく、完全な信頼のうちにおいて、生けるキリストを求める信仰こそ主の求められた「信頼」から生みだされるものということであろう。

 イスラエルの体験した歴史を私たちは学ぶものである。今の時代に私たちは、イスラエルの不信仰を見る。イスラエルの不信仰は私たちに望まれた信仰を示すことができる。私たちが主の望まれた信頼とは何なのかについて共に心を留めたいと思う。