礼拝・学び 概要

鈴ヶ峰 キリスト 福音館

2002年12月22日(日)

キリストの為の苦しみ

――神の信頼者――

ピリピ書1:29
1:29 あなたがたは、キリストのために、キリストを信じる信仰だけでなく、キリストのための苦しみをも賜わったのです。

 「キリストの為の苦しみを賜ったのです」と記されてある。賜るとは、贈り物・プレゼントとして受けたのだということである。詳訳聖書ではこの「賜る」と言う言葉は「特権」と訳される。

 使徒5章の記事では、使徒たちがムチ打たれた時、「御名のために辱められたことを喜んだ」とある。キリストの為の苦しみを喜んでいる姿があるのだ。
 主イエスにある苦しみは、単に私たちが苦しみを受ける本来のものとは全く違った特別な意味がある。無論、苦しみは望むべきものではないが、使徒たちはその苦しみの中で特権を感じていた。

 その苦しみは主ご自身の姿の中にある。
 父が、公生涯の中でイエス様に声をかけられたことを人々が聞いた個所が三度ある。
・一つは、バプテスマのヨハネから水のバプテスマを受けられ、罪なき方が罪の立場をとられたときである。
・またその後は、山上の変貌の記事でモーセとエリヤが表れてエルサレムでのご最後について話し合われたときである。
・そして、もうひとつは、祭りのとき礼拝に上っていたギリシア人がイエスに会いたいと求められたとき、主が御自身の「時」を悟られたときのことである。天から声がしたのを人々は聞いた。(ヨハネ12章)
 天から御声がかけられたときのこれらの3つの状況は、いずれもイエス・キリストの十字架の歩みの節目であった。イエス様が父の心に完全に従われて苦しみを受ける御自身の意思を明らかにされるとき、父は天から声をかけずにはおられなかった。
 「これは私の愛するもの、私の喜ぶもの」
私の信頼するものがここにいる、という印を御自身が示さずにはおられない。

 ―― TVで幼い子供を使いに出して、その光景をドキュメントする「初めてのおつかい」をみることがある。4、5歳の子が親の言い付けで街で買い物をする。迷いながら言われたとおりの重い物を買う。不安と初めての重荷で目的を達成しようとする我が子の姿を自宅のテレビでみながら、母親の心はテレビの前で熱くなっている。幼い子が泣きながら、あるいは不安にさいなまされながら親の言い付けを実行する。帰ってきたとき、母親の心は買い物の材料どころではなく、ただ子供への感情で満たされて抱きしめている。子供の苦労に対して母親はこれほどまでに感動している。

 私たちがキリストの苦しみに預かるときに、父なる神は私たちに感動される。だからそのような苦しみは私たちが賜る特権なのである。キリストの御苦しみのときに声をかけずにはおられない姿をみるとき、父の心を揺さぶるほどの神の感動があった。
 使徒7章でユダヤ人の迫害によりステパノは石打にあった。結果、彼は殺される。この苦しみのさ中で主イエスは天において座して見ていることができない(御座に立っておられる主)姿がある。神御自身が私(信仰者)の受ける苦しみにおいてそれほどまでご自分の痛みとされている。一人のクリスチャンの苦しみに対して主はそれ以上の痛みをもって受けておられる。もし、ここでステパノが自分の身に降りかかる禍いを嘆いているなら、彼は神の信頼に足るものではなかったと言うことになる。しかし、彼にとって主のために預かる苦しみは特権であった。

 ヘブル書に、主は御自身の前に置かれた喜びのゆえに苦しみを忍ばれた、とある。十字架そのものは苦しい。しかし、御自身の前における喜び、父(へ)の喜びがあった。イエス様の苦しみのとき、父が苦しんでおられることを主は知っていた。同様に、だからこそ、ステパノも死の間際で人々をとりなすことができる。イエス様が私の苦しみを味わわれることを知るとき、主を喜ばず(愛さず)にいられない。

ヘブル書 10:35-38
10:35 ですから、あなたがたの確信を投げ捨ててはなりません。それは大きな報いをもたらすものなのです。
10:36 あなたがたが神のみこころを行なって、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です。
10:37 「もうしばらくすれば、来るべき方が来られる。おそくなることはない。
10:38 わたしの義人は信仰によって生きる。もし、恐れ退くなら、わたしのこころは彼を喜ばない。」
10:39 私たちは、恐れ退いて滅びる者ではなく、信じていのちを保つ者です。

 聖書に中には迫害下の中にあるクリスチャンに対して、あなたがたが神のみこころを行なって、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です(10:36)。と語る。
 この励ましは、主がどれほど大きな期待と信頼を持って私たちを見ているかを知るように、というメッセージだ。
 ただ、「がんばりなさい」「励みなさい」「我慢しなさい」と言っているのではなく、神がどれほど信頼する者への喜びと、私たちの苦しみを痛みとして担っているかということを示しているのである。

 ある兄弟が映画ベン・ハーに出てくるハー家に仕えるしもべの姿を感動を込めて語ったことがある。
―― 主人公のハー家は裕福な恵まれた家庭だったがローマに対する不慮の事故によって家族は罰せられ、子息のベンもローマによって捉えられ、何年も行方知れずになる。時至って将軍の息子の立場になって帰るそのときまでベン・ハーは家に戻ることはなかった。廃屋と化しているであろうことを覚悟して、懐古の情で家に戻ってみたとき、奥から年寄りが出てきてベン・ハーを迎えた。主人の帰りをずっと待ち続けていたのだ。「私はあなたのために待ち(家を守り)つづけていました。あなたが必ず戻られることを信じて。よく無事にお戻りになられました。」しもべが言うとき、主人にとって家のことはどうでもよかった。「あなたが無事であるなら、家のことではない、あなた自身がどれほど私の心の喜びであるか」――そのような語りの内容である。

 クリスチャンがこの世で信仰生活を送るとき、「私はあなたから賜ったものを守り通しました」と言うとき、そこには主人の無上の喜びがあるのではないか。

10:36 あなたがたが神のみこころを行なって、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です。

 神があなたを信頼に足るものとして私たちに感動と期待を抱いておられる。私たちは再び主が来られるときその実際を見ることになるのであろう。
 その意味でイエス・キリストにある苦しみが、どれほど大きな特権であるかを知り得るものは幸いである。使徒たちはそのことの立場を表明していたのである。