―― ラザロの復活 ――
ヨハネ11:39
11:39
イエスは言われた。「その石を取りのけなさい。」死んだ人の姉妹マルタは言った。「主よ。もう臭くなっておりましょう。四日になりますから。」
11:40
イエスは彼女に言われた。「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか。」
11:41
そこで、彼らは石を取りのけた。イエスは目を上げて、言われた。「父よ。わたしの願いを聞いてくださったことを感謝いたします。
11:42
わたしは、あなたがいつもわたしの願いを聞いてくださることを知っておりました。しかしわたしは、回りにいる群衆のために、この人々が、あなたがわたしをお遣わしになったことを信じるようになるために、こう申したのです。」
11:43
そして、イエスはそう言われると、大声で叫ばれた。「ラザロよ。出て来なさい。」
11:44
すると、死んでいた人が、手と足を長い布で巻かれたままで出て来た。彼の顔は布切れで包まれていた。イエスは彼らに言われた。「ほどいてやって、帰らせなさい。」
11:45
そこで、マリヤのところに来ていて、イエスがなさったことを見た多くのユダヤ人が、イエスを信じた。
11:46
しかし、そのうちの幾人かは、パリサイ人たちのところへ行って、イエスのなさったことを告げた。
11:47
そこで、祭司長とパリサイ人たちは議会を召集して言った。「われわれは何をしているのか。あの人が多くのしるしを行なっているというのに。
11:48
もしあの人をこのまま放っておくなら、すべての人があの人を信じるようになる。そうなると、ローマ人がやって来て、われわれの土地も国民も奪い取ることになる。」
11:49
しかし、彼らのうちのひとりで、その年の大祭司であったカヤパが、彼らに言った。「あなたがたは全然何もわかっていない。
11:50
ひとりの人が民の代わりに死んで、国民全体が滅びないほうが、あなたがたにとって得策だということも、考えに入れていない。」
11:51
ところで、このことは彼が自分から言ったのではなくて、その年の大祭司であったので、イエスが国民のために死のうとしておられること、
11:52
また、ただ国民のためだけでなく、散らされている神の子たちを一つに集めるためにも死のうとしておられることを、預言したのである。
11:53
そこで彼らは、その日から、イエスを殺すための計画を立てた。
死人の中からよみがえらされたラザロを人々は見る。イエス・キリストが世の救い主であるという神の御力の証明である。
ヨハネの福音書に
5:24
まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。
5:25
まことに、まことに、あなたがたに告げます。死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。そして、聞く者は生きるのです。とある。
ここに霊的な命の復活が書かれている。ただ、この11章のラザロの復活は現象的な現実である。
私たちは、心の中に残る不信仰のわだかまりを取り除かれなければならない。
11:39
イエスは言われた。「その石を取りのけなさい。」
「墓石を取り除きなさい」と言われた。主の復活を聞いている私たちに、心の不信仰を取り除くように言われているようだ。
47節に祭司長の言葉がある。「祭司長とパリサイ人たちは議会を召集して言った。「われわれは何をしているのか。あの人が多くのしるしを行なっているというのに。・・・」
ラザロの復活のことがサンヘドリン(ユダヤ宗教会議)の第一テーマであった。主のなされたラザロの奇跡でイエス様の業は疑いようもなかったが、パリサイ人は信じようとせず戸惑っている。神の力なしにはできない不思議な力を見ながら、信じようとしないで、かえってキリストを取り除こうとした。死を招く自ら罪のなかにある肉・主への不信を取り除くのではなく、信仰の岩であるキリストを取り除いていた。
11:50
ひとりの人が民の代わりに死んで、国民全体が滅びないほうが、あなたがたにとって得策だということも、考えに入れていない。」
歴史的に言えば、彼らがイエス様を排したためにユダヤ人は裁かれることになる。だがこのとき、50節のカヤパの言葉において、51節にあるように、贖いの死の予言的実現をヨハネは解説した。カヤパのそれは、反キリストの言葉である。
ここに、そのような迫害の中でキリストを排する彼らの世界の只中にあって、主は罪人のための贖いの御業を成就されたのだということを覚えることができる。
以下、テーマに基づく議論と話題
私たちはラザロの復活を見るようにキリストのみ業を見ることができるだろうか。
奇跡を行っていないもの、奇跡を見ないものは、主の力を知らない――のだろうか。
だが、パリサイ人も47節に「あの人が多くのしるしを行なっているというのに。」とあるように神の証拠としての奇跡を目のあたりのしながら、不信仰によって応じたのだ。彼らはしるしを見ていたが、しるしを見なかったのである。彼らは、信仰によって近づかなければ主の復活、み力を知ることはできなかった。
彼らだけではないと思う。ただ、信仰によってでしか主と主の力を体験することができないのは、どの時代にあっても共通の原則であろう。
また、聖書を真剣に実存的(哲学的用語ではない)に捉えようとするとき、このような印をどのように求めるであろうか。犠牲を持って主に仕える中から、しるしを求めるとき、御手の力が働かれているのを多くの信仰者は証ししている。