礼拝・学び 概要

鈴ヶ峰 キリスト 福音館

2003年1月19日(日)

練られた品性

――患難さえも喜びとする――

ローマ書5:1-5
5:1 ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。
5:2 またキリストによって、いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。
5:3 そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、
5:4 忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。
5:5 この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。

 ここに神との関係において平和を持っていることの幸いを語っている。3節に患難さえも喜んでいます、と記されている。私たちの正直な心で聞くとき、誰が患難さえも喜べるのだろうといぶかる。患難そのものを喜ぶことはできない。しかし、続けて語られていることは、「それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出す」と書いてある。練られた品性を生み出す患難であるとき、それさえも喜ぶことができる。

 もしいま、練られた品性を備えられた人を見ることが出来るなら、そのような人の前に私たちが立つなら、私たちは憧れと尊敬の眼差しで見ることになるだろう。神が与える練られた品性というものを私たちはあまり学んでいない。練られた品性とは、円熟した性質、練達した人柄、テストに合格した状態を指している。ある人は鍛錬された名刀のようなものだとも言った。その工程を見るならうなずけるにちがいない。火によって引き出され、真っ赤に熱せられた鉄は打ち付けられ、また火の中に入れられ熱せられ叩き延ばされる。何度も何度も繰り返すことによって、真の硬さと粘り強さが引き出される。
 人が神によってそのように取り扱われるなら、剛毅と柔和さ、純粋さと正義を併せ持つ性格(品性)が生み出される。

 神の取り扱いを受けた多くの聖徒が聖書の中に登場する。特にヤコブのことを考えてみよう。彼は神の手によって何度も何度も取り扱われた。彼の本来の性格はどういうものであっただろうか。自らの益の為には他者から奪い、何でもするずるがしこい人だった。父・兄をだまし、家を去り、そのような故にラバンの下に身を寄せるが彼からも騙される。そのような彼の前途には多くの苦しみが待ち受けた。彼の通る人生の苦しみを経て、神を求め、何度も苦難を通らされることによって、霊的な鋭さと円熟した性格を持つに至る過程が見られる。そこには練られた品性がある。
 ラバンの下から出て行くとき、難産の子を妻ラケルは「ベン・オニ」(私の苦しみの子)という名で呼んだ。彼女が死に臨み、そのたましいが離れ去ろうとするときであったからである。しかし、ヤコブはベニヤミンと名づけた。すなわち「(私の)右手の子」という意味である。
 苦しみのさなか、誰の目から見ても耐えがたい苦しみに面していると認められるときでも希望を見出し、力を見ている人こそ、熟練された者(の粘り)である。最愛のラケルの死は、ヤコブにとって打ちのめされる出来事である。彼とその一行にとっては苦しみの旅路であった。その中でヤコブはラケルの死にあって尚希望を見出した。そこには神に取り扱われた者の姿がある。
 彼はまた、晩年、ヨセフの子たちを祝福し、子たちを預言した。気力も体も衰え、魂の火が尽きようとしているその中で、更に磨かれた霊的な洞察はヨセフの二人の子に為した祝福の姿に見られる。イサクは年老いて目が曇ったとき、騙されて祝福を取り違えた(しかしそれも神の取り扱いによる)。しかし、ヤコブは手を交互にしてまで鋭く正しく祝福を与え、そして最後に神を礼拝した。何と練られた品性が見受けられことであろうか。
 それを見たとき、「練られた品性を生み出す患難さえも喜んでいる」ということに対して信仰者はアーメンと言えるのではないだろうか。私たちがその素晴らしさをどれだけ知ることができるかが大切である。

5:5 この希望は失望に終わることがありません。
 テレビやドキュメントレポートの中で会社に自分の一生を捧げ尽くす人の姿がある。しかしそれなのに晩年に会社に裏切られたり、あるいは自らの歩みを振り返ると虚しくなるということがある。それはなんと惨めであろうか。クリスチャンもその人生をかけ、キリストに命をかけるべきである。もしそのとき晩年に裏切られ、あるいは虚しくあるのなら、それは惨めであろう。しかし、この希望は失望に終わることがありませんと記される。神は必ず応えてくださり報いてくださる。それは神の愛の故にである。その愛の裏付けが御子の死である。
――私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。(ローマ書8:32)――

 私たちはその方の前に生かされている。神の取り扱いによって信仰者に練られた品性を備えさせようとしておられる。
 私たちの強情さは主の御前に相応しくない。だが、主の鍛錬によって神の子として練られた品性を主が備えようとなさるとき、患難さえも喜び得るのである。