福音集会 福音・学び 概要

鈴ヶ峰 キリスト 福音館

2002年11月17日(日)

主は心を見る

 

―― 生きておられる主の御前に生きる――

Tサムエル16:6
16:6 彼らが来たとき、サムエルはエリアブを見て、「確かに、主の前で油をそそがれる者だ。」と思った。
16:7 しかし主はサムエルに仰せられた。「彼の容貌や、背の高さを見てはならない。わたしは彼を退けている。人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る。」

 これは、サウル王の後継者としてイスラエルの王を主ご自身がお立てになるとき、イスラエルのための主のしもべ・王を任命するとき、主がサムエルに語られた言葉である。非常に有名な言葉でよく聞いている。彼の容貌や、背の高さを見てはならない。人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る。
 つづけて、このテーマに基づき、福音書から主の御言葉を聞いてみたい。

ルカ福音書 6:14,15
16:14 さて、金の好きなパリサイ人たちが、一部始終を聞いて、イエスをあざ笑っていた。
16:15 イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、人の前で自分を正しいとする者です。しかし神は、あなたがたの心をご存じです。人間の間であがめられる者は、神の前で憎まれ、きらわれます。

 ここでも、イエス・キリストのみ言葉を通して同じことが言われている。人前では自分を正しく見せるが、神はあなた方の心をご存知だ。神は心をみるのだ、とイエス様は言われる。人前で自分を正しくするとは、うわべの生き方である。イエス様は彼らパリサイ人の偽善を退けておられる。偽善は人の容貌や背の高さと同じ、うわべである。旧約で示されたことも、ここで主が言われたことも、「神が何を見ているのか」というと、ただ「心を見ているのだ」ということである。このことはクリスチャンであれば誰でもよく理解している。しかし、真実に神の御前に人格的に相対し恐れを持って生活しようとするなら、私たちの態度はもっと厳粛なものとなる。
 人がたとい「行為の結果」としては全く同じ事をしていたとしても、また、見えるところに全く同様な働きをしていたとしても、神はその結果だとか、表れている働きのうわべのことではなく、神が見ておられるのはその人の心なのだと言うことがいえる。それは、私たちの目には区別のつかないものである。人はうわべを見るが、主は心を見るからである。(無論、霊的視野において洞察することは出来るだろう)表れでた行為の現象が全く同じであろうと、主が見ているのは心である。そして、ここには私たちの心が主の御前に立っているかどうかという神の前における厳粛な区別がある。

マタイ福音書25:31-46
 ここにさばきのときの光景が描かれている。さばきとは、神が何を見ておられるかという神の厳粛な評価のとき、と言っても良いだろう。
25:31 人の子が、その栄光を帯びて、すべての御使いたちを伴って来るとき、人の子はその栄光の位に着きます。
25:32 そして、すべての国々の民が、その御前に集められます。彼は、羊飼いが羊と山羊とを分けるように、彼らをより分け、
25:33 羊を自分の右に、山羊を左に置きます。
25:34 そうして、王は、その右にいる者たちに言います。『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。
25:35 あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べる物を与え、わたしが渇いていたとき、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し、
25:36 わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです。』
25:37 すると、その正しい人たちは、答えて言います。『主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹なのを見て、食べる物を差し上げ、渇いておられるのを見て、飲ませてあげましたか。
25:38 いつ、あなたが旅をしておられるときに、泊まらせてあげ、裸なのを見て、着る物を差し上げましたか。
25:39 また、いつ、私たちは、あなたのご病気やあなたが牢におられるのを見て、おたずねしましたか。』
25:40 すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』
25:41 それから、王はまた、その左にいる者たちに言います。『のろわれた者ども。わたしから離れて、悪魔とその使いたちのために用意された永遠の火にはいれ。
25:42 おまえたちは、わたしが空腹であったとき、食べる物をくれず、渇いていたときにも飲ませず、
25:43 わたしが旅人であったときにも泊まらせず、裸であったときにも着る物をくれず、病気のときや牢にいたときにもたずねてくれなかった。』
25:44 そのとき、彼らも答えて言います。『主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹であり、渇き、旅をし、裸であり、病気をし、牢におられるのを見て、お世話をしなかったのでしょうか。』
25:45 すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、おまえたちに告げます。おまえたちが、この最も小さい者たちのひとりにしなかったのは、わたしにしなかったのです。』
25:46 こうして、この人たちは永遠の刑罰にはいり、正しい人たちは永遠のいのちにはいるのです。」

 ここには、譬えとして羊飼いが羊と山羊とを分けるように、彼らをより分けるという裁き(誠実をテーマにするとき祝福がテーマとなる。偽善をテーマにするとき、ここは裁きのテーマである)の光景が描かれている。ここにでてくる羊とやぎは本質的に異なる。しかし、表面的には、見分けにくく、羊もやぎも似たような姿をしている。また、ここにおいても行為の結果としては羊も山羊も似たようなことをしたかもしれない。
 羊の側に立つ者は、「私はいつ主にそのようなことをして差しあげましたか」と言っている。山羊の側にいる者もまた「私がいつ主にそのようなことをして差しあげなかったのでしょうか」と言う。このことは、行為の結果や、表面に出てくる問題に対しては全く似たことを実行したかもしれない。しかし、主を恐れるという心においては、本質的な隔たりがある。
 人はうわべを見るが、主は心を見ると書いてある。それは、主の前にある私たちの心だけが、また心から出てくる行為だけが、その人の神の評価だということである。それ以外のことは何も役に立たない。仮に同じ事を羊も山羊もしていたとしても、行為の結果が同じようであっても、神が評価するのはうわべではなくその人の神の前にある心であると語っている。

 このたった一つのことを差し置いて働きの現象に目を奪われてはならない。主への心――このことは、旧約の時代からずっと神が私たちに示して来られたことである。今朝、礼拝で覚えた聖句の中にあった言葉をもう一度開きたい。
「マタイ22:36-40 「先生。律法の中で、たいせつな戒めはどれですか。」そこで、イエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』
22:38 これがたいせつな第一の戒めです。
22:39 『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。
22:40 律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」」
 心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。旧約の律法が、何が神の前に大事なのかと私たちに語りつづけてきたことはここにある、と主イエスは語られた。律法はただ主なる神の前における人間のあるべき心の姿を諭している。また、それに伴う裁きもまた主の御前にある心に対して問うている。神の前にあるということを無視した人の全ての行為は醜く、神にとっての何の利益も生み出さない。それは人の肉の限界である。
 しかし、そのように汚れ果て、神の前に生きることの出来ない罪びとであった人々が大勢救い主の御前に出て行く(置かれる)。これが、福音書に出てくるキリストと群集たちとの立場であった。人は罪深く、心において神の前に汚れ果てていた、そのような私たちの間にイエス様が来てくださって、私たちを救い主イエス御自身の御前において下さった。私たちに相対してキリストが立ってくださった。これが福音宣教で示されているイエス・キリストの御姿であったかと思う。
 罪深き取税人や姦淫を犯したもの、汚れた病人、汚れ果てた状態で告発され滅ぼされるべき私たちがキリストの御前に投げ出されている。しかし、主は仰ぐべきお方として(私たちの)前に立っておられる。このとき、罪深い者が心において真実にイエス・キリストの御前に(心から)出ているとき、この罪びとは神の御前で自分自身を置いている。それは、心から神の御前に出ている姿にほかならない。神の御前に自分の心を置いて出ているとき、(私たちは)前に立っていてくださる主の御顔を仰ぐことが出来る。そのとき、主は悔い改めを伴うこの汚れた人の罪・重荷を担い、赦してくださった。そして、それこそ福音書の主イエス・キリストの救いと癒しの光景ではなかっただろうか。

 このようなことを見ていくとき、何がイエス・キリストの御前に大事なのか、というと、それは行為・働きの結果が全く同じであろうと、神の前にある自らの心だけが大切なのだということである。人はうわべを見るが主は心を見る。心から出てくるその行為を見ておられる。わたしたちの心だけが見ておられるということなのだ。

 先ほどのマタイ福音書25章の譬え話の前の段落に、タラントを預かるしもべが出てくるこのような別の譬えがある。
 5タラント預かったしもべは、さらに5タラント儲け、2タラント預かったしもべはさらに2タラント儲けた。彼らは主人の喜ぶ忠誠を持って仕えた。しかし、最後の1タラント預かった一人は、主人が恐ろしかったので、地にそれを隠し、このように言う。
25:24 ところが、一タラント預かっていた者も来て、言った。『ご主人さま。あなたは、蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めるひどい方だとわかっていました。
25:25 私はこわくなり、出て行って、あなたの一タラントを地の中に隠しておきました。さあどうぞ、これがあなたの物です。』
こういう人に対して主人は、裁きの宣告をされた。
 このしもべの姿を見たとき、私たちは客観的に、彼(しもべ)のやり方が裁かれるほどの罪悪だっただろうか、と思うかもしれない。預かった1タラントそのままを主人に返して損失しなかったではないか、というのが彼の主張であり、もっとものようにも聞こえなくはない。しかし、このしもべに対する主人(神)の取り扱いは、25:30 役に立たぬしもべは、外の暗やみに追い出しなさい。そこで泣いて歯ぎしりするのです。というものである。これは裁きである。彼の行為は、それほどの罪悪に相当するようには見えない、と私たちは思うかもしれない。しかし、彼は裁かれた。
 彼の行為は主人の財産を損失させなかったかもしれない。だが、彼の心の状態は主人の前に生きていないのは明白である。彼の心は主人の前に閉ざしている。神である主人を真実に生きておられるお方として自分を取り扱っておられるという、この現実には目を向けていないのである。行なったうわべだけの生き方と同じである。心を見られる神、心を見られる主人の前に生きていないからこそ、あのようなことが出来るのである。心から主の前に立っていないからこそ出来る行為である。彼の努力はあったし、また、損失しなかった結果がある。しかし、心を主の御前に立たずして行った彼の生き方は本質的に偽善である。そしてこれが、神の評価である。

 律法の中で何が大切ですかという問いに、主は「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』」と答えられた。それは、生きておられる主の御前に真実に生きるということを言っている。生きておられる主を認識した歩みである。別の聖書の言葉で言い換えれば、神の前に「誠実である」ことである。
 主は別の個所で何と言われただろうか。「パリサイ人たち、あなた方は偽善である。もっとも大切にしなければならないのは、あわれみであり神(へ)の愛であり、神の御前に誠実に生きることではないか」(異表現)といわれた。あなた方はいろんな捧げ物をしている。行為の結果としては、義人のような正しいことをしているけれども、最も大切な神の前における心をなおざりにしているではないか。正義も神の愛もあわれみも。 このあわれみと言う言葉は別の訳では「神の前における誠実もなおざりにしている。」と表現されている。
 偽善とは、行為の結果としては全く良いことを神の前にしているようであるが、神の前に心を持って出ていない状態を指している。

 イエス様が語り、旧約聖書がずっと示していることは、偽善から出てくる結果は何一つ神の前に評価されない。まして、そのようなものは望んではおられない。主が人に対して言われたのは、ただ神の前に誠実に生きることではないか(ミカ6:8)、ということが聖書全体の語り掛けである。人はうわべを見るが、主は心を見る。

 生きておられる主を前にした歩みとは、私たちを裁くためのメッセージではない。ただ、聖書が語りつづけ、イエス様が示しておられたことを再認識するなら、肉によって陥りやすい行為の現象に目を奪われることもなくなるであろう。現象だけを見るなら、人にはほとんど区別がつかない。羊も山羊も似たようなものに見える。しかし、主の御前には心だけが大事である。それは、とりもなおさず「主の御心だけを思う」という私たちの霊的状態が確立されることに導かれることだと思うのである。