礼拝・学び 概要

鈴ヶ峰 キリスト 福音館

2003年1月5日(日)

新しく創られた者

Br. S.Maruyama


――人間の決意によらない神の創造――

Uコリント5:17
5:17 だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。

 この個所にクリスチャンの力の源が何であるかが書かれている。クリスチャンの内にどこに力があるだろうか。それは、古いものは過ぎ去って、すべてが新しくなったことにある。
 新年を迎えるにあたり、人は新たな決心をするが、多くの決意は崩れ去って年月を経て、また、決意を繰り返す。クリスチャンがもし、決心だけで神の新しい命に生きようとしているなら、いずれ、崩れ去ってしまう。パウロの証しには、新しく造られた者として歩むと言いながら古い肉の相反がある姿を語った。また、神の聖徒たちに暴力を振るい、神を汚した行為があった罪の痛みを持って肉にあるときの状態を思い出すのであった。もし、この「新しく造られた者」の歩みが人の決心する生活による新しい歩みであるのであったなら、傷ついた人の心の痛みは消し去ることは出来ない。罪の傷は人の決心では消し去ることの出来ない痛みである。

 聖歌229番「アメージンググレイス」の作者は奴隷船の商人であった。自らの歩みをふり返るなら、罪の重荷があった。しかし、救われた後に言い得ることは「驚くばかりの恵みだ。こんな、罪ある者が救われて、新しき命に生かされるとは」との感謝の賛美である。彼が、もし、新たな生活の決心だけで、犯した過去の罪を清浄化しようと努めたとしても、決して消し去ることは出来ない。多くの人の命を奪ってきた人にとってその罪過は消し去れない。しかし、自分の決心ではなく、主イエス・キリストが私を新しく造り変えてくださった。ただここにクリスチャンの力の源がある。
 ある年輩のクリスチャンと戦争体験について話題になったことがある。しかしその中で、ある話をしたところで、その人は急に叫びだした。もはやそれについて話をする状況にはならなかった。彼が行なってきたこと、アジアで自らがした行為は消し去ることの出来ない罪の痛みであったに違いない。そのような人に、人の決心は何の力にもならない。しかし、信仰者はパウロにしても奴隷商人にしても新たなる生活を送っている。そこには新しい人格が見出される。「私にはキリストの心がある」と生き生きと生活している。

 「新しく造られた」というからには、自分の決心が勝ち取ったものなのではなく、神御自身が造ってくださったのだ。完全に受動的な立場にある。クリスチャンの力はそこにある。

 聖書は人を用いて神の栄光を表された記録であると言える。
 モーセはユダヤの中で最も尊敬されている偉大な導き手である。そのモーセは、神の召命を受けて返した言葉は「私はことばの人ではありません。以前からそうでしたし、あなたがしもべに語られてからもそうです。私は口が重く、舌が重いのです」という臆病なものであった。しかし、主は答えられる。「だれが人に口をつけたのか。だれがおしにしたり、耳しいにしたり、あるいは、目をあけたり、盲目にしたりするのか。それはこのわたし、主ではないか。」
 モーセに対して神御自身の絶大な力を持って臨んだときに、彼は神の用を為すことができた。旧約の多くの聖徒たちは、聖書の中に失敗の歴史を刻み、私たちはそれを見つけることが出来る。しかし、新約ではそれらの聖徒たちが、全き信仰の勇者として描かれている(ヘブル書)。そのことを覚えるとき、私たちにも同じ事が言える。
 日常の私たちは失敗があり、隠したいようなことばかりである。しかし、信仰を持って神の前に出るとき、神は、その人を義であると言われる。なぜだろうか。それは、その人は新しく造られたからだ。モーセが臆病であっても主はモーセを新しく造られる方である。これが、神の私たちに対する御業である。

 私たちの過去の欠点は無数にある。パウロは確かにそのような自分を見つけたが、「今は、神によって新たに造られている者だ」と言う。ここに、クリスチャンの力がある。

Uコリント5:14-17
5:14 というのは、キリストの愛が私たちを取り囲んでいるからです。私たちはこう考えました。ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのです。
5:15 また、キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。
5:16 ですから、私たちは今後、人間的な標準で人を知ろうとはしません。かつては人間的な標準でキリストを知っていたとしても、今はもうそのような知り方はしません。
5:17 だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。

16節に私たちは今後、人間的な標準で人を知ろうとはしません、と書かれている。
詳訳聖書では、『したがって、今からのち、私たちは誰をも〔単に〕人間的な観点から〈自然的な価値基準によって〉評価する〈考える〉ことはしません。〔決してそのようなことはしないで〕私たちは、かつてはキリストを人間的な観点から〈人間として〉評価したとしても、今は〔キリストについての知識を持っているので〕もはや私たちは〔肉の考え方で〕彼を知ることはしません。』とある。
 スポルジョンは言う。「神の、人に対する恵みを知りたいなら、全てのクリスチャンに注ぐ神の恵みを一つ一つ調べるとき、あなたの恵みを知り得るだろう。」
 私たちは古い人間の状態を見て、欠点や罪を発見する。また、そのように評価する。しかし、それらは自然(人間)的な価値基準である。もし、神が造られた新しい命の評価で見るなら、キリストが造られたことの価値基準で評価する。そうでなければ、私たちがどれほど頑張ったところで単に人が決心したに過ぎない。
 神が完全な私たちを造られた。そして、そのようにして神が私たちに何を為されるかを期待することが出来る。

 奴隷商人は、ひとつの歌詞をもって人々に今なお感動を与える賛歌を残している。またパウロは決して自分を卑下しない。
 信仰者は、ここには新しい自分がいる、という新たな霊的な評価をしなければならない。また、他の信仰者に対しても同様である。私たちは単なる決心によって新しい命を得たのではなく、ただ神の業によっている。