ヨハネ11章1節〜37節
ここに出てくるラザロの家庭は主がエルサレムに上られたときたびたび立ち寄られた場所だと思われる。
主はラザロとその姉妹たちを愛しておられた。しかし、その愛されていたラザロは病気にかかって死にそうであった。
姉妹はすぐに使者を主の元に遣わした。そして、病気であることだけを伝えた。ただそれだけで十分であった。主が必ず来て下さることを信じきっていたからである。まさにそのような信頼は主の心を動かす全き信頼である。
しかし、主はすぐにではなく、6節にあるように、その場所になお2日とどまられた。その間に愛するラザロは死んだ。弟子たちにも姉妹にも主の行動は理解できなかった。なぜなお2日とどまられたのか、また、主がそこに立ち会わなかったことが幸いなのかを。しかし、それは更に大きな栄光を表し、主を信じる弟子たちに主の大能をあらわす為、信じさせるためであった。
主は、祈ってもすぐには応えられなかったように感じる。すぐにはお応えにならない方、私たちがそのように感じたとしても、それには意味があり、そこには主のご計画があり、そして、私たちへの信仰の訓練がある。
そのとき、たとえ私たちが祈りに即座に応えられる結果を見ないとしても、私たちにはどこまでも主を信じきることが必要である。
マルタは弟の死を悲しんだが、望みをも持っていた。
既にマルタはイエスを神の子と信じていた。また、主のよみがえりに適うものであることをも告白している。
11:22
今でも私は知っております。あなたが神にお求めになることは何でも、神はあなたにお与えになります。」
主の全能と御力と大いなる信頼とを言い表している。
しかし、それでも
11:21
マルタはイエスに向かって言った。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに」。
と言っている。
また
11:24
マルタはイエスに言った。「私は、終わりの日のよみがえりの時に、彼がよみがえることを知っております。」
11:39
イエスは言われた。「その石を取りのけなさい。」死んだ人の姉妹マルタは言った。「主よ。もう臭くなっておりましょう。四日になりますから。」
マルタが愛し、そして信頼していた主に対して浴びせた言葉の中には、いずれも、限定された条件での救いであった。主の大能を制限した中での信仰であった。
「もし、ここにいてくださったなら」――
「終わりの時には」――
「既に4日になりますから」――
このときの彼女の信頼は、主を制限した限定的な信仰である。――場所・時期時間・経緯において。
主の大能と御力による救いを限定的にしか捕らえることができない御自分の愛する者の信仰を、主は更にご自身を信じきる者へと導かれた。ラザロの死と復活を通して、弟子たちが限られた領域で主を信じる信仰から完全な信頼へといざない、神の栄光をあらわされた。
私たちもまた、主が望まれたように限定された信仰によってではなく、ひたすら信じきる者となるように願う。
以下、テーマに基づく議論と話題
私たちは救いの方法を限定し、「このように救ってください」と神の力を制限して捕らえている。救いの約束を「今」ではなく「未来」なのだとするような信仰。
「あなたの(信じている)神は小さすぎる」とあるメッセンジャーが言ったように、私たちの思惟構造で捕らえる救いをはるかに超えた全能のみ力で主は私たちを救おうとしておられる。
主は一つ一つの事例を通して、主と共にある現実を通して、彼らの「信仰の殻、信仰のしがらみ(条件付信仰)」を一つ一つ取り去っておられるように見える。頑くなな私たちの心が完全に主を信じきるものへと導こうとされる主が、ご自身と共にある救いを一つ一つ示しておられるとき、主の偉大な恵といつくしみに感謝しないではいられない。