礼拝・学び 概要

鈴ヶ峰キリスト福音館

20021027(日)


主と出会う場所

――復活の朝――

ルカの福音書 24:1-5
24:1 週の初めの日の明け方早く、女たちは、準備しておいた香料を持って墓に着いた。
24:2 見ると、石が墓からわきにころがしてあった。
24:3 はいって見ると、主イエスのからだはなかった。
24:4 そのため女たちが途方にくれていると、見よ、まばゆいばかりの衣を着たふたりの人が、女たちの近くに来た。
24:5 恐ろしくなって、地面に顔を伏せていると、その人たちはこう言った。「あなたがたは、なぜ生きている方を死人の中で捜すのですか。

 マグダラのマリヤ、ヨハンナとヤコブの母マリヤ――女たちは、復活の朝、恐ろしくはあったが主の愛に促されて墓に来た。
彼女たちに現れて御使いは言うのである。
あなたがたは、なぜ生きている方を死人の中で捜すのですか。

 この言葉はどの時代のクリスチャンにも、チャレンジをもって語られる。
あなたは復活の主ご自身と交わっているだろうか。
御使いは言う。「生きている方を死人の中から探すのですか

 私たちは生ける神を一体どこでお目にかかることができるであろうか。
主は示された。

マルコ16:7 ですから行って、お弟子たちとペテロに、『イエスは、あなたがたより先にガリラヤへ行かれます。前に言われたとおり、そこでお会いできます。』とそう言いなさい。」

ガリラヤは主が十字架にかかられる前に弟子たちに話されていた地である。弟子にとって復活の主に会う為には約束していたガリラヤの地に行くべきだった。
 

ヨハネ21:1-7
この後、イエスはテベリヤの湖畔で、もう一度ご自分を弟子たちに現わされた。その現わされた次第はこうであった。
21:2 シモン・ペテロ、デドモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナのナタナエル、ゼベダイの子たち、ほかにふたりの弟子がいっしょにいた。
21:3 シモン・ペテロが彼らに言った。「私は漁に行く。」彼らは言った。「私たちもいっしょに行きましょう。」彼らは出かけて、小舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった。
21:4 夜が明けそめたとき、イエスは岸べに立たれた。けれども弟子たちには、それがイエスであることがわからなかった。
21:5 イエスは彼らに言われた。「子どもたちよ。食べる物がありませんね。」彼らは答えた。「はい。ありません。」
21:6 イエスは彼らに言われた。「舟の右側に網をおろしなさい。そうすれば、とれます。」そこで、彼らは網をおろした。すると、おびただしい魚のために、網を引き上げることができなかった。
21:7 そこで、イエスの愛されたあの弟子がペテロに言った。「主です。」すると、シモン・ペテロは、主であると聞いて、裸だったので、上着をまとって、湖に飛び込んだ。
 

 弟子たちは主の言われた地にきていた。彼らは主を待っていた。
 弟子たちは漁をしはじめる。ペテロは失意の中で復活の主を待ち望んでいた。
どのように自分がイエス様に受け入れられるか不安だったかもしれない。しかし、主に愛されたあの弟子が「主です」とペテロに言うと、彼はいても立ってもいれらず主のみもとに飛び込んでいった。
ペテロ自身に会われた主を御前にして一体どれほどの喜びと感動があったことだろうか。

 復活の主を知ることと出会うことには大きな開きがある。ペテロは女たちによって復活の主のニュースを知っていた。しかし、ここにおいて〔再び〕主と出会う。
 私たちは主が復活されていることをよく理解している。
 しかし、それと復活の主と出会うことには較差がある。

――私はヘルモン山荘(長野菅平)に行ったときの感動を今でも覚えている。早朝、ヘルモン山荘から日本アルプスの山々が見えるのだ。なんと幻想的で荘厳な美しさだったことか。私はこれらのものが美しいものであることを知っていた。知識で知っていた。しかし、朝起きて見たときはすごい。感動するのだ。美しいことを知っていることと美しいものに出会っている感動とには天と地ほどの違いがある。――

 知る事と出会うことには開きがある。 
では、信仰生活の中で「主とどこでお会いできるのでしょうか」と尋ねる。
 それは、御使いが言ったように生きている方を死人の中から捜すべきではない。『主のおられる場所』に行くべきなのである。

 

――どこで主とお会いするのか――

ヨハネ16:7
しかし、わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたにとって益なのです。

去る事は益なのです、という。一体何が益なのか?それは、もしわたしが去って行かなければ、助け主があなたがたのところに来ないからです。しかし、もし行けば、わたしは助け主をあなたがたのところに遣わします。どこにいてもいつでも私たちは聖霊によって復活の主の命に預かることができるのだと。その中にあって私たちはどれだけ復活の主を味わい体験しているだろうか。
 どこにいても出会えるというのに、ではどうすれば実際的に更に主の臨在を体験するのであろうか。

 ヨハネ12:26に『わたしに仕えるというのなら、その人はわたしについて来なさい。わたしがいる所に、わたしに仕える者もいるべきです』とある。
 復活の主の臨在の中にある場所というのは、主に仕える場所ではないだろうか。
 弟子たちは宣教によって、また教会の牧会によってキリストに従事した。仕えた場所こそ、そこにおいて主がご自身をあらわされた場所であった。パウロもまた異邦人の使徒として召されているとき、彼はそれを自らの歩むべき道のりとして認識した。パウロにとって良かれと思う道を行くことなのではなく、主が示した歩むべき道のりを踏み出すことこそ義の栄冠の道だった。

 私たちは信仰を告白するとき主を体験した。
 そしてまた、「私は主のものです」とキリストの旗印を明確にしたとき主のあわれみを体験した。
 さらに、その恵みに留まりつづけるときに。

 私たちは知る知識によってではなく、主の召しに従い、仕える場所において主がそこにおられることを体験する一歩一歩の歩みを踏み出すのである。
 その意味で信仰生活は日々チャレンジの連続である。
 生けるキリストを死人の中から探すのではなく、自分の身を主イエス様の言われたガリラヤに置くときに初めて、そこが復活の主と出会う場所であるのだ。