聖書研究会 メモ 2003年1月3日(金) |
シリーズ:イザヤ書51章
以下、テーマに基づく議論と話題 主はエルサレムの復興を約束された。それは、不敬虔な中にあるエルサレムが、自らの背信により裁きを受ける只中においてである。繁栄など考えられないようなこの現実の中にあって、主は彼らの回復と救いを語られる。このようなことは信じがたい。しかし、その信じがたいことを主が約束されるとき、アブラハムに語りかけた主の約束と同じ響きがある。サラのことを考えてみよ、と。いつの時代も信仰は平等に問われている。さらに、時至りイスラエルが復興されるのを見ることができる。 主の教えは国々の光である。主のみことばが世界の光であるから、信仰の民はその「主の教え」を持つことによって光の民となる。「義を知るもの、心に私の教えを持つ民よ、恐れるな」との語りかけは、彼らの社会の中から生きた主の御言葉がすたれたようにしか受け止められない不信仰の世界の只中で、なお、主の言葉が力ある光である事を訴えられる。かつて、敵を打ち負かし、また、エジプトの海を渡ったのも、主の御言葉による。その主の力は信仰により神の言葉を受け止めるものが救いを成就せしめた。主の言葉はなお生きて働く世界の光である。すたれるのは人間の光栄であり、社会である。不滅の神のみおしえを信仰により歩みなさい、と主はそのような背信のイスラエルの只中で、神を求める信仰者に語りかけておられる。それは、今の時代でも同じ事だ。 |