福音集会 福音・学び 概要

鈴ヶ峰 キリスト 福音館

2002年11月10日(日)

とりなしの祈り

 

――神の裁き――

ダニエル9:2-6
9:2 すなわち、その治世の第一年に、私、ダニエルは、預言者エレミヤにあった主のことばによって、エルサレムの荒廃が終わるまでの年数が七十年であることを、文書によって悟った。
9:3 そこで私は、顔を神である主に向けて祈り、断食をし、荒布を着、灰をかぶって、願い求めた。
9:4 私は、私の神、主に祈り、告白して言った。「ああ、私の主、大いなる恐るべき神。あなたを愛し、あなたの命令を守る者には、契約を守り、恵みを下さる方。
9:5 私たちは罪を犯し、不義をなし、悪を行ない、あなたにそむき、あなたの命令と定めとを離れました。
9:6 私たちはまた、あなたのしもべである預言者たちが御名によって、私たちの王たち、首長たち、先祖たち、および一般の人すべてに語ったことばに、聞き従いませんでした。

 これは、エルサレムの復興の祈りのうちにあって記されたものだ。

 ダニエル自身の人生は主のみ前に敬虔であった。義人として認められる者が、ここにとりなしの祈りをしている。そして、その祈りに主は応えておられる。

ダニエル9:20-23
9:20 私がまだ語り、祈り、自分の罪と自分の民イスラエルの罪を告白し、私の神の聖なる山のために、私の神、主の前に伏して願いをささげていたとき、
9:21 すなわち、私がまだ祈って語っているとき、私が初めに幻の中で見たあの人、ガブリエルが、夕方のささげ物をささげるころ、すばやく飛んで来て、私に近づき、
9:22 私に告げて言った。「ダニエルよ。私は今、あなたに悟りを授けるために出て来た。
9:23 あなたが願いの祈りを始めたとき、一つのみことばが述べられたので、私はそれを伝えに来た。あなたは、神に愛されている人だからだ。そのみことばを聞き分け、幻を悟れ。

 エルサレムの回復とメシアの表れ、裁きについて語られていくとき、神の心にあるものが示される。

 クリスチャンの立場の中には、「私は救われた。赦されている」と他者と区別する心がある。それは神の前に事実である。だが、ここでのダニエルの祈りの姿はどうだろう。自分の罪と民の罪を告白し、とりなし、その彼を主は受け入れておられるのである。彼が神の心となるとき、民の不義のゆえにダニエル自身の悔い改めの痛みを伴う痛みとなり、その痛みを担うとりなしをここでしている。

 イエス・キリストの救いは、神の恵みと裁きが明らかにされる。実際、バプテスマのヨハネは預言者として神と人間の間に立つ最後(主のみ前に整える)のメッセンジャーであった。それは裁きの通告であった。預言者は仲介的役割を持って人々に神の言葉を語る。そのヨハネは一体どのようにイエスを証したか。

マタイ3:1-12
3:1 そのころ、バプテスマのヨハネが現われ、ユダヤの荒野で教えを宣べて、言った。
3:2 「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」
3:3 この人は預言者イザヤによって、「荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ。』」と言われたその人である。
3:4 このヨハネは、らくだの毛の着物を着、腰には皮の帯を締め、その食べ物はいなごと野蜜であった。
3:5 さて、エルサレム、ユダヤ全土、ヨルダン川沿いの全地域の人々がヨハネのところへ出て行き、
3:6 自分の罪を告白して、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けた。
3:7 しかし、パリサイ人やサドカイ人が大ぜいバプテスマを受けに来るのを見たとき、ヨハネは彼らに言った。「まむしのすえたち。だれが必ず来る御怒りをのがれるように教えたのか。
3:8 それなら、悔い改めにふさわしい実を結びなさい。
3:9 『われわれの先祖はアブラハムだ。』と心の中で言うような考えではいけません。あなたがたに言っておくが、神は、この石ころからでも、アブラハムの子孫を起こすことがおできになるのです。
3:10 斧もすでに木の根元に置かれています。だから、良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。
3:11 私は、あなたがたが悔い改めるために、水のバプテスマを授けていますが、私のあとから来られる方は、私よりもさらに力のある方です。私はその方のはきものを脱がせてあげる値うちもありません。その方は、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります。
3:12 手に箕を持っておられ、ご自分の脱穀場をすみずみまできよめられます。麦を倉に納め、殻を消えない火で焼き尽くされます。」

 バプテスマのヨハネの証した主イエスの姿は神の裁きである。まるで、ノアの箱舟の扉が閉められていく前に語りかけられている言葉のようだ。
 ダニエルのとりなしもやはり、裁きの日からの救いについてであった。主が来られるのは裁きの日である。

3:12 手に箕を持っておられ、ご自分の脱穀場をすみずみまできよめられます。麦を倉に納め、殻を消えない火で焼き尽くされます。」

 このような言葉をもってヨハネは主の道を整えている。聖書は誤りなく、神の心に適っている。では、なぜこのようなヨハネの宣告がイエスの御前に相応しいのだろうか。(イエス・キリストの救いはどのような段階を経ているのかというと、これらのこと(ヨハネの声)を通して罪の代価となられる主イエスの語られるみ言葉を人々が聞く道備えをしたのだ。)
 しかし、人々はヨハネもイエスも除いた。そして罪が明らかになった。多くのクリスチャンはあいまいにイエスの福音をメッセージする。しかし実際はヨハネの宣告の如く、からを消えない火で焼き尽くすという厳しい裁きがあるのである。(どれだけ主の心に適ってとりなしと悔い改めのメッセージが必要なことか)

 今の時代、福音を聞きたくても聞けないと言う人々・地域は限られている。そのような時、主の福音はとりなしの祈りと共に厳粛に語られなければならない。
 ダニエルのように「私たちの罪、地上の罪」について告白し、厳粛に福音(赦し)を必要としていたようにだ。
 私たちの託された福音にはあいまいなものはない。
 光でないものが光を装う時代にあって神の正しい裁きの現実を知ることは、同時にイエス・キリストの内にある救いの尊さ、キリストへの信仰の偉大さを知ることになる。いま、神の心に立って信者がとりなしをすることの大切さを認識したい。