聖書研究会 概要

鈴ヶ峰 キリスト 福音館

2002年10月25日(金)

シリーズ:使徒の働き 16章

――福音の価値――

使徒16章

 

 これらはパウロの伝道旅行での事件である。
ある人はクリスチャンの信仰生活は退屈なものだと言うかもしれない。クリスチャンはあれをしてはならない。これをしてはならない。内側を見るばかりの生活である。しかし、聖書が言うクリスチャン生活はドラマティックなことで満ちている。
 まずパウロが福音に対してどのように見ているだろうか。

 それは「宝」であり、彼の生活はその宝を持っている者の廻りで繰り広げられるドラマと同じようなものだ。
福音という影響力をもち、イエス・キリストの命を持つものの廻りに多くの人がそれにかかわってくる。パウロの信仰生活に多くの事件があるのは、パウロが福音を「宝」としているところから生じるものなのだ。福音に生きるパウロであっても私たちが神秘的なものを伺うような完成した超越者なのではない。彼の信仰生活の中には模索した姿がある。すべてを見通し分かっているわけではないのだ。
16:6それから彼らは、アジヤでみことばを語ることを聖霊によって禁じられたので、フルギヤ・ガラテヤの地方を通った
16:7こうしてムシヤに面した所に来たとき、ビテニヤのほうに行こうとしたが、イエスの御霊がそれをお許しにならなかった
不確定の中で主のみ心を尋ね求めながら、幻を見る。16:9 ある夜、パウロは幻を見た。思いがいつも神にあったゆえだ。なぜそれが神から来たものと分かったのかは、信仰の良心によっている。

 信仰者は定められた路線をただ歩むのではなく、毎日が新しい一歩なのである。
もし、パウロが単に教えを述べているだけなら、多くの人々は魅力を感じることはできない。しかし、パウロの伝える福音が如何に宝のようであるか、その宝の真の価値を知っているが故に彼の廻りに多くの事件が待ち構えている。人々は彼とその宝を見過ごしにはできないのである。

パウロの働きを妨害するために占いの霊につかれた人が出てきた。悪霊は、私たちが何かひどく異様なタブーとして語るような異世界の出来事ではなく、神に敵対する霊が神の御霊の働きに立ちはだかっている姿だ。恐れや戸惑いによってこれに対峙するのではなく、主なる神ご自身を背にして権威を持って命ずる。
16:18 「イエス・キリストの御名によって命じる。この女から出て行け。」

パウロの信仰生活はいつも多くの者がかかわっている。この章だけでも、渇きを持つ者、悪霊につかれた者、この世の権力者、牢に入っている多くの囚人、看守とその家族、信仰者――使徒は、自分の命が危ういほどに福音に対して向かいつづけている。また、最悪の状況と思われる中において賛美があるのは福音の力だ。16:24 ふたりを奥の牢に入れ、足に足かせを掛けた。真夜中ごろ、パウロとシラスが神に祈りつつ賛美の歌を歌っていると、ほかの囚人たちも聞き入っていた。


だが、彼らが捕らえられ釈放されたとき、彼は長官に対して理由なく捕らえたことに対して抗議した。この抗議さえも、自分自身のために言っていることではないのだろう。無意味に無理解にキリストを信じる信仰に対して、クリスチャンを侮ることを許さなかった。それは、残されたほかのクリスチャンのためでもあり、また、偉大な福音の価値の故にではなかったろうか。

 「使徒の働き」本書に描かれるすべての事例は、律法なのではなく、神の導きの歴史である。私たちは使徒たちを導かれた主ご自身の御霊の働きを本書によって覚える。この聖霊の導きの歴史こそ「使徒の働き」の事件である。
 「福音」のとらえかたでなんと大きな差があることか。福音の価値をもし認識するなら多くの出来事が私たちの前に展開するだろう。御霊はその都度、神によって導かれるように私たちに語り指し示しておられる。

以下、テーマに基づく議論と話題