礼拝・学び 概要

鈴ヶ峰 キリスト 福音館

2003年1月12日(日)

御国の子の姿

――変えられた命――

Tヨハネ3:9
3:9 だれでも神から生まれた者は、罪のうちを歩みません。なぜなら、神の種がその人のうちにとどまっているからです。その人は神から生まれたので、罪のうちを歩むことができないのです。

 神から生まれたので、罪のうちを歩むことができないと記されている。クリスチャンの勧めの中で、罪のうちを歩んではいけない、と聞く。しかし、ここでは歩めないのだと書かれている。神のうちにあるその人がどのように変化したのだろうか。クリスチャンの最も大きな変化は罪に対して敏感になったということがあげられる。それまではなんとも思っていなかったことが、段々と罪がなんたるかを示されていく。
 詳訳聖書にはこの聖句は次のよう訳されている。
神から生まれた〈神を父として生まれた〉者は、だれでも〔ことさらに、また承知のうえで〕常習的に罪の生活を送りません。というのは、神の性質が彼のうちに宿っている〈神の生命の原理、神の種がいつまでも彼のうちにとどまっている〉からです。またその人は神から〈神を父として〉生まれているので、罪を犯しつづける生活を送ることが出来ないのです。

 クリスチャンは承知のうえで日常的に罪を犯しつづけることが出来なくなった。肉が願っても出来なくなってしまったのだ。命の性質がそのようにさせてしまった。私たちは頭の中で真っ当な生き方を決意するかもしれないが、聖書が語るのは、私たちの命の変化についてなのだ。あなたの本質が変わったことが明らかにされている。 (ここにはクリスチャンの救いを確信する消極的な判断が示される。逆に言うなら、罪の痛みを感じずに罪を犯しつづけるならその人の救いは疑われる。)

 クリスチャンが神を恐れない人々の中に、ずっと在るときに、息苦しくなりクリスチャンと会いたいと願う。それは、命の表れの一つであろう。生命の世界はそのように同じ種類のもの同士によって引き合わされる。動物の世界でも同じ動物で群れるのは、同一の命を持っているからだ。クリスチャンが、神によって与えられた命を持つ者の交わりの中に存在したいと思うのは、命の本質による。パウロはコリント人に「あなた方との交わりによって慰めを得たい」と語った。パウロは教える立場、諭す立場であるとき、このような表現を言いようもないはずだが、彼の心の内の命の欲求は、神の命に預かっている聖徒の交わりを願い求めたのである。
 私たちは救いを得ているクリスチャンの認識を聖書の観点で教えられる必要がある。

エペソ1:13,14
1:13 またあなたがたも、キリストにあって、真理のことば、すなわちあなたがたの救いの福音を聞き、またそれを信じたことによって、約束の聖霊をもって証印を押されました。
1:14 聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証であられます。これは神の民の贖いのためであり、神の栄光がほめたたえられるためです。

 聖霊の証印とある、この「証印」は、所有権を意味している。神の所有となったことを確認できる。御国を受け継ぐことの保証は聖霊が証される。クリスチャンは御国に属するものであることを地においても体験することができ、神の命を表すことが出来る。
 神の救いに預かり、救いに預かる現実を、今、私たちは全てを知りえないが、御国において明らかにされるであろう。パウロはコリントの教会に「私たちは御使いをも裁く者であることを知らないのか」と語った。クリスチャンの立場と特権は驚くべきものである。私たちは神の命を持つものである。聖書の示す認識をもって、その自覚を持つべきである。

 クリスチャン(学問はなかったが、深い信仰心を持っていた母は、働きながらアンデルセンを育てたと言われている)といわれるデンマークの童話作家アンデルセンは「醜いアヒルの子」を著したとき、その醜いアヒルの子にクリスチャンを意識したに違いない。白鳥の子が、アヒルの群れの中に紛れ込み、そのまま成長を続ける。しかし、姿かたちがおかしく、また、皆と違う性質を持つゆえに、他のアヒルの子にいじめられて日々を過ごさなければならなかった。さまざまの悲しみや苦しみを堪えしのぶとき、美しい白鳥が優雅に空を舞っている姿に心を奪われたが、自分に幸福が訪れることなど夢にも思わないでいた。しかし、あるとき自分の姿を観たときそこに移る美しい白鳥の姿に驚いた。羽を伸ばして大空に舞うとき、本当の自分を知り、幸せを実感したのであった。

 クリスチャンの地上の様は、自我が砕かれ、世にあって人々の中で主張する事のできない弱さが表れてしまう。歩調の合わない世界の中で苦しみや孤独もあるだろう。しかし、主の再臨のとき栄光の姿に変えられた自分を見て一番自分が驚くのではないだろうか。 「私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現われたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。」(Tヨハネ3:2)と、ヨハネも言った。クリスチャンの天にある栄光の姿をヨハネは見ていた。

 御国の民とされたことの計り知れない恵みと特権を深く味わうなら幸いである。