礼拝・学び 概要

鈴ヶ峰 キリスト 福音館

2002年11月17日(日)

恵に留まり続ける

――恵みの中に生きよ――

創世記1:26-31
1:26 そして神は、「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。」と仰せられた。
1:27 神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。
1:28 神はまた、彼らを祝福し、このように神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」
1:29 ついで神は仰せられた。「見よ。わたしは、全地の上にあって、種を持つすべての草と、種を持って実を結ぶすべての木をあなたがたに与えた。それがあなたがたの食物となる。
1:30 また、地のすべての獣、空のすべての鳥、地をはうすべてのもので、いのちの息のあるもののために、食物として、すべての緑の草を与える。」すると、そのようになった。
1:31 そのようにして神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ。それは非常によかった。こうして夕があり、朝があった。第六日。

 ここに神の人に対する取り扱いを見ることができる。神は人をお造りになり、祝福し全ての必要と恵みを与えようとされている。
 人の本来の姿は、「人は神によって造られ、神によって与えられたものの内に生き、感謝して生きる」ことのなかにある。28節の「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」という「支配する」という言葉は「管理する」ことを表す。この管理するというのは喜びの働きである。この恵みの生活に入る人は神から与えられる良きものを発見し、喜び、楽しみ、神に感謝する生活が与えられる。そして、これが本来の姿である。

 しかし、アダムとエバがそうしたように人が神の恵みから離れる姿が聖書に描かれている。なぜ、人は恵から離れるのだろうか。恵から離れる動機は何であろう。

創世記2:16-17,3:5-7
2:16 神である主は、人に命じて仰せられた。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。
2:17 しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」
3:5 あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」
3:6 そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。それで女はその実を取って食べ、いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べた。
3:7 このようにして、ふたりの目は開かれ、それで彼らは自分たちが裸であることを知った。そこで、彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰のおおいを作った。

 なぜ、彼らは善悪を知る知識の木の実に興味を持ったのだろうか。悪意ではないように見える。動機は「興味を持った」ということであることは明らかである。ではなぜ?
 もしかすると、自らの力によって神を喜ばせたかったのかもしれない。神のような知識を持つなら、そのことで神を喜ばせることが「自らの力で」できるのではないか?――しかし、そのような行為は神が与えてくださったものを喜ぶことではなく自ら生み出すことをもって神に与えたいと願うことである。そうであるなら、そのようなことの心の過程は創造者と対等なところに置く被造物の心がある。被造物であるものは在るべきところに居なければならない。しかし、そこを離れるとき恵みから離れた者となる。

 いずれにしても、彼らは自らに与えられたものに満足できなかった。神が与えられることよりも他のものを願う、在るべきところに居ないものの姿。福音書はこのように語りかける。
Tコリント 15: 22
15:22 すなわち、アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストによってすべての人が生かされるからです。
 イエス様のみ姿には、人が生きる全てを学ぶことができる。イエスの姿こそ、人があるべき姿である。

マタイ 4: 1-11
4:1 さて、イエスは、悪魔の試みを受けるため、御霊に導かれて荒野に上って行かれた。
4:2 そして、四十日四十夜断食したあとで、空腹を覚えられた。
4:3 すると、試みる者が近づいて来て言った。「あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい。」
4:4 イエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。』と書いてある。」
4:5 すると、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の頂に立たせて、
4:6 言った。「あなたが神の子なら、下に身を投げてみなさい。『神は御使いたちに命じて、その手にあなたをささえさせ、あなたの足が石に打ち当たることのないようにされる。』と書いてありますから。」
4:7 イエスは言われた。「『あなたの神である主を試みてはならない。』とも書いてある。」
4:8 今度は悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華を見せて、
4:9 言った。「もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう。」
4:10 イエスは言われた。「引き下がれ、サタン。『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ。』と書いてある。」
4:11 すると悪魔はイエスを離れて行き、見よ、御使いたちが近づいて来て仕えた。
 ここにアダムとエバが誘惑されたのと同じ光景がある。その最大の焦点の一つは「神の恵みから離れて自分の力で生きよ」というものである。ここでも、サタンは「あなたは自分の力で生きよ」ともくろんだ。それに対して イエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。』と。主の生活の姿勢をここに見ることができる。神が与えられたもので我は生きる。主にとって石をパンにすることは容易なことである。しかし、主の生活は神によって与えられるもので生きる。
 また4:7 イエスは言われた。「『あなたの神である主を試みてはならない。』主はあえて神を試す必要はないのだとしている。
 サタンはとにかく人を神から引き離したい。しかし、イエスは言われた。「引き下がれ、サタン。『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ。』
 エペソ書を見るなら、確かにサタンは世の支配者としての地位を確保しているようである。だから世の支配権を与えることはあながち偽りではないかもしれない。しかし、そのことによって得られるものには何の価値もない。主イエスにとって、神の働きによらなければ何一つ益なるものはない。父なる神から離れることはもっとも危険なことである。

 詩篇にはこのようにある。
 主が家を建てるのでなければ、建てる者の働きはむなしい。主が町を守るのでなければ、守る者の見張りはむなしい。(詩篇127:1 )
 それゆえ、被造物の立場は、神の与える愛と恵に憩うことの素晴らしさを覚えることであろう。

ローマ書8:31-34
8:31 では、これらのことからどう言えるでしょう。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。
8:32 私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。
8:33 神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。
8:34 罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。

 神が、私たちに与えてくださった御救いの立場もそれと同じだ。アダムが一方的に受けたのと同じように、主は私たちにまた一方的な恵みによって救いを与えられた。私たちは被造物としてその恵みの座を離れるべきではない。離れるものとしてではなく、主の恵みを喜び楽しみながら生きる者である。ある兄弟がローマ書を読みすすめて涙と共に言ったことがある。「私は、何もしなくていいのですね。」と。まさしく、あふれるほどの神の愛が凝縮されて注がれているのが私たちの立場である。

 また、主は人に「支配」するように仰せられた。「管理する」という、それは、恵み(喜び)の働きである。管理することによってよくよく知らなければならない。神の恵みにとどまることのすばらしさを。それによって、自らの力によって何かしなければならない、という恵みから離れた生活を求めることのないようにしなければならない。自らの力によって生きる、その罪の原型はガラテヤ書によく描かれていることだ。
 私たちは、主の与えて下さる神の恵みのうちにとどまりつづけ、み救いを喜び楽しむことによって生きる者なのである。