福音集会 福音・学び 概要

鈴ヶ峰 キリスト 福音館

2002年11月24日(日)

努力してはいる狭い門

 

―― 命がけの脱出――

主の福音宣教の言葉を見てみたい。

ルカ13:1-5
13:1 ちょうどそのとき、ある人たちがやって来て、イエスに報告した。ピラトがガリラヤ人たちの血をガリラヤ人たちのささげるいけにえに混ぜたというのである。
13:2 イエスは彼らに答えて言われた。「そのガリラヤ人たちがそのような災難を受けたから、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い人たちだったとでも思うのですか。
13:3 そうではない。わたしはあなたがたに言います。あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます。
13:4 また、シロアムの塔が倒れ落ちて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいるだれよりも罪深い人たちだったとでも思うのですか。
13:5 そうではない。わたしはあなたがたに言います。あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます。」

 5節にイエス様の厳しい言葉がある。「そうではない。わたしはあなたがたに言います。あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます。」
 私たちもこのメッセージを同じように聞いた。そして、同様にこの言葉が世界に対して向けられている。
悔い改めるということは――、滅びないためには、どうすればよいだろうか。

13:23 すると、「主よ。救われる者は少ないのですか。」と言う人があった。イエスは、人々に言われた。
13:24 「努力して狭い門からはいりなさい。なぜなら、あなたがたに言いますが、はいろうとしても、はいれなくなる人が多いのですから。

 「努力して」とある。努力とは、どういうことだろう。
 今、北朝鮮の報道が頻繁にある。彼らは北から脱国し、大使館などに駆け込む。命がけで逃れるとき、この「努力して狭い門から入る」ということの意味をよく理解できるはずだ。
 ここで語られる悔い改めることは、人ごとではなく、自分の問題だ。私たちは事件がおきたとき、他者の罪を指摘し発見するだろう。だが、神の前に問題があるのは自分がどう立っているのかということがまず問われている。聖書は、己が人を説得して悔い改めさせることよりも(優先して)、いつも自分自身の心にただ語りかけられている。

13:23 すると、「主よ。救われる者は少ないのですか。」と言う人があった。イエスは、人々に言われた。
13:24 「努力して狭い門からはいりなさい。なぜなら、あなたがたに言いますが、はいろうとしても、はいれなくなる人が多いのですから。
この「努力」をしなければならないとき、律法を守り行うべきでしょうか、何をすべきでしょうかと人は問う。しかし、ただ主は「わたしについて来なさい」と語りかけておられる。十字架を通してそのように迎えられるとき、人は御霊の命に触れることができる。
 努力して命がけで脱出する人々の姿は、現状にしがみついている姿ではなく、現在を捨てて脱出を計るものの姿である。それは確定している滅びから逃れ出ることでもある。ピョンヤンの人々の表情・会話を見る限り、完全な統制下、管理下におかれている自分の立場を認識している。はみ出すと抹殺されることを承知しているかのようだ。だから彼らは脱出を命がけにしている。
 努力とはどういうことだろうか。客観的には理解できる。だが、自分自身の体験される実際的なことから言えばどういうことになるだろう。ローマ書に9:15 神はモーセに、「わたしは自分のあわれむ者をあわれみ、自分のいつくしむ者をいつくしむ。」と言われました。9:16 したがって、事は人間の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのです。とある。この努力は肉の力ではないということである。

 自分の力で解決されるものではなくただ神の恵みによる。その上でなお、主が言われる努力とは何だろうか。
神の救いを受け止め、その救いの生活に入ることが、どれだけ非常態(奇跡)的なことであるか。自らのポジションにどれだけの変化が生じるか。金持ちが神の国に入るほどに難しい。私たちは当時の金持たちと何が異なるだろうか。平和な生活のうちにあって不足分を補うかのように神を求めるような姿はないか。本当に自分の命が危険にさらされている所に立っているのを知っているだろうか。「努力して入れ」とは、その緊急性、致命性を訴えかけられているあなたの立場ではないのだろうか。

 私自身、クリスチャンホームに育ち、幼いころから聖書から教えられ育った。恵まれた立場であろう。しかし、例外なく「努力して狭い門から入りなさい」と言われている。又、13:5「 そうではない。わたしはあなたがたに言います。あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます。」

 北朝鮮の人々はかわいそうだ、などといって、あなた自身、他人事ではない。言われているのは自分自身のほうなのである。キリストから離れているとき、死に足を踏み入れて歩んでいるのではないか。主を知らない自分の兄弟、家族、親しい友人にも同じように、5節の主の厳しい言葉が発せられている。

 主の言葉は「あなたがたも」と緊急性を持って、自分自身に目を向けるように言われた福音の言葉である。主はこのように教えられて、続けてたとえで話された。

ルカ13:6-9
13:6 イエスはこのようなたとえを話された。「ある人が、ぶどう園にいちじくの木を植えておいた。実を取りに来たが、何も見つからなかった。
13:7 そこで、ぶどう園の番人に言った。『見なさい。三年もの間、やって来ては、このいちじくの実のなるのを待っているのに、なっていたためしがない。これを切り倒してしまいなさい。何のために土地をふさいでいるのですか。』
13:8 番人は答えて言った。『ご主人。どうか、ことし一年そのままにしてやってください。木の回りを掘って、肥やしをやってみますから。
13:9 もしそれで来年、実を結べばよし、それでもだめなら、切り倒してください。』」

 キリストの救いが用意された上で語られる福音に心から受け止めるものは幸いである。