―― 命を伝える福音 ――
使徒17:1-15
テサロニケの伝道記事である。彼らの語る福音は、イエス・キリストは誰か、ということだ。私たち日本では、本当に神がいるか・いないか、ということから福音を語る。だが、ここでは、
キリストは苦しみを受け、死者の中からよみがえらなければならないことを説明し、また論証して、「私があなたがたに伝えているこのイエスこそ、キリストなのです。」と言った。(17:3)そして、これがパウロの語る福音の主題である。
科学的な論証を一生懸命語るのではなく、イエスキリストを語る。聖書が神の言葉であることを証明したところで、そのことは知識の範囲でしかない。福音は命である。この命に触れなければ誰もイエス・キリストは主であると告白することはできない。
メシアの姿はユダヤ人は旧約の預言書から理解していた。しかし、イザヤ書53章のメシアの姿については彼らは心が硬く閉ざされている。それは今に至るまでそうである。イザヤ書のしもべの姿はナゾであり、それゆえ神の心は理解したがたいものである。この書の53章は彼らの心において自ら封印している。
ユダヤ人としての知識において知る主の姿とパウロの福音は異なっている。だから、ユダヤ人はパウロの福音に反感を持っていた。パウロが「イエスをどのように受け入れるか」、と突き詰めるからである。異邦人でもそうだ。科学的な論証を持ってすれば聖書の証明までは受け入れられる。しかし、「イエスは主だ」というところで最終的な岐路に立たされるとき、どうしても受け入れがたくなる。
このお方が受け入れられるためには、主の力によらなければ、そのハードルを越えることはできない。私たちは特に若いときは、とかく、証明し、相手を説き伏せたい。
しかし、それを納得させることと主を仰ぐ命の過程とは異なる。だから、導き手の中に、イエスは主であるという生活が必要なのである。これは命の表れなのであって、キリストへの告白は霊的なこと、御霊の命のなせるわざである。
ユダヤ人たちはこのような語り手、パウロたちをねたんだ。それは肉の表れであって、ここに肉と命の相反が際立っている。霊的な違い、差は、命のふれあいによって生じる。主の命に触れることにおいて霊的な較差が生じるのだ。差ということに関しては、18章から出てくるアクラとプリスキラという弟子の書簡の記載順序から想像できる。プリスキラは妻であり女性であったが、後には必ず彼女のほうが先に描かれている。それは霊的なことにおいて得ていた理解力または生活の差の故だろう。
18:2,3 ここで、アクラというポント生まれのユダヤ人およびその妻プリスキラに出会った。クラウデオ帝が、すべてのユダヤ人をローマから退去させるように命令したため、近ごろイタリヤから来ていたのである。パウロはふたりのところに行き、自分も同業者であったので、その家に住んでいっしょに仕事をした。彼らの職業は天幕作りであった。
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18:18
パウロは、なお長らく滞在してから、兄弟たちに別れを告げて、シリヤへ向けて出帆した。プリスキラとアクラも同行した。パウロは一つの誓願を立てていたので、ケンクレヤで髪をそった。
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18:24-26
さて、アレキサンドリヤの生まれで、雄弁なアポロというユダヤ人がエペソに来た。彼は聖書に通じていた。
この人は、主の道の教えを受け、霊に燃えて、イエスのことを正確に語り、また教えていたが、ただヨハネのバプテスマしか知らなかった。彼は会堂で大胆に話し始めた。それを聞いていたプリスキラとアクラは、彼を招き入れて、神の道をもっと正確に彼に説明した。
霊的な違いは、主の命のふれあいによって生じる。聖書を知る学識は命を与えない。ユダヤ人たちの到達した結果、表されたねたみは、「肉」である。福音はイエスキリストの命を伝えること、主の命に触れることである。パウロの伝道はイエス・キリストの命を伝えるものであった。
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