礼拝・学び 概要

鈴ヶ峰 キリスト 福音館

2002年12月29日(日)

神の選び

――選ばれた者の立場――

Tペテロ1:23-25
1:23 あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種からであり、生ける、いつまでも変わることのない、神のことばによるのです。
1:24 「人はみな草のようで、その栄えは、みな草の花のようだ。草はしおれ、花は散る。
1:25 しかし、主のことばは、とこしえに変わることがない。」とあるからです。あなたがたに宣べ伝えられた福音のことばがこれです。

 ここに人の命のはかなさと神の御言葉の確かさが記されている。人の命は生まれたときから皆等しく死に向かって歩いている。そして、人は全て皆死ぬことを分かっている。
 このような中で、私たちは、その一生について有意義に生きることを願うものと、無駄に過ごすことを選択する二者に分かたれる。これらの違いはセルフイメージ(自己認識)の違いによる。
 自分自身の価値観の程度が低ければ投げやりの人生を送るだろう。皇(王)族の生活はそれとは違う。彼らの生活は小さいときから誇りを持ち(尊重し)、世人との差別化を徹底的に教え込まれるだろう。しかし、小さいときから「あなたは何の価値もない人間なのだ」と教え込まれるなら、それにふさわしい歩みを選択するに違いない。その日その日をやり過ごし、欲望を満たすことに終始するだろう。
 その観点で言えば、クリスチャンは最もセルフイメージを高くもつべき民族であるのだ。私たち自らは無価値なものに過ぎないのに、主の救いがあまりにも尊いので、否が往にも高められる。

Tペテロ1:1-2
1:1 イエス・キリストの使徒ペテロから、ポント、ガラテヤ、カパドキヤ、アジヤ、ビテニヤに散って寄留している、選ばれた人々、すなわち、
1:2 父なる神の予知に従い、御霊の聖めによって、イエス・キリストに従うように、またその血の注ぎかけを受けるように選ばれた人々へ。どうか、恵みと平安が、あなたがたの上にますます豊かにされますように。

 使徒たちの書簡の特徴は、あなた方の救われた圧倒的な恵みの立場というものを訴えかける。ここに、選ばれた人々、すなわち、父なる神の予知に従い、御霊の聖めによって、イエス・キリストに従うように、またその血の注ぎかけを受けるように選ばれた人々へ、と言われる。
 この選ばれることの価値(結果)を知らなければならない。父なる神の予知に従うものである。世界の始まる前からご存知であり、あなたがたは選ばれていた。

 私たちは人は皆救われる権利があると考えているかもしれない。しかし、救いに関しては平等ではない。神が選んでくださるからだ。私たちはともすれば、なぜ救われるものとそうでないものがいるのか、と非難するかもしれない。しかし、私たちはまず救いを主張する立場にないということが平等である。救いの選びは主の一方的な恵みである。では、神はどこに区別されているのであろう。私たちにその印があるのだろうか。

 私たちには神の選びに対して二通りの態度をとることができる。一方は、神が選ばれるのであればどうして自由意志による決断を求める必要があるのか、と文句を言う立場である。神の不公平を指摘し、裁き、神の前にへりくだる態度からおよそかけ離れている。反発心のゆえに神を受け入れることができない。(ローマ書9章で問答されている)
 もう一方は逆に、私は選ばれる価値のないものです。しかし、主よ、お心を注いで私を哀れんでください、と正しい立場をとることのできるものである。神の前にへりくだる者は、主のあわれみを救いとする。

Tペテロ2:9
2:9 しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。

 クリスチャンは皇(王)族よりはるかに高い立場にある。そして、その高い立場は神の選びによって裏付けられる。旧約の時代、神によって選ばれたものだけが高い働きをするのである。モーセにおいて然り、エリヤにおいて然り。彼らはあらかじめ神によって選ばれていた。働きに先立ち、まず、最初に神の選びがある。世でよく言われるエリートとは、元来「神によって選ばれた者」を意味する。クリスチャンは文字通りのエリートである。神が選び、救い(とその働き)に預かるものは、
 選ばれた種族・王である祭司・聖なる国民・神の所有とされた民
である。この4つの言葉によって、神に与えられた救いの立場を聖徒たちに語りかける。世人が世の血筋を誇るなら、私たちは神の選びの種族、神の血族である。世人がこの世の職位を誇るなら、私たちは王的な祭司、この世の何者の地位にも勝る立場である。また、聖なる国民とある。ユダヤ人は自らを聖別された民であることを異邦人をケモノとみなすことによって認識した。彼らは神の律法を知らないからだ。私たちが聖なる国民であるなら、この世と同じ生活が出来ない誇り高い立場を知る。また、神の所有であることをユダヤ人は割礼によってその立場を誇っていたように、私たちは神との契約関係によって神の所有となっている。私たちは神の手の中にあるのだ。

 私たちのセルフイメージは高いものであるべきである。主が贖われたその価値を覚えることなく、自らの立場を軽んずることは罪であるとさえ言わなければならない。(主が私たちの救いの立場を示し、選ばれた価値を訴え、また、花嫁として御自身の愛の対象としてみておられるときに、私たちが、その立場を軽んじ、そのことによって低い立場の生活を享受すべきではないのだ。)
 その意味で、自分自身の価値観を、神による選びに基づいて高く持ち、そのように生きるなら幸いである。