聖書研究会メッセージ

鈴ヶ峰キリスト福音館

2003530日(金)

シリーズ:キリストの足跡 マタイ福音書 19章(2)

―― あとの者になる ――

マタイ19:25-20:16
19:25 弟子たちは、これを聞くと、たいへん驚いて言った。「それでは、だれが救われることができるのでしょう。」
19:26 イエスは彼らをじっと見て言われた。「それは人にはできないことです。しかし、神にはどんなことでもできます。」
19:27 そのとき、ペテロはイエスに答えて言った。「ご覧ください。私たちは、何もかも捨てて、あなたに従ってまいりました。私たちは何がいただけるでしょうか。」
19:28 そこで、イエスは彼らに言われた。「まことに、あなたがたに告げます。世が改まって人の子がその栄光の座に着く時、わたしに従って来たあなたがたも十二の座に着いて、イスラエルの十二の部族をさばくのです。
19:29 また、わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子、あるいは畑を捨てた者はすべて、その幾倍もを受け、また永遠のいのちを受け継ぎます。
19:30 ただ、先の者があとになり、あとの者が先になることが多いのです。

20:1 天の御国は、自分のぶどう園で働く労務者を雇いに朝早く出かけた主人のようなものです。
20:2 彼は、労務者たちと一日一デナリの約束ができると、彼らをぶどう園にやった。
20:3 それから、九時ごろに出かけてみると、別の人たちが市場に立っており、何もしないでいた。
20:4 そこで、彼はその人たちに言った。『あなたがたも、ぶどう園に行きなさい。相当のものを上げるから。』
20:5 彼らは出て行った。それからまた、十二時ごろと三時ごろに出かけて行って、同じようにした。
20:6 また、五時ごろ出かけてみると、別の人たちが立っていたので、彼らに言った。『なぜ、一日中仕事もしないでここにいるのですか。』
20:7 彼らは言った。『だれも雇ってくれないからです。』彼は言った。『あなたがたも、ぶどう園に行きなさい。』
20:8 こうして、夕方になったので、ぶどう園の主人は、監督に言った。『労務者たちを呼んで、最後に来た者たちから順に、最初に来た者たちにまで、賃金を払ってやりなさい。』
20:9 そこで、五時ごろに雇われた者たちが来て、それぞれ一デナリずつもらった。
20:10 最初の者たちがもらいに来て、もっと多くもらえるだろうと思ったが、彼らもやはりひとり一デナリずつであった。
20:11 そこで、彼らはそれを受け取ると、主人に文句をつけて、
20:12 言った。『この最後の連中は一時間しか働かなかったのに、あなたは私たちと同じにしました。私たちは一日中、労苦と焼けるような暑さを辛抱したのです。』
20:13 しかし、彼はそのひとりに答えて言った。『私はあなたに何も不当なことはしていない。あなたは私と一デナリの約束をしたではありませんか。
20:14 自分の分を取って帰りなさい。ただ私としては、この最後の人にも、あなたと同じだけ上げたいのです。
20:15 自分のものを自分の思うようにしてはいけないという法がありますか。それとも、私が気前がいいので、あなたの目にはねたましく思われるのですか。』
20:16 このように、あとの者が先になり、先の者があとになるものです。」

 今日お読みしたこの個所に共通した教えとたとえは、「先の者があとになり、あとの者が先になることが多い」ということに主題がおかれている。しばしば主の教え・たとえは私たちにとってなぞめいた言葉ではないだろうか。これらのことで主は私たちに何を語ろうとしておられるのだろうかと考えるとき、私たちが、受けとる立場において、主からの恵みと報酬に関して語られていると思われる。しかし、その教えの結論のなかで、それぞれ
19:30 ただ、先の者があとになり、あとの者が先になることが多い
20:16 このように、あとの者が先になり、先の者があとになるもの

と語られるのである。この言葉は各福音書が忠実に書き表している。しかもたびたび語られる。しかし、だからと言ってそれほど重要な私たちに対するダイレクトなメッセージとして深く心に留めることは少ない。洞察しにくいという感じがする個所の一つである。

 しかし、幾たびも語られ、弟子に対して語られ、教えの結論として語られるからには弟子が聞くべき重要な教えの意味があるはずである。また同時に何か示そうとされている深い暗示があるようにも思う。先の者があとになり、あとの者が先になると語られたそれは、つまり私たちに対する神の評価のとき、終わりのとき、裁きのとき、報いのときの姿を描いている。そして幾度も弟子たちに語られるメッセージはその中から私たちが学ばなければならないことがあるということだ。しかしだからと言って理解しやすいことばでもない。
 私も十分に理解していないが、いくつかの問題に目を留めて、ともにみこころに心を留めたい。

 19章30節の注釈(新改訳)にあるように、イエス様の言われたこの言葉は他の記事においても書かれている。関連個所をピックアップしてみる。

1. マタイ20:16 たとえの締めとして語られた今日読んだ個所であり、主人に文句・不平を言うものに対して語られた言葉である。これは、主人の良さ(哀れみ)を悪く(不正だと)見る者に対して裁きの響きで評価された者の結末の姿である
2. マルコ10:31 この個所はマタイ伝の共観福音書としての並行記事であり、内容は省略する。
3. ルカ13:30 「いいですか、今しんがりの者があとで先頭になり、いま先頭の者がしんがりになるのです。」
 3番目のルカ伝のこの言葉は、マタイ伝よりもダイレクトに重たい意味で語られた言葉である。これは命に関することである。今しんがりの者があとで先頭になり、いま先頭の者がしんがりになるということは、単なる順序のことではない。一番最後だからといって私は別にそれでもかまわない、といった次元の話ではなく、救いに関する命の問題である。ルカ伝のたとえで一番最後になる者とはどういう者だろうか。
 ・主人が、立ち上がって、戸をしめてしまったあとに『ご主人さま。あけてください。』と言う者。(25節
 ・『私はあなたがたがどこの者だか知りません。不正を行なう者たち。みな出て行きなさい。』と主人から言われる者。(27節
 ・外に投げ出されることになったとき、そこで泣き叫んだり、歯ぎしりしたりする者28節

 このたとえは、「主よ、救われる者は少ないのですか」という問いに対して答えられたものである。今しんがりの者があとで先頭になり、いま先頭の者がしんがりになるという話の中で最後になるということが、命に関する問題、救いに関する問題であり、最終的に後になる者とは結末のとき、裁きのとき、報いのときに不正な者として主人から裁かれる立場がたとえの中で描かれた。
 マタイ伝はそれほどの命の問題として捉えているかどうかは確定できないが、いずれにしても主は教えの中で最終的に「あとになる」という問題を「それでもいいんだ」というようには教えられているのではないと言うことが分かる。裁きの日・結末の日に、あとになるということは、神の恵みの座に相反している立場が描かれる。

 はじめの20章のたとえで、朝早く主人に雇われた労務者は一日1デナリの約束を得た。9時に雇われた者は、相当のものを受ける約束を得た。12時、3時に雇われた者も同様であり、そして、5時に雇われた者は、主人から何の約束も受けていない。しかし、最後に呼び止められた者にとって、主人の招きは恵みであり、恵みが施されていることは既にそのとき、現在の只中で実感できる。最初に雇われた者は一時間しか働かなかった者たちとと同じ賃金だったので主に腹を立てた。
 しかし、その彼が主人から雇われたのもやはり恵みに他ならなかった。しかも、その恵みの上に主から報酬の約束をも受けていた。
11節以降の主と先の労務者との応答は、19章30節の「
ただ、先の者があとになり、あとの者が先になることが多い」という言葉を教えるものであり、結論である16節の言葉の中から悟るべきたとえである。
 このたとえは、19章30節の言葉を受けており、話は延長線上にある。ギリシア語では原文で、20章1節の冒頭に、「なぜなら天の御国は・・・」と語り始められたことを示す接続詞「ガル」があることからも分かる。
 もし、先に雇われた者が主の恵みに浴し、あたえられた報酬を感謝し、主を賛美するのなら、このたとえのように「あとになる」ということは悲しむべきことではない。私たちの態度・霊的な位置において見直すべきこと・悔い改めるべきものは要求されない。したがって、あとでも先でも重要なことではない。しかし、このたとえの労務者は「主人に文句を言った」とある。その文句を言った彼が「あとになる」ことは、天の御国において幸いな座を占めていないことを示すものである。
「そこで、彼らはそれを受け取ると、主人に文句をつけて、言った」とある。主の取り扱いを批判する。自らが正しく、主は私に対して不正を行ったと言う。しかし、主は「あなたは私を不当だと言うが、私はあなたに対して何も不当なことはしていない」と応えられた。一日1デナリの約束は、主に朝早く雇われた労務者への恵みの約束であり、報いの約束であった。彼は主の恵みに預かって朝早くから主人のぶどう園で働くものとされた。15節にある「私が気前がいいので、あなたの目にはねたましく思われるのですか」という言葉の直訳は「私が良いのであなた方には悪く思われるのですか」と書いてある。この言葉は「あなた方が悪い者である」と言わんばかりの裁きの言葉としての響きがある。主が彼に語られた言葉には13節の中に原文(注釈参照)では「友よ、」という意味の呼びかけがある、と記されている。

―― 神の恵みから離れることへの警告 ――

 主人が「友よ」と語りかけられたこの語りかけは聖書中3度しか出てこない原語である。「友」という言葉は、通常ギリシア語では「フィロス」という原語で表現される。フィロスとは、フィリア(友愛)やフィレオー(愛する)という語源からきており、「愛する」「友愛」という意味を含むものである。その意味は親愛の情をこめて、「友」「味方」「仲間」という意である。
 しかし、ここのたとえで原文では「友よ」と呼びかけられた言葉は「フィロス」という言葉ではなく、つまり「愛する友」への呼びかけではなく、「ヘタイロス」という語である。ヘタイロスで友と表す言葉は聖書中、3度しかでてこない。
 1) ひとつはこのたとえで言われた先の労務者への主の呼びかけである。
『友よ、私はあなたに何も不当なことはしていない』
 2) 二つ目はマタイ22章12節のたとえで用いられた。大通りに行って、多くの出会う人に王は婚礼に招待した。しかし婚礼の席に招かれた者の中で礼服を着てこなかった人がいた。王は彼に「友よ(原文での呼びかけ)、あなたはなぜ礼服を着てこなかったのか」と問うた。
 3) 最後は12弟子の一人・裏切りのユダが先頭にたって主に近づき口付けをしたとき、「友よ、何のために来たのですか。」と言われたときのことである。

 この3箇所にでてくる「友(ヘタイロス)よ」と呼びかけられた人は、共に、結果のとき、結末において主がその人に語る言葉である。
 招かれた婚礼に礼服を着なかった人はどうなったであろうか。彼は王に「あなたはどうして(与えられた)礼服を着てこなかったのか」と尋ねられた。彼は手足を縛られ外に放り出されたのだった。これは、裁きであって、恵みから洩れた者の姿である。
 主人は「友よ」と語りかける。

 この「友」という言葉は、ギリシア語辞典では「名を知らない者に語られる言葉」と書いてある。
 主人が名を知らないとは。
 彼は恵みから漏れたと言ったが、厳密にはそうではない。自ら神の恵みを否定したのである。当時、王から婚礼に招かれるときは、定められた礼服を与えられると言われている。この「礼服」は「キリストの義の衣」を意味するから、私たちが神の与えられる救いの衣を受けること、キリストを恵みによって受けいれることを示していると言えよう。すなわち、それを着ていないということは、神の恵みの方法に預からないで自らその恵みを拒絶する行為である。
 この「友」は、主人の心を理解するものではなかった。そして、この友は主に名を覚えられず(名の知らない者として)、暗闇に放り出された。

 ユダの裏切りについてはどうだろうか。
 主は「友よ、何のために来たのか」と言われ、また「ユダ、口付けで人の子を裏切ろうとするのか」と言われた。ユダが裏切ることを知っておられた主は「私のものは、決して失うことがない」「ただ滅びの子が滅びる」と語られた。ユダは最後のとき、主の御手に刻まれる名のあるものとして語りかけられなかった。主イエスの言われる「わたしのもの」ではなかった。
 彼はいつも、主のみそばにいた。しかし、その恵みを拒絶した。結果主の御心を知ること、受け入れることがなかった。彼はその自らの背信・裏切り・神の恵みの拒絶によって呪われた者・滅びの子としての道を突きすすみ神から裁かれたのである。

 以上の記事から、この「友」は共に主の御心を受け入れなかった者といえる。また、共に主の恵みの座を拒絶した者と言える。
 主は自らの側近くにあるその二人の人に「友よ」と語られたが、主の心においては遠く立ち、恵みのいのちを自ら拒絶した彼らに、滅びと裁きの宣告をもって報いられた。

 今日のたとえ(マタイ20章)は、それほどの裁きとしては極端のように思うかもしれない。しかし、同じ言葉で「友よ」と語られた。この言葉は聖書中3度しか用いられず、マタイの福音書は意図的に注意深く用いているものと見て取れる。また先の労務者は、あの二人の者と同様に主の近くにありながら、主の御心を知ることのなかった者、主の自らに与える恵みを受け入れない者である。
 彼は朝早くから、主人の恵みに浴していたのに、主人の恵みを忘れているばかりか、主が自らに与えられたのと同じように自分では生きられない貧しい者に与えられる無条件の恵みを批判した。その彼に主人は「私が良いために、あなた方には悪く思われるのか」と語られた。これは裁きの言葉に通じるものがある。
 もしそうなら、「
あとの者が先になり、先の者があとになる」ことは大事な問題であり、どうでもいいことではない。はじめに開いたルカの福音書13章30節で「今しんがりの者があとで先頭になり、いま先頭の者がしんがりになる」ことが救いについてのことであったように、命にかかわるかもしれない。

 この観点に立つなら、マタイ19章30節で「ただ、先の者があとになり、あとの者が先になることが多いのです」と弟子たちに語られた言葉の意味を少しだが理解できるように感じる。
 マタイ19章で主イエスは永遠の命を得るために成すべき善について金持ちの青年に語られるとき、弟子に対して「人には出来ないことが神には出来る」と語られ、御自身の十字架の贖いによって、人はこの方につながるその唯一の方法によってのみ、神に受け入れられることを暗示された。青年とイエス様との応答は、律法の行いによってではなく、神に完全に受け入れられるためにただキリストにつながること、を示すものであり、それこそまさに人には出来ない神の方法による救いであり、神のただ一方的な恵みの業であった。
 人は人の行いによって義を全うできないから、神の無限の恵みによらなければ救われなかった。しかし、青年はこの時点において主の恵みの業から離れたのであった。

 主の十字架、恵みの御業を示して主が弟子たちに語られるときに、ペテロは「私たちは何もかも捨てて主に従ってまいりました」と言ったのであった。
 「私は、あの青年のように金を置いて主に従わない人ではなく、全てを置いて従った」
 そういったペテロの言葉を主は決して非難されなかった。そればかりか結末における主の豊かな報いを約束しておられる。(主から報いを期待することは健全な信仰であり、主の真実を信じることである)主は、確かな御自身の真実をもって報いを約束してくださった。
 しかし、30節で「
ただ、先の者があとになり、あとの者が先になることが多いのです」と言われるとき、ここには弟子たちが注意すべき神の御思い、神の恵みを知る必要があるのではないだろうか。

 永遠の命を私たちに与えられるとき、主は御自身の十字架によって私たちの罪を贖い、一方的な神の恵みのわざによって与えてくださる命であることを示された。財産を捨てて従うことは、まさに、この主の恵みに預かる行為であり、人の義による行為をたてるものではない。そのことを青年に示し、弟子たちに示しているとき、この神の恵みを拒む者とならないように警告される。はじめから弟子に与えられる報いは神の贈り物であり、恵みに他ならない。主に従うことも、全てを捨てて主の弟子となることも、神の恵みの業であり、捨てることはむしろ、神の恵みに預かることを示している。青年も弟子もまた、ただ一方的に主の恩寵によって永遠の命と救いが用意されているのである。逆に主の恵みを拒むということは、自らの行い(私の良さ・功労)によって義となることを示している。主が弟子たちに与えられた言葉はなお弟子たちが聞くべき注意を持って語られている。
 パウロが書簡の中で言っていることでもある。
 ユダヤ人は神から選民として選ばれ、王国の歴史のはじめから恵みを恵みを受けてきた。しかし、神の言葉を拒んだために福音とそれに伴う祝福は異邦人に向かい、ユダヤ人は「あとのもの」となってしまった。パウロが何度も対立し、パウロの福音の主題に置いたのは、この「行いの義」と「恵み」とについてであったから、なお、キリスト者が割礼や律法によらなければ救われないというなら神の恵みを拒むことに他ならないと強く主張し、福音の真理として一歩も引かなかったのである。

 私たちの求める富は、神の御国を相続すること、神の国で真の意味で「さきのもの」となることであり、イエス様はいつも御言葉によってそのことを私たちに示しておられる。決して後になることはどうでも良いことではない。順序のことではなく霊的な位置を示すものである。

 弟子たち、キリスト者が与えられる全ての祝福は、神の一方的な恵みに基づく。
 それ以外のもの、自分の行為によって近づく方法は正しい基準ではない。主のみそばにありながら心において遠く離れていた友のことを思いおこしたい。
 私たちが全てを捨てるということは、私たちの方法によらないで、神の下さる賜物によって生きるということである。
 主は、このことを弟子たちに示しておられたのではないかと思う。

 

以下、テーマに基づく議論と話題