福音集会 福音・学び 概要

鈴ヶ峰 キリスト 福音館

2002年11月10日(日)

わたしを試してみよ

 

――神の真実――

ガラテヤ6:7-8
6:7 思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。
6:8 自分の肉のために蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊のために蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。

 神の前におけるクリスチャンが神に対してどのように立っているか。このように問われるとき、この個所は叱責として私たちに語られることもあるかもしれない。しかし、受け取り方によっては幸いである。

神は侮られるような方ではありません。神は全ての善と悪を正しく評価される。それ(そのことを知る知り方)によって私たちの神への信頼度が明らかになる(される)。もし、善悪に対してあいまいなら私たちは表面的な、おべっかで主の前に相対するようになる。

 だが、自分の肉のために蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊のために蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。とある。御霊の為に蒔く者は、御霊から永遠の命を刈り取る。ここに示されることは、主がクリスチャンの良き業を忘れないでおられる、報いないではおられない方であるということである。神の真理と正しいさばきは聖徒の受けるべき喜びである。
 この方には絶対失望させられることがないという上に、私たちの信頼が成り立っている。

Uテモテ2:11-13
2:11 次のことばは信頼すべきことばです。「もし私たちが、彼とともに死んだのなら、彼とともに生きるようになる。
2:12 もし耐え忍んでいるなら、彼とともに治めるようになる。もし彼を否んだなら、彼もまた私たちを否まれる。
2:13 私たちは真実でなくても、彼は常に真実である。彼にはご自身を否むことができないからである。」

 神はご自身を否むことができない。ご自分の義を曲げることはできない。ここに神への信頼がある。これは原則である。その主がご自身の真実を約束して私たちに語りかけておられるのである。

マラキ3:10-12
3:10 十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。こうしてわたしをためしてみよ。・・万軍の主は仰せられる。・・わたしがあなたがたのために、天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうかをためしてみよ。
3:11 わたしはあなたがたのために、いなごをしかって、あなたがたの土地の産物を滅ぼさないようにし、畑のぶどうの木が不作とならないようにする。・・万軍の主は仰せられる。・・
3:12 すべての国民は、あなたがたをしあわせ者と言うようになる。あなたがたが喜びの地となるからだ。」と万軍の主は仰せられる。

 わたしを試してみよ――これは惑いの試みではない。自分の都合によって神がどうされるか見るという侮りから出ていることではなく、信仰を持って自分を主のみ前に捧げるプロセスであり、チャレンジである。
 神が不真実であるなら、私たちははじめから期待しないであろう。そして、もし私たちがそのように理解するなら、同様にこの態度をとることになる。
 だが、神は真実な方である。神はご自身の前に正しく立つ者に対して報いを与えないではおられない方だ。しかも、具体的な方法によって満たす祝福を用意しておられる。「私はあなたの為にいなごをしかった」とある。それは観念ではなく、実証される報いを持って注がれる恵みである。主は実証して見せようとおっしゃっておられる。

 私たちの人生でも、同じように語られ、信仰を問うておられる。
 人は「もしできるものなら救ってください」と言った。この言葉は主に対して語りかけるべき言葉ではない。
主にではなく自分に対してこそ言うべき言葉である。私が信じることができさえすれば、信仰に徹することができるなら神は豊かに祝福される。不完全さは神にではなく、只自分にある。神は真実な方である。私たちが不完全であってもだ。だから、私たちが信頼しきるものとなるように祈り求める必要がある。
 主の信仰のチャレンジに対して、私たちが受け取ることができるなら幸いである。