福音集会 福音・学び 概要

鈴ヶ峰 キリスト 福音館

2002年10月27日(日)

見よ神の慈愛と峻厳とを

 

――証しの民――

ローマ11:22-24
11:22 見てごらんなさい。神のいつくしみときびしさを。倒れた者の上にあるのは、きびしさです。あなたの上にあるのは、神のいつくしみです。ただし、あなたがそのいつくしみの中にとどまっていればであって、そうでなければ、あなたも切り落とされるのです。
11:23 彼らであっても、もし不信仰を続けなければ、つぎ合わされるのです。神は、彼らを再びつぎ合わすことができるのです。
11:24 もしあなたが、野生種であるオリーブの木から切り取られ、もとの性質に反して、栽培されたオリーブの木につがれたのであれば、これらの栽培種のものは、もっとたやすく自分の台木につがれるはずです。

 22節は次のようにも書かれてある。「見よ、神の峻厳と恵みを」
11章のなかには、イスラエルの救いの計画と終わりの時代に回復され祝福されることが預言されている。イスラエル民族は神が特別に選ばれた民であり、主が神の御業の見本として立たしめたのである。

 ナポレオンはあるとき、クリスチャンに「神を証明せよ」と命じた。そのときクリスチャンは何をするでもなくただひとつの動作をしたという。ユダヤ人を指差したのである。「イスラエル人を見れば神の業が見える。」

日本では神への恐れがなく、人間的な「なーなー」で生きているところがある。私たちの社会ではほとんど無期懲役の裁判を受けても実際は何十年かで釈放されるという。実際の厳しさに直面することは少ない。しかし、神の取り扱いにそのような甘えはない。それは、イスラエルの歴史を見れば分かる。
 申命記で主は「あなた方が神に従えば祝福される。しかし、神を捨てるなら心がなえるようになる」と宣告された。
 そのとおりに、かつて反逆の歴史の内にあって、旧約の王たちは目をえぐられた、それが契約を犯したものの結果だった。また、近代のユダヤ人は苦しみと迫害の中で生きなければならなくなった。自分の目の前で子どもが殺されていくのを見なければならない親。神の裁きは何たるかを彼らはその身をもって証している。

私たちは「まさか神はそこまではやらないだろう」と思っている。しかし、神の裁きはひとたび決定されれば文字通りそのようになる。結局我々の不敬虔な心は神を侮っている、ということなのだ。たしかに、日本人もこの終わりの時代、「厳しさ」というものがどういうものなのかを段々と分かるようになってきた。日本財政の問題、金融の不良債権問題、北朝鮮問題。あくまでも徹底的に実行すれば改善されると言うことを理論上では言及できても実際そこまでは出来ない。結局、それほどまでの決定的な決断を下すことは出来ないのだ。

堕落を重ねて欲と汚れが覆い尽くす終わりの時代は容赦されることはない。イスラエルを見れば神の御手の厳しさを知るであろう。

堕落が天に達するとき、終わりの日は突如としてやってきた。ポンペイ火山の遺跡は、ほんのわずかな時間のうちに繁栄した大都市が滅びたことを物語っている。発掘されるそれらの遺跡には、当時の社会生活の全容を明らかに出来ないほど言葉に言い難い道徳的な汚れに満ちていることがあらわされているようだ。まさしく罪が天に上ったのである。ソドムとゴモラのように。
 日本も例外ではない。また、繁栄の国、自由の国、私たちがそういっている国こそ堕落した放縦の社会である。今は、ラストの時代である。神の裁きのときは近づいた。イスラエルを見るのと同じように神の厳しさを見ることになる。

Uコリ2:14-16
2:14 しかし、神に感謝します。神はいつでも、私たちを導いてキリストによる勝利の行列に加え、至る所で私たちを通して、キリストを知る知識のかおりを放ってくださいます。
2:15 私たちは、救われる人々の中でも、滅びる人々の中でも、神の前にかぐわしいキリストのかおりなのです。
2:16 ある人たちにとっては、死から出て死に至らせるかおりであり、ある人たちにとっては、いのちから出ていのちに至らせるかおりです。このような務めにふさわしい者は、いったいだれでしょう。

  クリスチャンの立場もイスラエルと同じように神の救いの見本として召されている。かつて勝利者としてローマ兵が捕虜や戦利品を引き連れて凱旋したのを人々が称えたように、私たちはキリストの勝利に預かるものである。キリストの勝利の証人として私たちは人々の前に引きずり出されている。キリストの捕虜のように、だがしかし、よい香りとしての人々の見世物としてである。世がクリスチャンを見るとき、キリストの救いの素晴らしさを見せつれけられることになる。神の救いがいかに尊く、素晴らしいことを見せ付けると同時にそれに預からないことへの悲惨さをも証しするのである。人はこれを見て選択を余儀なくされる。キリストの命の香りか、それとも死にいたらせるものか。

Uコリ6:8にパウロの証がある。
6:8 また、ほめられたり、そしられたり、悪評を受けたり、好評を博したりすることによって、自分を神のしもべとして推薦しているのです。私たちは人をだます者のように見えても、真実であり、
6:9 人に知られないようでも、よく知られ、死にそうでも、見よ、生きており、罰せられているようであっても、殺されず、
6:10 悲しんでいるようでも、いつも喜んでおり、貧しいようでも、多くの人を富ませ、何も持たないようでも、すべてのものを持っています。

 パウロの生活は、誰も彼の生活を求めるようなものではない。石打ち、難船、偽兄弟の難・・・。しかし、彼は「死にそうであっても見よ生きており悲しんでいるようでも、いつも喜んでいる」と証する。神はこのクリスチャンを通してご自身の栄光をあらわしておられる。苦しみのさなかで聖霊の喜びに預かるものの姿を知らしめておられる。
 悲惨な状況下にあったのに、そのようなパウロに多くのものが求めてきた。牢獄の中で看守が伏して求めたように「私にあなたの救いを教えてください」と。

 クリスチャンの中にはそのような神の御力があふれ出るのだ。なぜなのだろうか。
それは、神は神ご自身のためにそのように見本として聖徒を召しているからである。
 イスラエルは神の祝福と裁きをその存在を持って示した。
 そして今、クリスチャンは神の恵みを示す存在である。神がそのように召されたのである。