ヨシュア記1:1-5
1:1
さて、主のしもべモーセが死んで後、主はモーセの従者、ヌンの子ヨシュアに告げて仰せられた。
1:2
「わたしのしもべモーセは死んだ。今、あなたとこのすべての民は立って、このヨルダン川を渡り、わたしがイスラエルの人々に与えようとしている地に行け。
1:3
あなたがたが足の裏で踏む所はことごとく、わたしがモーセに約束したとおり、あなたがたに与えている。
1:4
あなたがたの領土は、この荒野とあのレバノンから、大河ユーフラテス、ヘテ人の全土および日の入るほうの大海に至るまでである。
1:5
あなたの一生の間、だれひとりとしてあなたの前に立ちはだかる者はいない。わたしは、モーセとともにいたように、あなたとともにいよう。わたしはあなたを見放さず、あなたを見捨てない。
この箇所はイスラエルの民がエジプトの地から導き出され、約束の地・カナンへ進みいく記事である。この霊的意味――世を表わすエジプトから救い出され、約束の地に至る勝利を得る記事は、クリスチャンが信仰によって勝利を得ていくことを覚えさせられる。
イスラエルの約束の地を勝ち得る姿の中に、第一に神の働きが表わされており、同時に人の働きを通して、実現的成就が成されていく過程を示している。
1:3
あなたがたが足の裏で踏む所はことごとく、わたしがモーセに約束したとおり、あなたがたに与えている。
もし、神が一方的な神の御手のわざだけで人に与えて、信仰者に何も行動を求められていないのであったら、3節前半「あなたがたが足の裏で踏む所はことごとく――」の言葉は異なったものとなってくるはずである。主は人々の働きと信仰の行為を通して主の御業をあらわそう、「ことごとく、わたしがモーセに約束したとおり、あなたがたに与えている。」あなた方に既に勝利を与えている、と言われる。――もはや既にあなた方の所有であるといわれる言葉である。
神はクリスチャンに、救い・恵み・永遠の命・霊的祝福のすべてはあなたのものだ。と言われる。このような(全てを満たす)神のみわざは終わっているとき、約束のものを自分の体験として得るためには3節のように「足の裏で踏む」ことを行うことを恵みの方法として定めておられる。
私たちも既に与えられているが、自分のものとしての体験をもつには足を踏み出す必要がある。
ヨシュア記6:1-3
6:1
エリコは、イスラエル人の前に、城門を堅く閉ざして、だれひとり出入りする者がなかった。
6:2
主はヨシュアに仰せられた。「見よ。わたしはエリコとその王、および勇士たちを、あなたの手に渡した。
6:3
あなたがた戦士はすべて、町のまわりを回れ。町の周囲を一度回り、六日、そのようにせよ。
エリコの城壁の陥落は、「あなたの手に渡した」という神のわざによって既に成就したことである。その後の実際の勝利の体験は、その後の方法――信仰によってかく行うだけである。神は与えたが、あなた方の働きもともに神の働きとともに重ね合わせられる。与えられることは神の働きなのであるが、人の働きもまた共有される。まさに人の働きは微々たるもの、行為の現象としては何でもない。しかし、神は人の働きもともに求めておられる。
ヘブル書にはこうある。
11:30
信仰によって、人々が七日の間エリコの城の周囲を回ると、その城壁はくずれ落ちました。
彼らはエリコノ城壁の周りを回るとき、信仰によってそれを行った。信仰がないなら、そのことは何の意味もない。もし、彼らのうちに信仰がないのならその働きは虚しい。しかし、神の勝利の約束を信仰をもって勝ち取った。
ヘブル書11:6 信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。
神はクリスチャンに対して、信仰をもって歩みなさいと、語られる。神の約束は、信仰をもって歩むとき、あなたの体験となるであろう。もし、信仰というものを何もしなくていいという、座して神頼みとし、棚から牡丹餅とでもいうかのような待ち方をするなら、与えられている更なる祝福の事実を知ることができない。
詳訳聖書では書かれてある言葉はこうだ。ヘブル書11:6
信仰がなければ、彼に喜ばれること<満足していただくこと>はできません。なぜなら、神に近づこうと願うものは誰でも、神のいますことと、神ご自身を熱心に<つとめて>求め〔見いだす〕者には報いを与えるかたであられることとを、<どうしても>信じなければならないからです。
信仰は、私たちの(神の業をどうしても見たいのだという)熱心さをもって近づくことを通して明らかにされる。信仰によって求めるものには、報いてくださる結果がある。
ルカ伝における長血をわずらった女は信仰によってイエス様の着物のふさに触った。信仰がなければ、それはなんの行為でもなかった。しかし、彼女は主から救いの言葉を得た。
信仰による働き、信仰による行為を決して軽んじてはならない。
ヘブル書11:33-37
11:33
彼らは、信仰によって、国々を征服し、正しいことを行ない、約束のものを得、ししの口をふさぎ、
11:34
火の勢いを消し、剣の刃をのがれ、弱い者なのに強くされ、戦いの勇士となり、他国の陣営を陥れました。
11:35
女たちは、死んだ者をよみがえらせていただきました。またほかの人たちは、さらにすぐれたよみがえりを得るために、釈放されることを願わないで拷問を受けました。
11:36
また、ほかの人たちは、あざけられ、むちで打たれ、さらに鎖につながれ、牢に入れられるめに会い、
11:37
また、石で打たれ、試みを受け、のこぎりで引かれ、剣で切り殺され、羊ややぎの皮を着て歩き回り、乏しくなり、悩まされ、苦しめられ、
信仰によって歩んだものが世にあって救われていない、と見るかもしれない。神の力を限定して考えているなら、このことは理解しがたい。しかし、信仰によって敵を打ち負かし、勝利から勝利へと進む道を与えられる主は、また、敵から攻撃され、打ち負かされてもそれに勝る力によって耐えうる救いをも与えられる。生徒たちは苦しみの中で霊的勝利の信仰を得ていた現実があった。これらは、共に神の栄光を表す力である。
神の力によって苦しみに耐えるとき、彼らの苦しみは苦々しいものではない。神の完全な保護(神の信頼と神への信頼)のもとにあって取り扱われている姿である。ステパノをみるとき、主が彼を見捨てたまわないことを知る。
ヘブル書11:6 信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。
信仰によって神の約束を現実のものとすることを願う。