聖書研究会メッセージ  

鈴ヶ峰 キリスト 福音館

2002年12月20日(金)

シリーズ:ヨハネの福音書 12章(1)

―― ナルドの香油 ――

ヨハネ12:1-12
12:1 イエスは過越の祭りの六日前にベタニヤに来られた。そこには、イエスが死人の中からよみがえらせたラザロがいた。
12:2 人々はイエスのために、そこに晩餐を用意した。そしてマルタは給仕していた。ラザロは、イエスとともに食卓に着いている人々の中に混じっていた。
12:3 マリヤは、非常に高価な、純粋なナルドの香油三百グラムを取って、イエスの足に塗り、彼女の髪の毛でイエスの足をぬぐった。家は香油のかおりでいっぱいになった。
12:4 ところが、弟子のひとりで、イエスを裏切ろうとしているイスカリオテ・ユダが言った。
12:5 「なぜ、この香油を三百デナリに売って、貧しい人々に施さなかったのか。」
12:6 しかしこう言ったのは、彼が貧しい人々のことを心にかけていたからではなく、彼は盗人であって、金入れを預かっていたが、その中に収められたものを、いつも盗んでいたからである。
12:7 イエスは言われた。「そのままにしておきなさい。マリヤはわたしの葬りの日のために、それを取っておこうとしていたのです。
12:8 あなたがたは、貧しい人々とはいつもいっしょにいるが、わたしとはいつもいっしょにいるわけではないからです。」
12:9 大ぜいのユダヤ人の群れが、イエスがそこにおられることを聞いて、やって来た。それはただイエスのためだけではなく、イエスによって死人の中からよみがえったラザロを見るためでもあった。
12:10 祭司長たちはラザロも殺そうと相談した。
12:11 それは、彼のために多くのユダヤ人が去って行き、イエスを信じるようになったからである。

 マリヤは主にナルドの香油を塗った。香油を人に塗ることは死人に対してする行為である。なぜマリヤがここでこのようなことをしたのか。イエスの弟子たちは復活や十字架という主のみ言葉を理解できなかったが、マリヤは語られる主の言葉(心)を心から受け止めた為だろう。ナルドの香油は当時10か月分の生活費に相当すると言われている。そのような高価な香油をもって主の御足に塗った。死人のために香油を塗るとき、それは貴人に対してなす行為である。マリヤは自分の最も高価なものを最も尊きお方に捧げた。

12:3 マリヤは、非常に高価な、純粋なナルドの香油三百グラムを取って、イエスの足に塗り、彼女の髪の毛でイエスの足をぬぐった。

 当時ユダヤでは横になって食事をする習慣があった。それゆえマリヤには、主の足元にそっと近づき香油を塗ることが可能であった。主の御足に塗ることによって、マリヤは彼への敬愛、謙遜、尊敬、信仰の献身の態度を表明した。
 会計係のユダは 「なぜ、この香油を三百デナリに売って、貧しい人々に施さなかったのか。」(12:5)と非難した。ユダはマリヤの主への敬愛、謙遜、尊敬、信仰的献身の行為を、利害的・利益的勘定で差し図った。貧しい人々に施さなかったのか。道徳的な理が適っているように発言しているかもしれないが、彼の言葉は真の愛のない、慈善の看板に過ぎない偽善である。しかし、マリヤのそれは真の慈善であった。見返りを求めず愛する方を大事にする行為である。
 偽善のユダを主は喜ばれなかった。しかし、主はマリヤの行為を主ご自身への偉大な行為として受け止められた。

以下、テーマに基づく議論と話題

 

 このマリヤの行為は私たちのために十字架にかかられる主に対して為した最も美しい行為であり、私たちの心を熱くする。
 「なぜ、貧しい人のために施さないのか」と私たちは問い詰められるかもしれない。しかし、主に捧げられる全てに差し置いてなすべきは、慈善の奉仕活動ではない。福音が語られるところでは、どこでもこのことが述べ伝えられると主が言われたように、私たちは主の愛のために生きることの美しさを学びたい。

 彼女の捧げた純粋なナルドの香油は彼女の信仰の純粋さを示している。全き純粋さ(偽善から離れたもの)のゆえに弟子たちが非難したような「惜しみ」は微塵も感じられない。勘定高い合理的な判断ではなく、ただ主への信仰の純粋さのゆえに捧げられた行為である。

 ベタニヤに主が来られる意義は重要であった。ラザロがよみがえらされたことは主への深い信頼を導き、姉妹の信仰の目(霊的信頼)を開いた。マリヤの霊的状態は3節にあるように主の葬りの日のために備えるものであった。主はマリヤの主への心を確かにそのように受け止められた。これは福音であって、私たちは主の愛のために生きることの美しさ(尊さ)を覚えさせられる。