礼拝・学び概要

鈴ヶ峰 キリスト 福音館

20021124日(日)

 贖い主に近づく

――苦しみを知っておられる方――

ヘブル書2:10
2:10 神が多くの子たちを栄光に導くのに、彼らの救いの創始者を、多くの苦しみを通して全うされたということは、万物の存在の目的であり、また原因でもある方として、ふさわしいことであったのです。

 創始者というところの注釈に「指導者・君」とある。すなわちイエス様のことである。なぜ、神である方が苦しみに会うことが相応しいことなのだろうか。
詳訳聖書にはこのように書いてある。

なぜなら、万物がその存在を保つ理由であり原因であられる神が、多くの子らを栄光に導きいれるのに、彼らの救いの創始者を苦しみを通して完全なものとされる〔すなわち、神の大祭司の職務のため完全な備えができるためにどうしても必要な人間としての経験を完成させられる〕のは、〔神に〕ふさわしい〈〔神のご本質に〕かなった〉みわざであったからです。

大祭司の職務を行われるために、人間の経験を完成されなければならなかった。
続けて御言葉を開きたい。ルカ伝には、
19:10 「人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」と、主ご自身の御言葉がある。

 私たちは神の所有物なのである。所有者が所有物を探して代価を支払われる。私たちをご自身のうちに保つために大きな代価が払われた、その代価がイエス様のみ苦しみにほかならなかった。イエス様の苦しみとはどのようであろうか。私たちは味わっても足りない、また味わいきることはできない。

イザヤ書53:3,4,7
53:3 彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。
53:4 まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。
・・・
53:7 彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれて行く小羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。

ユダヤ人の多くは、人の苦しみ・病気・災難は罪の結果であり神の裁きであると考えていた。その観点で言えば、イエス様の苦しみの様は普通の裁き(苦しみ)ではない。よほど大きなことがあったに違いない。
7節に
「彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれて行く小羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。」とある。確かに主は、ピラトの裁判でも黙っておられた。イエス様の苦しみは、ピラトの裁きの前にあって、真実のところ父なる神ご自身の罰を受けるべく評価を甘んじて受けておられる。私たちには、無実の罪・誤解の苦しみというものは耐えがたいものである。ピラトもそのように証言している。(嫉みから引き渡されているキリストを見て弁明を促している。)しかし、神の裁きの内に立つイエスの姿の中には、「苦しんだが口を開かない」光景があった。
53:7 彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれて行く小羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。
ご自身がどのように神から評価されても、ただ黙ってしのばれた。

 あなたがたはこのような事件を聞いたことがあるだろうか。
―― 昔、滋賀県のとある場所で大火事になった。多くの家屋が焼失し、犠牲を出す結果に至った。悲惨な事件の犯人の捜査が開始されたが、うわさとも証言ともとれぬ状況によって、5歳、6歳の二人の子供が火事を起こしたということで捜査は打ち切られる。捜査も終わり、それから7年もの間、その子供の親・兄弟、家族は村八分に会うのであった。
 村には、火事で家屋が焼失した人のための仮設住宅が提供されたが、その子たちの家族は、仮設住宅に入ることも断られる。お詫びをし、許しを請うたが、決して受け入れられなかった。その冬、厳しい寒さを納屋で過ごし、また配給も2日に1日分しか与えられなかった。学校の廊下では、その二人の子は子供たちに引きずりまわされるのである。
 祖母はそのような不憫な子を想いながら、心配して死んでいかなければならなかった。また、事故を起こしたとされるもう片方の子の家族は、とうとう耐え切れないで、その地を離れ引っ越していった。
しかし、その後、窃盗罪で逮捕された一人の男が火事の事件について自白をした。7年前にあの火事を起こしたのは自分であるということを。――

 誤解された苦しみは、耐えがたいものだ。村の人々はその事実を知っていたたまれない思いをしたであろう。多くの人はキリストを見て、彼は神に打たれたのだと思った。しかし、なお口を開かれない主。私たちにはそのような誤解は耐えがたい。しかし、主の沈黙は、大祭司としての役目をもって罪深き(苦しみの中にある)私たちを贖うためであった。

ヘブル2:17-18
2:17 そういうわけで、神のことについて、あわれみ深い、忠実な大祭司となるため、主はすべての点で兄弟たちと同じようにならなければなりませんでした。それは民の罪のために、なだめがなされるためなのです。
2:18 主は、ご自身が試みを受けて苦しまれたので、試みられている者たちを助けることがおできになるのです。

 私たちは苦しみを他者に相談したとき、それを理解してくれるだろうか、と不安である。他の人はあなたの思っているそんなことはなんでもないという。なぜ、私の心を理解してくれないのか、と問いたかろう。しかし、同じ苦しみをした人にだけは理解できる。イエス様が私たちを助けることができるというのは、主が全ての苦しみを味わい尽くして下さったからだ。その主が今私たちにみもとに近づくように語りかけられる。

ヘブル4:15-16
4:15 私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。
4:16 ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。

 私たちはイエス様の元に行ったとき、果たして受け入れられるだろうかと不安かもしれない。私たちは世の有名な人に会うことでさえ、あってくれるものかどうか疑問である。しかし私たちは神の前に近づこうというのだ。主が山上の垂訓をなされたとき、マタイ伝には人々が権威ある主の御声に驚いていたという光景が描かれている。人々の賞賛の只中にあるそのような主が多くの人々と共に山から降りられているそのとき、主の前にらい病人が「主よ、お心一つできよくされます」と嘆願した。その光景は、人間的に言えば、「そんなことは後にしてくれないか」という感じだろう。しかし、主の心は多くの賞賛する人々よりも、一人の信仰を持って近づくらい病人の心に向けられているのだ。
 らい病人の皮膚に触り、「
私の心だ、きよくなれ。」という言葉の中には、まさに主の心が表れている。
 私たちは主のみもとに行くのに、何の躊躇をする必要もないのである。それほどに哀れみ深い主であるのだ。

4:16 ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。

 聖書はおりにかなった助けを得ることができると語っている。この言葉は私たちに具体的実践を投げかけている。
 私たちは(私たちの側で)受け入れられないだろう、という距離をおき、壁をつくっている。だが、今この時代でも実行する(近づく)ことが求められている。主の御手の力を体験するのはただそれによる。
 体験していく人は私たちと遠いところにある偉人の信仰者なのではない。主は私たちに、あなたに「近づきなさい」と仰せられる。