ここでは、しもべイスラエルとシオンへの励ましが語られた。このしもべとは預言者だろうか、イスラエル全体をも同時に指すのだろうか。この召されたしもべの働きのうちに、神の民に向けられる無限の恵みが実現することを示すことが語られている。
1節の「主は、生まれる前から私を召し、母の胎内にいる時から私の名を呼ばれた」母の胎内にいたときから覚えられているこのことは、聖徒が祈りの中で覚えられ神のために備えられた姿をみることができる。5節「主はヤコブをご自分のもとに帰らせ、イスラエルをご自分のもとに集めるために、私が母の胎内にいる時、私をご自分のしもべとして造られた。私は主に尊ばれ、私の神は私の力となられた」
また、この「私」を預言者イザヤとすると、6節後半の「わたしはあなたを諸国の民の光とし、地の果てにまでわたしの救いをもたらす者とする」という言葉は、イエス・キリストへと焦点が向けられるテーマとなっていく。
主はしもべを召しておられる。この「しもべの召し」は、他の預言者にも似たような表現がある。
たとえば、エレミヤについてはこうだ。エレ1:5「わたしは、あなたを胎内に形造る前から、あなたを知り、あなたが腹から出る前から、あなたを聖別し、あなたを国々への預言者と定めていた。」
彼の神のしもべとしての生き様とはどんなものか、しもべとはどのようなものだろう。エレ20:9 私は、「主のことばを宣べ伝えまい。もう主の名で語るまい。」と思いましたが、主のみことばは私の心のうちで、骨の中に閉じ込められて燃えさかる火のようになり、私はうちにしまっておくのに疲れて耐えられません。しかしその、ここでの伝えるべき主のしもべの使命とは、諸国の民の光とし、地の果てにまでわたしの救いをもたらす者とされている ことをもって証しされる。ここには単に預言者の姿を超えて、新しいしもべとしての姿を見せておられるのではないだろうか。
49:7
イスラエルを贖う、その聖なる方、主は、人にさげすまれている者、民に忌みきらわれている者、支配者たちの奴隷に向かってこう仰せられる。「王たちは見て立ち上がり、首長たちもひれ伏す。主が真実であり、イスラエルの聖なる方があなたを選んだからである。」
しもべイスラエルとしての使命は「贖う聖なる方、主」が示されることにある。
こう仰せられる・・・
主はこう仰せられる。と、このような宣言の中で神の側から神のみ言葉が発せられるとき、たしかにそのとおりにその使命が全うされる。それはとりもなおさず、「救いの実現」のことである。
「恵みの時に、わたしはあなたに答え、救いの日にあなたを助けた。わたしはあなたを見守り、あなたを民の契約とし、国を興し、荒れ果てたゆずりの地を継がせよう。・・・」
神が仰せられるみ言葉(しもべの宣教)は「民の回復」であり、「開放」であり、また「恵み」の宣言――つまり、福音なのである。
そして、「あなたがわたしのしもべとなって、ヤコブの諸部族を立たせ、イスラエルのとどめられている者たちを帰らせる」「彼らをあわれむ者が彼らを導き、水のわく所に連れて行く」この姿は、主の開放に預かるものが、しもべとなり牧者となり、仕えて導き手となる姿だ。主が赦し、限りなく愛して回復されたペテロを牧会者として召されたように。
さて、シオンは城壁の内側で保護されたものであった。しかし、その声はこのように言う。「49:14
しかし、シオンは言った。「主は私を見捨てた。主は私を忘れた。」と」しかし、主は応えられる。「女が自分の乳飲み子を忘れようか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。たとい、女たちが忘れても、このわたしはあなたを忘れない。見よ。わたしは手のひらにあなたを刻んだ。あなたの城壁は、いつもわたしの前にある。」
さらに、「あなたは必ず、彼らをみな飾り物として身につけ、花嫁のように彼らを帯に結ぶ」
帰ってくる民を美しくまとめられ調和を持つようにされる。神の限りない恵みをあらわし、保護を約束しておられる。
そして、24節から26節に特別な選民、エルサレム、都シオンに対する神のこころが描かれている。「あなたの争う者とわたしは争い、あなたの子らをこのわたしが救う。・・」
このような祝福されたしもべ、祝福された民の姿を示すことを通して、最終的にイスラエルは主を知る。すべての者が、わたしが主、あなたの救い主、あなたの贖い主、ヤコブの力強き者であることを知る。