聖書研究会 メモ  

鈴ヶ峰キリスト福音館

2003年1月3日(金)

シリーズ:イザヤ書51章

イザヤ51章

1: 神と共に歩むことを願う者に対して語りかける。

2: サラのこととは何を指しているだろうか。ローマ書4;3-5「4:3 聖書は何と言っていますか。「それでアブラハムは神を信じた。それが彼の義と見なされた。」とあります。
4:4 働く者のばあいに、その報酬は恵みでなくて、当然支払うべきものとみなされます。
4:5 何の働きもない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら、その信仰が義とみなされるのです。」すなわち、自らに義がないことを知りつつ不敬虔なものを義と認めてくださる方(事)を信じたという模範を指している。

4-8: 一切は神から発し、神により成り神に帰する。義と救いは同義である。
「おしえ」とは、律法と脚注にあるが、トーラーを指している。もっと具体的に言うなら、「神の言葉・みおしえ」である。

7: そしりとののしりは神を信じるものに向けられるが、義と救いのメッセージがまず向けられている。

9: 「さめよ、さめよ」とは、主(の御腕)に対して、神に呼びかけられている。(信仰による神の力の顕現か ?)
竜が打ち負かされている光景は、新約ではルカ10:18に描かれる。この世を支配するものが落とされるのである。

12: 恐れるべき方は主である。

17: 「さめよ、さめよ」の語りかけは、今度はエルサレムに対して語られている。真のあるべき指導者を失い、裁きが訪れる。

21: しかし、神が砕き、絶望の中にいるものに対して慰めを与えられた。

 

以下、テーマに基づく議論と話題

 主はエルサレムの復興を約束された。それは、不敬虔な中にあるエルサレムが、自らの背信により裁きを受ける只中においてである。繁栄など考えられないようなこの現実の中にあって、主は彼らの回復と救いを語られる。このようなことは信じがたい。しかし、その信じがたいことを主が約束されるとき、アブラハムに語りかけた主の約束と同じ響きがある。サラのことを考えてみよ、と。いつの時代も信仰は平等に問われている。さらに、時至りイスラエルが復興されるのを見ることができる。

 主の教えは国々の光である。主のみことばが世界の光であるから、信仰の民はその「主の教え」を持つことによって光の民となる。「義を知るもの、心に私の教えを持つ民よ、恐れるな」との語りかけは、彼らの社会の中から生きた主の御言葉がすたれたようにしか受け止められない不信仰の世界の只中で、なお、主の言葉が力ある光である事を訴えられる。かつて、敵を打ち負かし、また、エジプトの海を渡ったのも、主の御言葉による。その主の力は信仰により神の言葉を受け止めるものが救いを成就せしめた。主の言葉はなお生きて働く世界の光である。すたれるのは人間の光栄であり、社会である。不滅の神のみおしえを信仰により歩みなさい、と主はそのような背信のイスラエルの只中で、神を求める信仰者に語りかけておられる。それは、今の時代でも同じ事だ。