礼拝・学び 概要

鈴ヶ峰 キリスト 福音館

2002年12月8日(日)

主の用いられる証人

――選びによって残された者――

ローマ11:2-5
11:2 神は、あらかじめ知っておられたご自分の民を退けてしまわれたのではありません。それともあなたがたは、聖書がエリヤに関する個所で言っていることを、知らないのですか。彼はイスラエルを神に訴えてこう言いました。
11:3 「主よ。彼らはあなたの預言者たちを殺し、あなたの祭壇をこわし、私だけが残されました。彼らはいま私のいのちを取ろうとしています。」
11:4 ところが彼に対して何とお答えになりましたか。「バアルにひざをかがめていない男子七千人が、わたしのために残してある。」
11:5 それと同じように、今も、恵みの選びによって残された者がいます。

 この箇所はエリヤの時代、アハブ王がイスラエルに偶像崇拝を持ち込み、多くの神の預言者を殺したときのことである。
 エリヤは3節のように 「主よ。彼らはあなたの預言者たちを殺し、あなたの祭壇をこわし、私だけが残されました。彼らはいま私のいのちを取ろうとしています。」と言う。しかし、それにもましてバアルにひざをかがめていない男子七千人が、わたしのために残してある。と答えられた。

 神はいつもご自身の為に民を残しておられる。本当に残されたものはいるのでしょうか、と問うかもしれない。しかし、主によって残されたものが7000人いるという、これが事実である。

 キリスト教の歴史は、世に表された人によって証されたのではなく、世に隠された人によって証された。国教会となった時から、キリスト教の歴史は地下にもぐったと言われるように、隠された人によって真理の証が保たれてきた。
 この7000人の人は無名の人たちである。しかし、ただ主に忠実だった。神はこのような人を通してご自身の証を保っておられる。

 新約の時代でも同じことが言える。初代教会は12弟子が主の証を担った。彼らは名もない人たちであった。彼らの信仰ぶりを見るなら、およそ哲学的・宗教的とはいえない。主はなぜこのような人たちを選ばれるのだろうか。
 ペテロは主イエスを三度も知らないといい、その上、のろいまでかけて否定した。彼だけでなく、多くの弟子は主を捨てて逃げていった。しかも、マルコ著者であろう青年(マルコ)においては捕らえられようとしたので裸で逃げ去ったと言う様まで描かれている。そのような弟子たちを見たとき、なぜ主によって選ばれたのだろうか。
 主の選びは、イエス様が十字架にかかられ、この十字架の証、すなわち人類の救いの鍵を弟子たちに託されることを意味するとき、非常に重要なものである。弟子たちにゆだねられるとき、本当に主は信頼されたのだろうか、何ゆえ彼らを信頼することができるのだろう。もし、彼らが主の心に応えないなら、主の御業は無駄になおそれがあるではないか。
 しかし、確かに主によって残された者は12弟子であった。

Tコリント
1:26 兄弟たち、あなたがたの召しのことを考えてごらんなさい。この世の知者は多くはなく、権力者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。
1:27 しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。
1:28 また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。
1:29 これは、神の御前でだれをも誇らせないためです。
1:30 しかしあなたがたは、神によってキリスト・イエスのうちにあるのです。キリストは、私たちにとって、神の知恵となり、また、義と聖めと、贖いとになられました。
1:31 まさしく、「誇る者は主にあって誇れ。」と書かれているとおりになるためです。

 28節にこの世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。とある。弟子たち、残された7000人の民はこの世において見下され、名もない人たちにすぎない。彼らは弱いからこそ、力がないからこそ、主に祈った。主に頼らなければ何の価値も得なかった。力がないから主に頼るしかなかった。そのとき、神が彼らを通して栄光を表される。もし、彼らに力があり、権力があり、自分に頼って主の為の業をしても、主の栄光は見ることができない。
 こうして、主が世において取るに足りないものを通してご自身を表される歴史が続いているのだ。このことは私たちにも同じように言われている。

 身分の高いもの、富者はそんなに多くはいまい。それは神が栄光を表す一つの方法ではないだろうか。自分のうちに力がないからこそ、主の恵みの働きを求め祈るのである。初代教会の時代、知恵も力もなかった弟子たちに福音をゆだねられた。今の時代は私たちに福音をゆだねておられる。
 自分自身を見るなら、なぜ主は私にゆだねられるのだろうか。もし、私たちが働かないなら、主の贖いの御業は(私の周りに置かれた多くの者を前にして)無駄になるかもしれない。それなのに、主は私たちを信頼しておられる。だが、私たちには自信がない。自信がないからこそ、主に頼るしかないのである。

1:30 しかしあなたがたは、神によってキリスト・イエスのうちにあるのです。キリストは、私たちにとって、神の知恵となり、また、義と聖めと、贖いとになられました。

 イエス・キリストは私たちに神の知恵となってくださる。主は私たちにスーパーマンになるように言ってはおられない。私たちはどこまでいってもちりに等しい。しかし、ない者が主を求めるとき、主が自ら私たちの知恵となってくださるのである。私たちは主イエスの内に消え去るのみである。同様に、どうしても私たちには神の義が必要である。イエス・キリストは私たちの神の義となってくださる。

 このことを覚えるとき、大胆に主の業(働き)を求めることができるであろう。名のある人たちをではなく、私たちを用いようとされる主がおられる。全ての必要は主ご自身が私たちの満たしとなってくださる。私たちがなす何ものもない。ただ私たちは主の働きの目撃者である。だから、主の証人なのである。

 私たちは主のみ業に預かる願いを求める祈りをすべきである。