礼拝・学び 概要

鈴ヶ峰 キリスト 福音館

2002年12月15日(日)

献身の立場

――再生不能な状態から、神の業を証する器へと――

ローマ書12:1,2
12:1 そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。
12:2 この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。

 ここは有名な個所であり、私たちの神に対する献身を記している。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。
 私たちが「献身」と聞くと、自分のイメージの中に、高価なもの、尊いものを神に献げるというニュアンスを想像しがちである。しかし、ここでは、「あなたがたのからだを」と書いてある。もし、正しく自分自身や人間についてどういうものであるかを考えるなら、私たちは決して価値あるものではありえない。ここに、聖書の言う献身と私たちのもつ献身というイメージには、ズレがあるのをみることができるのではないだろうか。

 私たちは、決して高価なものではない。パウロでさえも、「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」(ローマ7:24) と言って、本来の自分には失望している。そのようなもの(自分)を献げられても価値はない。
 しかし、聖書が「この方にあって、組み合わされた建物の全体が成長し、主にある聖なる宮となるのであり、このキリストにあって、あなたがたもともに建てられ、御霊によって神の御住まいとなるのです。エペソ2:21,22」と私たちの存在を言うとき、「献身」が、再生不能な私たちを神の手に委ねるというニュアンスを持って語りかけているといえる。それはちょうど、末期ガンでどうしようもない患者が医者に委ねるようなものである。
 だから、3節以降において「12:3 私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりひとりに言います。だれでも、思うべき限度を越えて思い上がってはいけません。」と書かれている。自分自身を高く買いかぶっているときは、「献身」とは、なにか損をしているかのような(犠牲を払ってまで行っているのだという)響きがある。だが、実際は、私たち自身は、医者である神の手に委ねられなければ死んでしまうものなのだ。だから神に委ねるべきなのである。私たちが正しく自らを評価するなら、「主よ、当然です。私があなたに委ねなければ、私は生きてはいけないのです。」と言うだろう。

 『ローラ叫んでごらん』という実話に基づく話を聞いたことがある。
 ローラという1歳半の女の子が救急病院に運ばれてきた。その子は体の50%以上もの大火傷で、体中がただれていた。アル中の親がフライパンの上でその子を火にくべたのが原因で、大きな悲鳴、叫び声を聞きつけ、かけつけた近所の人が救急車を呼んだのである。しかし、既に背骨は曲がり、目はただれ、ひどい状態であった。救命治療によって命は助けられたが、女の子の精神には暗い影を落とした。何年も治療を続け、専門家によカウンセリングをうけたが、彼女は一言も口を開かなかった。もう何をしても手遅れに感じた。だが、カウンセリングドクターは、その子に人形遊びをさせて、「家族」の状態を再現しようとした。「ここに、お父さんがいるね。ここにお母さんがいるね。そして、赤ちゃんがいるね。」医者はその子に話しかけるが、反応を示さない。「・・・お父さんが怒り始めました。お母さんをたたいていますね。『ガキを黙らすんだ!』お母さんは子供をたたいていますね」 ――そのとき、 「イヤっ」叫び声がした。
 ローラは初めて叫んだ。「いやっ、あの人たちキライ!」口を開いてその言葉を発したことをきっかけにして、その後何年もリハビリを費やして少女の心を開く努力を行ったというのである。

 女の子の心は自らの力では回復は決してできはしなかった。この物語と同じように、罪の中に埋もれた私たちは、自分の心を開くことさえできない。自分自身を神の役に立つ働きをするようにも、また、正しく生きるように自らを整えることもできない。もはや自分自身では再生不能な状態なのである。
 だからこそ、主の手に委ねなければ私たちは生きることはできない。あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。(ローマ12:1)ということばがそのような私たちに語りかけられている。

エペソ2:4-10
2:4 しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、
2:5 罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、・・あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。・・
2:6 キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。
2:7 それは、あとに来る世々において、このすぐれて豊かな御恵みを、キリスト・イエスにおいて私たちに賜わる慈愛によって明らかにお示しになるためでした。
2:8 あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。
2:9 行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。
2:10 私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです。

 私たち自身を――私たちの身が、神の手に移ったときから、神の業が始まったということができるだろう。
 2:10 私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです。
 私たちの権利が神の手に渡されたとき、主の作品として立ち始めることができる。私たちは主の手に渡されなければ何の良いものはない。主の手に渡されない中で、良いことをなそうと努力しても、主の働きをなそうと考えても何にもならない。
 主は、私たちを神に明け渡すように求められる。そのとき、私たちが主の手の中で神の恵みを受けるとき、そこには自分を誇る何の要素もなくなる。私たちに求められた献身の立場とはそのようなものであろう。