福音集会 福音・学び 概要

鈴ヶ峰 キリスト 福音館

2002年11月17日(日)

力ある信仰へ

 

―― 枯れたいちじく――

マタイ21:17-22
21:17 イエスは彼らをあとに残し、都を出てベタニヤに行き、そこに泊まられた。
21:18 翌朝、イエスは都に帰る途中、空腹を覚えられた。
21:19 道ばたにいちじくの木が見えたので、近づいて行かれたが、葉のほかは何もないのに気づかれた。それで、イエスはその木に「おまえの実は、もういつまでも、ならないように。」と言われた。すると、たちまちいちじくの木は枯れた。
21:20 弟子たちは、これを見て、驚いて言った。「どうして、こうすぐにいちじくの木が枯れたのでしょうか。」
21:21 イエスは答えて言われた。「まことに、あなたがたに告げます。もし、あなたがたが、信仰を持ち、疑うことがなければ、いちじくの木になされたようなことができるだけでなく、たとい、この山に向かって、『動いて、海にはいれ。』と言っても、そのとおりになります。
21:22 あなたがたが信じて祈り求めるものなら、何でも与えられます。」

 17節に「都を出て」18節で「都に帰る」。この都とはエルサレムの神殿の在る都である。イエス・キリストは都においてご自身をお示しになった。預言者が迫害される都エルサレム。エルサレムにおいて示されるご自身の姿はイスラエルの背信という形で明らかにされるのであった。

21:19 道ばたにいちじくの木が見えたので、近づいて行かれたが、葉のほかは何もないのに気づかれた。それで、イエスはその木に「おまえの実は、もういつまでも、ならないように。」と言われた。すると、たちまちいちじくの木は枯れた。
 ここには隠されたメッセージがあるはずだ。この心をみなければ主は横暴でなんと自分勝手な人だ、ということになる。いちじくには葉のほかには何もない。他の個所では、実のなる季節ではなかったからだとある。
20-22 弟子たちは、これを見て、驚いて言った。「どうして、こうすぐにいちじくの木が枯れたのでしょうか。」 イエスは答えて言われた。「まことに、あなたがたに告げます。もし、あなたがたが、信仰を持ち、疑うことがなければ、いちじくの木になされたようなことができるだけでなく、たとい、この山に向かって、『動いて、海にはいれ。』と言っても、そのとおりになります。あなたがたが信じて祈り求めるものなら、何でも与えられます。」
イエスとはどういう方であるかと考察し、主の語りかける意図を少しでも理解しようとするなら、語られる22節のことを私たちは信じるだろうか。しかし、これは口先だけの言葉ではない。主のメッセージは何を語り、いままで何に目を留めておられたか。主が目を留めておられたもの、それは、小さいもの、幼子、仕える者である。
・20:26 あなたがたの間では、そうではありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。
20:27 あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、
あなたがたのしもべになりなさい。
・21:15 ところが、祭司長、律法学者たちは、イエスのなさった驚くべきいろいろのことを見、また宮の中で
子どもたちが「ダビデの子にホサナ。」と言って叫んでいるのを見て腹を立てた。
21:16 そしてイエスに言った。「あなたは、
子どもたちが何と言っているか、お聞きですか。」イエスは言われた。「聞いています。『あなたは幼子と乳飲み子たちの口に賛美を用意された。』とあるのを、あなたがたは読まなかったのですか。」

 いちじくの木は枯れた。イエスが求められたとき実がなかったのである。
 イエスの一行は、食料的な面でも歓迎されていなかった故に空腹になる現実があるのだと想定される。主の空腹をさえも支えることのないエルサレムの人々の状態は、葉は確かに茂って、見かけは繁栄している。しかし、主の求め、必要に対して何一つ実がない。当時のユダヤの信仰の状態そのものである。イエスが必要とされるときに役に立たないものである。(
その必要とはメシアの救いをさして語られていると思われる
 だが、必要なとき、幼い者がパンと魚を主の御前に差出した5000人の給食の記事を思うなら、差し出した子供のパンは祝福の源となり、12籠を余すほどになった。小さいものたちのうちに神の祝福は注がれた。しかし今、ユダヤの中にイエスの必要を満たすものはいないのである。
21:20 弟子たちは、これを見て、驚いて言った。「どうして、こうすぐにいちじくの木が枯れたのでしょうか。」
 いちじくが枯れた現象はうわべであって何でもない。全ての人々は信仰なしにイエスの御前に在る。ユダヤ人が信仰なしに主に相対している中にあって、主は弟子たちに主の主権を託され、主への信仰の人格的応答(幼子のように疑うことなく明渡す全信頼の姿勢)を求めておられる。
 動かすことのできないと思っているものも主への信仰によって動かすことができる。と主は語られた。不動の力、体制、時代、政治、人々の頑なさ・・・主は、いちじくが枯れるこの現象を通して内的な御心を語っておられる。イエスの言葉は文字通り文字の現象を可能とする。同時に霊的な意味を示しておられる。主を信ずる弟子たちは自分を支える大きな信仰(信頼)の力を理解したであろう。
 
まことに、あなたがたに告げます。もし、あなたがたが、信仰を持ち、疑うことがなければ、いちじくの木になされたようなことができるだけでなく、たとい、この山に向かって、『動いて、海にはいれ。』と言っても、そのとおりになります。あなたがたが信じて祈り求めるものなら、何でも与えられます。

 イエスは、今も私たちにこの信仰を求めておられる。都において主ご自身を表されたが、エルサレムは何一つ信仰を持ってこのお方に相対しなかった。主の御業は単に木が枯れることではなく、ユダヤ人が信仰なしにイエスと相対している中にあって、山をも動かす力ある信仰を目覚めさせる、弟子に対する主の心が流れている。