聖書研究会メッセージ

鈴ヶ峰 キリスト 福音館

20021115日(金)

シリーズ:キリストの足跡 マタイ福音書 16章

―― 信仰の価値 ――

 前回覚えた同じテーマから、群集や弟子たちに示された主の御心を考えていきたいと思う。今日開く聖書の背景を少し念頭に置いてほしい。

 主は三人の弟子を伴って山に登り、ここで、主の変貌と栄光の御姿を弟子たちは仰ぐ。次の日その山から降りられたとき残された弟子たちの廻りに群衆が群がっている。主はてんかんの子供を持つ父親の懇願に応えておいやしになった。イエス様は弟子、群集に対して信仰ということについて深く教えていかれる。この記事の前後にかけて、共観福音書は共通して「主であるイエスキリストに対する信仰」を弟子たちに深く教えておられる。聖書も注意深くこのことを私たちに示していてくださる。

マタイ16:20-17:8
16:20 そのとき、イエスは、ご自分がキリストであることをだれにも言ってはならない、と弟子たちを戒められた。
16:21 その時から、イエス・キリストは、ご自分がエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえらなければならないことを弟子たちに示し始められた。
16:22 するとペテロは、イエスを引き寄せて、いさめ始めた。「主よ。神の御恵みがありますように。そんなことが、あなたに起こるはずはありません。」
16:23 しかし、イエスは振り向いて、ペテロに言われた。「下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」
16:24 それから、イエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。
16:25 いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。
16:26 人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。
16:27 人の子は父の栄光を帯びて、御使いたちとともに、やがて来ようとしているのです。その時には、おのおのその行ないに応じて報いをします。
16:28 まことに、あなたがたに告げます。ここに立っている人々の中には、人の子が御国とともに来るのを見るまでは、決して死を味わわない人々がいます。」
17:1 それから六日たって、イエスは、ペテロとヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に導いて行かれた。
17:2 そして彼らの目の前で、御姿が変わり、御顔は太陽のように輝き、御衣は光のように白くなった。
17:3 しかも、モーセとエリヤが現われてイエスと話し合っているではないか。
17:4 すると、ペテロが口出ししてイエスに言った。「先生。私たちがここにいることは、すばらしいことです。もし、およろしければ、私が、ここに三つの幕屋を造ります。あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ。」
17:5 彼がまだ話している間に、見よ、光り輝く雲がその人々を包み、そして、雲の中から、「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞きなさい。」という声がした。
17:6 弟子たちは、この声を聞くと、ひれ伏して非常にこわがった。
17:7 すると、イエスが来られて、彼らに手を触れ、「起きなさい。こわがることはない。」と言われた。
17:8 それで、彼らが目を上げて見ると、だれもいなくて、ただイエスおひとりだけであった。

 「自分の十字架を負って私についてくる者」
 「自分を捨て、わたしのためにいのちを失う者」
 これらのことは主がご自分を父なる神の一人子・キリストであることを示されてからのものだった。
イエスがキリストであるなら、彼に従う者、彼をキリストと信じてついていく者は、生半可な趣味や好奇心の中での宗教対象としての偉人であるイエスだと知るのでは不十分である。
 ここには生涯をかけるほどの厳然たる決断が迫られている。

 イエス・キリスト――このお方に命の全てを明け渡すことができる。この信頼の裏づけを主ご自身が弟子たちに与えられた。たしかに弟子たちは今まで主に従い、父、家、家族、仕事をすてて主と仰いで仕えてきた。彼らは彼らなりに生涯をこの方のうちに託して、自分の希望も夢も託して、(それが霊的な意味で真理とはいえないにしても)、また生活の豊かさも貧しさもいつも主と共有する歩みを弟子として選択してきたはずだ。寝食を共にし弟子たちは主と共に歩む者として召されていた。

 だから、主と共にあるのだったら、イスラエルの長老、学者、祭司やパリサイ人たちに、非難され迫害されてもそれを受けてもかまわなかった。もちろん、そのようなことが自分たちの主に不利に働くことを恐れ、主に進言したこともあるだろう。しかし今日言われた言葉はそれとは異なる。16:21ご自分がエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえらなければならないことを弟子たちに示し始められた。明らかにされた主の意味不明な言葉は彼らが信じていた、信仰の先に向かうべき道の光が閉ざされたかのように感じたに違いない。

 それゆえ、ここで続けて語っていかれた主の言葉は、深い響きを持って、仕える者たちに決断と信じることの確かさを示す。
16:24それから、イエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。
16:25 いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。
16:26 人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。

 今、主は自らを神の子キリストと告白する弟子たちにご自身の神性を証しし、キリストに仕えることの価値、その尊さを十分に示して主自ら弟子たちの信仰を完全なもの不動なものとするためにこれらのことを語られたのではないかと思う。ここには主のいつくしみがにじみ出ている。すなわち弟子たちが「主への信仰を持つ」という以上に文字通り「信仰を受けた」のだと思う。与えられたのだ。このことについては後でみてみたい。弟子である彼ら自身のみ言葉からも理解することができる。
 主のこの言葉は、不信仰な者や不信者に語られたものではない。弟子たちにである。決断する弟子たちにとってこの言葉ほど主ご自身の裏打ちされた力強い言葉はないのではないかと思われる。
 主の言葉は確かに不信者にはさばきとなるが、信仰を抱いて見上げるものには慰めとなる。しかも、この主への従順は信じる私たちが一方的に仕える立場の中から語られたものではない。私たちが何か「主に対して尽くしてあげている」といったものではない。イエス様が私たちの(彼らの)救いとなり、命を救うために死ななければならないという贖いの代価としての御姿を語られるなかからの言葉だ。

 ここで、贖いの代価となるメシアの姿は、具体的には長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえらなければならないというのだ。弟子ペテロは即座に反応し、そのような主を否定した。彼にとって、そのような主は彼のメシアとはかけ離れていたからだ。主はペテロを否まれるが、では、ペテロだけだっただろうか。口にはしなくても同じように他の弟子たちはペテロの言う言葉に同調していたはずである。激しい叱責により退けられた弟子にとって主の言葉は理解できない。なぜ主が捨てられ、死ななければならないか。またいさめたペテロを強く退けられたことも理解できない。自分たちが信頼し生涯をかけた方だったし、イエスご自身も自分を神の子キリストであることをはっきりお示しになったはずだ。それなのに彼が捨てられ死ななければならないとしたら、それは自分たちの知っているメシアの理解の枠を越えている。主が死ななければならないという言葉は、恐れと不安、そして、自分たちの持つ信仰に対する「不安」を招かないだろうか。
 自分の信じてきたものが全くといっていいほどかけ離れた結末を迎えるとしたら、その信仰の土台は瓦解してしまいそうになるのではないだろうか。イエス様がご自分の十字架を明らかにすればするほど、彼らの信仰は揺らぐと思う。だからこのとき、主が自らを信頼すべき方として生涯を捧げて従っていかなければならない方であることをはっきりお示しになることは、彼らにとって信仰の励まし、惑いかける信仰の力強い確証であった。主に従う命の絶大な価値を示すことは彼らにとって大きな慰めとなる。だから、これらの主の弟子たちに対する言葉は、信仰者を非難するための言葉ではない。イエス様に信頼する者をより強い確証へと導くものだ。

 ここに集っていた弟子たち自身の言葉をみると良く分かる。
ペテロの晩年の言葉の中にはこうある。

Uペテロ1:1
1:1 イエス・キリストのしもべであり使徒であるシモン・ペテロから、私たちの神であり救い主であるイエス・キリストの義によって私たちと同じ尊い信仰を受けた方々へ。
1:2 神と私たちの主イエスを知ることによって、恵みと平安が、あなたがたの上にますます豊かにされますように。
1:3 というのは、私たちをご自身の栄光と徳によってお召しになった方を私たちが知ったことによって、主イエスの、神としての御力は、いのちと敬虔に関するすべてのことを私たちに与えるからです。
1:4 その栄光と徳によって、尊い、すばらしい約束が私たちに与えられました。それは、あなたがたが、その約束のゆえに、世にある欲のもたらす滅びを免れ、神のご性質にあずかる者となるためです。
・・・
1:16 私たちは、あなたがたに、私たちの主イエス・キリストの力と来臨とを知らせましたが、それは、うまく考え出した作り話に従ったのではありません。この私たちは、キリストの威光の目撃者なのです。
1:17 キリストが父なる神から誉れと栄光をお受けになったとき、おごそかな、栄光の神から、こういう御声がかかりました。「これはわたしの愛する子、わたしの喜ぶ者である。」
1:18 私たちは聖なる山で主イエスとともにいたので、天からかかったこの御声を、自分自身で聞いたのです。

 ここにあるペテロはイエスキリストによって「尊い信仰を受けた」という。私たちは何気となく信仰を持つという。しかし、ペテロは弟子として主から「尊い」信仰を受けたのだと表現する。尊い、信仰。
 主が私たちに主ご自身を信じさせて下さる。主の言葉は決断を求めた。一見、主の言葉は私たちに厳しさを要求する。だがそのような厳格さをもってペテロは
その栄光と徳によって、尊い、すばらしい約束が私たちに与えられました。それは、あなたがたが、その約束のゆえに、世にある欲のもたらす滅びを免れ、神のご性質にあずかる者となるためです、と続けて信者たちに勧めていく。彼の言葉の中にはイエス様の言葉(こころ)がそのまま生きて流れている。

 弟子ヨハネも書簡の中でイエスキリストの力強い証と、信仰の絶大な価値をイエス様がここで語られたと同じ視点(こころ)で語っている。

Tヨハネ4:14
4:14 私たちは、御父が御子を世の救い主として遣わされたのを見て、今そのあかしをしています。
4:15 だれでも、イエスを神の御子と告白するなら、神はその人のうちにおられ、その人も神のうちにいます。
5:11 そのあかしとは、神が私たちに永遠のいのちを与えられたということ、そしてこのいのちが御子のうちにあるということです。
・・・
1:1 初めからあったもの、私たちが聞いたもの、目で見たもの、じっと見、また手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて、
1:2 ・・このいのちが現われ、私たちはそれを見たので、そのあかしをし、あなたがたにこの永遠のいのちを伝えます。すなわち、御父とともにあって、私たちに現わされた永遠のいのちです。・・
1:3 私たちの見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。
1:4 私たちがこれらのことを書き送るのは、私たちの喜びが全きものとなるためです。

 自分の信仰心をすら恐れなければならない不安のなかで、主が語られた言葉は、より確かな信仰を目覚めさせるものだ。

 ペテロのイエス様への信仰告白、主のメシアとしての死と復活についてはっきり示され、それに続いて、弟子たちの信仰の裏打ちをされた。
 まもなく、主は三人の弟子を高い山に連れて登り神の栄光をあらわされた。

17:1 それから六日たって、イエスは、ペテロとヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に導いて行かれた。
17:2 そして彼らの目の前で、御姿が変わり、御顔は太陽のように輝き、御衣は光のように白くなった。

 いままでの流れを理解するなら主は告白した者、弟子たちをより強く信頼する事へと導かれ、仕える決意をする弟子に表された主の栄光の表しはイエス様が真に神なる方、御父から遣わされた方であることを示されたのだということを理解できる。主に近づこうと信頼しようと求め、問う、そのような信仰者にご自身の神性をお示しになることがここに描かれている。
17:3 しかも、モーセとエリヤが現われてイエスと話し合っているではないか。
17:4 ・・・
17:5 彼がまだ話している間に、見よ、光り輝く雲がその人々を包み、そして、雲の中から、「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞きなさい。」という声がした。

 イエス様を父なる神が御子・キリストであることを認証されるのを今、弟子たちは聞いた。またルカ伝によれば、モーセとエリヤが現れてご最後(エキソドス)について話し合っているという。モーセとエリヤは律法と預言者を代表するものでもある。
 律法と預言者とは旧約聖書である。彼らの時代ユダヤ人は、実際旧約聖書のことを律法と預言者と呼んでいた。この旧約聖書がずっと示しつづけてきたこと、人類の贖いと救い、旧約聖書がずっと示しつづけてきた方がここにおられる。しかも、そこではご最後について話し合われてある。
 イエス様の十字架の道に一直線に向けられている。主の心はそこに全て向けられている。誤りなく、疑いなく、惑うことなく主の心がその十字架への道に向けられるからこそ、モーセとエリヤとは主のごさいごについて話し合われるのだ。
 弟子たちが不安であった主の十字架こそ、旧約の律法と預言者の成就のなるときである。

 「ごさいご」とは、「エキソドス」ということば、出エジプトの「脱出」ということばである。ギリシャ語で出エジプト記のことをそのまま「エキソドス」という。脱出とは主の救いである。ごさいご、十字架は落胆に終わる結末ではない。エジプトから脱出し約束の国に導かれていくその予型が示すとおりに、十字架こそ神の預言のなるときであり、天国へ導く唯一の救いである。モーセとエリヤが表れて語っていた、旧約のメッセージの全てがイエス様の十字架に焦点が向けられる。いままた、父のみ声がイエスの十字架の道を認証するのを弟子たちは聞いた。「これはわたしの愛する子、私の喜ぶもの。

 以前、この研究会のシリーズでバプテスマのヨハネの死の意味を考えたとき、この言葉を取り上げて考えたことがあった。「私の愛する子」とは、かつて父アブラハムが全焼のいけにえのために愛する一人子を捧げるときに旧約聖書(70人約による)5度中 4度までも用いられた言葉だ。いまここでも、人類の救いのために御父の愛する一人子が犠牲として捧げられようとしている。イエス・キリストの十字架の道は公生涯の初めから一直線にそこに向かっている。
 ヨハネからバプテスマを受けて人々の罪を担う立場を示されたときも同じように天からの声がした。「
これはわたしの愛する子、私の喜ぶもの。」
 このとき、既に十字架の道ははじまっている。いままた、弟子たちに(祭司長、律法学者たちに捨てられると)死とよみがえりをはっきり示され、十字架へと向かうとき、栄光と天からの御声を弟子たちは聞いた。

 また、私の愛する子、そして、私の喜ぶものとある、この「私の喜ぶもの」とは、イザヤ書にある神の語りかけられる言葉である。どういう者に対して語られたか。それは、「苦難のしもべ」に対して語られたものだ。
 人々の咎を担い、神の御心を行って贖いとなる苦難のしもべ、十字架のイエスに対して語られる言葉である。御父の言葉ははっきりと十字架の主を認証する。そして「
彼の言うことを聞きなさい」という声を弟子たちは聞いた。それは「聞き従いなさい」という言葉である。イエスはご自分で十字架の道を明らかにされた後、自分の命を捨てるほどまでにご自分に聞き従うものとなることを求められた。そしていま、父なる神はイエス様に聞き従うことを命じられた。それは、主の十字架が弟子たちが考えてきたように敗北や失敗の結末ではなく、全てを捧げて従う尊い信仰の価値を示すものだ。いま、惑いかける信仰の小さなものの為に表された神の御旨を見ることができるではないか。


 主に従い、いのちを捧げることはチャレンジを持って信仰者に決断を迫る。信ずる者たちに対して自分のいのちが捧げられなければならないと考える以上に、主が与えるいのちに生きることの絶大な価値を示されていると思う。
 そこにいた弟子たちは何と言っているか。

この私たちは、キリストの威光の目撃者なのです。(Uペテロ1:16 )
私たちは、御父が御子を世の救い主として遣わされたのを見て、今そのあかしをしています。
(Tヨハネ4:14)
私たちの喜びが全きものとなるためです。
(Tヨハネ1:4)
神はその人のうちにおられ、その人も神のうちにいます。
(Tヨハネ4:15)
そのあかしとは、神が私たちに永遠のいのちを与えられたということ、そしてこのいのちが御子のうちにあるということです。
(Tヨハネ5:11)
主イエスの、神としての御力は、いのちと敬虔に関するすべてのことを私たちに与えるからです。
(Uペテロ1:3)

 十字架に死にゆく方への信仰は弟子にとっては価値が薄く理解を超えていた。そのような主の姿は見たくなかった。しかし、主は、主と旧約の言葉はそして父なる神ご自身は、この十字架の主への信仰に全生涯をかけることへの絶大な価値、命の尊さを示し、信仰の確証を主自ら与えられる。主の弟子は主イエスによって尊い信仰を受けたのである。

以下、テーマに基づく議論と話題