礼拝・学び 概要

鈴ヶ峰 キリスト 福音館

2002年11月10日(日)

信仰生活の基点

――大切なもの――

マルコ12:28-34
12:28 律法学者がひとり来て、その議論を聞いていたが、イエスがみごとに答えられたのを知って、イエスに尋ねた。「すべての命令の中で、どれが一番たいせつですか。」
12:29 イエスは答えられた。「一番たいせつなのはこれです。『イスラエルよ。聞け。われらの神である主は、唯一の主である。
12:30 心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』
12:31 次にはこれです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』この二つより大事な命令は、ほかにありません。」
12:32 そこで、この律法学者は、イエスに言った。「先生。そのとおりです。『主は唯一であって、そのほかに、主はない。』と言われたのは、まさにそのとおりです。
12:33 また『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして主を愛し、また隣人をあなた自身のように愛する。』ことは、どんな全焼のいけにえや供え物よりも、ずっとすぐれています。」
12:34 イエスは、彼が賢い返事をしたのを見て、言われた。

 この個所に一番大切なものは何かという問いがある。この話に至るまでの内容にパリサイ人や律法学者たちのイエス様への問答において、彼らの視点がずれている事を私たちは見ている。ただ、ここでの問いは私たちに何が大切なのかを教えている。

 私たちは何か事を行うとき、目的をもっているが、段々何をやっているのか分からなくなるということが起こる。同様に律法学者は 神を愛する故に守るべき律法 が、いつしか律法を守ることを目的としたそのような文字に仕えることとなっていた。そのため、「義人」と自認していても彼らは、しばしば主に叱責される。「あなたの神である主を愛せよ」という一番始めのみこころがずれていた為に間違いに入っていったのだ。

 「あなたの弟子たちはなぜ手を洗わないで食べるのですか」「なぜあなたは安息日にしてはいけないこと(人を癒す)をするのですか」 彼らが狂わした最初のブレによって、そのようなキリストへの問いになる。
 もし12:33 『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして主を愛し、また隣人をあなた自身のように愛する。』ことをこころの中心に置くなら、それに続く律法のこころを正常に読むことができたのではないだろうか。神を本当に愛しているなら、神が愛しているものを自らも愛するとことができるはずだ。
「神が人を愛する」ことを知るなら、(神のこころを)知れば知るほど私たちもそのように愛する(ことを求める)だろう。だから、一番最初の視点は「あなたの神である主を愛せよ」と言われるのである。

ローマ書10:9-11
10:9 なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。
10:10 人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。
10:11 聖書はこう言っています。「彼に信頼する者は、失望させられることがない。」

 この個所はクリスチャンにとって一番基本的なものである。クリスチャンとは、「イエスを主と告白した者」と言えよう。この「イエスを主と告白する」という言葉の中には、奴隷が主人に向ける態度があらわされている。それは「生殺与奪の権はあなたにある。」ということだ。クリスチャンの生活の根底にはイエスを主と告白することに基準がある。その基準から全ての物事が判断される。

 世の中には良い事や善なる事がたくさんある。しかし、聖徒の基準は良いことだからするのではなく、唯、イエス様の命じることが一番良いことであるとすることにある。世は何が善で役に立つのかを行動の基準にする。しかし、私たちの基準はイエス様が命じられたからするのだ。
 その意味で、誰を主と告白するのかが人生において大きな問題である。「私は主を愛されたものを愛し、主が憎まれたものを憎むのです」という聖徒の宣言を聞いたことがある。まさにそこに全ての生活がある。具体的な例として次の言葉をとりあげて考えたい。

ルカ14:26-27
14:26 「わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、そのうえ自分のいのちまでも憎まない者は、わたしの弟子になることができません。
14:27 自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません。

 私たちにはこの言葉は大変厳しく聞こえるかもしれない。「自分、父、母、子よりもわたしを愛するもの」でなければならないとは、少し横暴ではないだろうか。
 しかし、本当の弟子となるときこれらの素晴らしさを知ることになる。よく考えるなら、主に従っていて、たとえば不遜な親不孝な者はいない。それは、イエス様の弟子となるとき、自分の基準によってではなく、主の基準をもって親に接するからなのだ。結果的にそれによって主の命が表れ出る。

 14:26 「わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、そのうえ自分のいのちまでも憎まない者は、わたしの弟子になることができません。とある。自分の命を憎むとはどういうことだろう。「自分の命」それは「低い命」とも説明される。低い命を憎むものは主イエスの命によって生きることを願うものである。そこに、弟子となるものの信仰告白がある。ヨハネの手紙には「私たちの交わりとは御父および御子イエス・キリストとの交わりです」と書かれている。その交わりとは、共有(コイノニア)することである。私たちがこの命の交わりの中に入れられるのである。
 この現実を本当の実際として理解するなら、深い驚きに包まれる。
 もし、私たちがいつまでも低い命を大事にしようとしているなら、主の命に交わることはできない。
書簡は語っている。

・神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。(エペソ1:3,4)
・神は真実であり、その方のお召しによって、あなたがたは神の御子、私たちの主イエス・キリストとの交わりに入れられました。(Tコリント1:9)
・私たちが神の子どもと呼ばれるために、・・事実、いま私たちは神の子どもです。・・御父はどんなにすばらしい愛を与えてくださったことでしょう。世が私たちを知らないのは、御父を知らないからです。愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。(Tヨハネ3:1,2)

 誰にこれらの約束が与えられたのだろうか。低い命を持っていた私たちに向けられ、そのような中で主を告白するものに対してである。それゆえ、主を告白することが信仰生活の基本である。(律法学者は始めのこころを見失っていたために彼らの教義が主を排した。いま私たちの全ての判断、基点はキリストへの告白によることから生じることを覚えなければならない。)
 「わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、そのうえ自分のいのちまでも憎まない者は、わたしの弟子になることができません。」
 私たちに与えられた神の命に預かるためには、低い命の私が死ななければならない。
神がどれほど私たちを恵みで満たそうとされているか、この言葉を受けて、共に神ご自身の私たちに求められたみこころを深く覚えたい。