礼拝・学び 概要

鈴ヶ峰 キリスト 福音館

2003年1月26日(日)

-大人の信仰-

Br. S.Maruyama


――主に自由に仕える信仰者へ――

Tコリント10:23
10:23 すべてのことは、してもよいのです。しかし、すべてのことが有益とはかぎりません。すべてのことは、してもよいのです。しかし、すべてのことが徳を高めるとはかぎりません。

 全てのことはして良いが、それらが有益とは限らないとパウロはコリントの兄弟姉妹に対して語った。これらの勧めはパウロが、まず彼らに、「偶像崇拝を避けなさい」と戒めた後に語ったものである。
 パウロは「聖徒として召されたあなたがたが受けた高い立場を思うなら、前にある一つ一つのことに対して、これこれをしてはならないという戒めとして受けるのではなく、むしろ信仰の成熟した大人として判断すべきである」と語っている。すなわち、主の心を求めて生きるべきであると言う勧めがなされている。そして、召された聖徒の一人一人が、神が私たちを神の高みにまで引き上げようとしていることを知り、神の前に整えられ、大人として判断できるように、と語るのである。

ヘブル書5:12-6:2
5:12 あなたがたは年数からすれば教師になっていなければならないにもかかわらず、神のことばの初歩をもう一度だれかに教えてもらう必要があるのです。あなたがたは堅い食物ではなく、乳を必要とするようになっています。
5:13 まだ乳ばかり飲んでいるような者はみな、義の教えに通じてはいません。幼子なのです。
5:14 しかし、堅い食物はおとなの物であって、経験によって良い物と悪い物とを見分ける感覚を訓練された人たちの物です。
6:1 ですから、私たちは、キリストについての初歩の教えをあとにして、成熟を目ざして進もうではありませんか。死んだ行ないからの回心、神に対する信仰、
6:2 きよめの洗いについての教え、手を置く儀式、死者の復活、とこしえのさばきなど基礎的なことを再びやり直したりしないようにしましょう。

 ここでも同じテーマで書かれている。主は成熟した大人としての信仰を求めている。あなた方は戒められたことを守ることにただ終始すべき立場にはない。
 幼子のように親から命令がなければ何事もなすことが出来ないと言う信仰ではなく、また、マニュアルがなければ物事を判断できないと言う信仰ではなく、経験によって良い物と悪い物とを見分ける感覚を訓練された人として初歩の教えに満足することのない大人としての信仰をもって生活するように。そして、この成熟した信仰のすばらしさの中で歩むようにと勧めるのである。

 これらのことは、初歩の教えが必要ないのではない。死者の復活、とこしえのさばきなど基礎的なこととある基礎的なことを抜きにして、それよりも高みを、と言っているのではない。
 子供のときに正しく善と悪を教えられなければ社会でも大きな問題を引き起こす。同じように信仰の最も基礎的なことを抜きにして信仰が成熟することはありえない。神はそのようには求められていない。しかし、ただここで勧めているのは基礎的なことに留まるのではなく、さらに大人としての信仰に進むようにと語っている。
5:14 しかし、堅い食物はおとなの物であって、経験によって良い物と悪い物とを見分ける感覚を訓練された人たちの物です。

 この大人の信仰は、神のみ前に自由に振舞う。
 この大人の信仰は、神の御心を行うことに対して自由である。

 私(たち)が神のみ心に対してとても不自由であるとき、それは初歩の信仰である。個人伝道や集会生活に対して、まず自分を整えなければならないとき、あるいは、週明けに社会に出る際、信仰者としてある自分の気持ちを切り替えたりしなければならないとき、そこには不自由な生活をしている姿がある。主から離れたときとみそばに近づくときとにギャップがある。
 しかし、いつでも主のみ心に対して自由に仕えることが出来るなら、その信仰は大人の信仰である。14節に「経験によって良い物と悪い物とを見分ける感覚を訓練された人たち」とある。それはいつも神とともにいる(ことの出来る)人のことを指している。

ヘブル書5:12-6:2
8:8 しかし、神は、それに欠けがあるとして、こう言われたのです。「主が、言われる。見よ。日が来る。わたしが、イスラエルの家やユダの家と新しい契約を結ぶ日が。
8:9 それは、わたしが彼らの先祖たちの手を引いて、彼らをエジプトの地から導き出した日に彼らと結んだ契約のようなものではない。彼らがわたしの契約を守り通さないので、わたしも、彼らを顧みなかったと、主は言われる。
8:10 それらの日の後、わたしが、イスラエルの家と結ぶ契約は、これであると、主が言われる。わたしは、わたしの律法を彼らの思いの中に入れ、彼らの心に書きつける。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。
8:11 また彼らが、おのおのその町の者に、また、おのおのその兄弟に教えて、『主を知れ。』と言うことは決してない。小さい者から大きい者に至るまで、彼らはみな、わたしを知るようになるからである。
8:12 なぜなら、わたしは彼らの不義にあわれみをかけ、もはや、彼らの罪を思い出さないからである。」

 10節に「わたしの律法を彼らの思いの中に入れ、彼らの心に書きつける」とある。私たちの心の中に神が神の律法を書き記してくださるなら、大人の信仰で生きることが出来る。

 律法の時代は命令がなければ行うことはでき(動機は)なかった。しかし、私たちの思いの中に書き記されるなら、神の心を行いたいという動機があふれてくる。自分を強制しなければ行えないのではなく、私の願いが神の思いに結び合わされる。そこには(御霊に支配された者の)自由がある。律法の故にではなく、自由に神の心が行うことが出来るようになる。

 パウロは「私たちには、キリストの心があるのです。(Tコリント2:16)」と語った。
 私の願いはキリストの願いである。私の願いは神の心を行うことである。そこに、喜びに満たされた信仰生活があるのである。そのような御姿と御思いは、信仰の創始者であり完成者であり主イエスキリストの内にこそ完全にみられる。
 主こそ父の心を喜びとし、父の御心をご自分の食物とされた方である。

 私たちに語っているのはこのことである。パウロは勧め、ヘブル書は語る。いつまでも基礎的な信仰に留まることで満足するのではなく、成熟した信仰の大人として歩もうではないか、と。自由と喜びを持って信仰の歩みを前進するように勧めている。
 主が願われたように、私たちが神の御心を求める者として歩むように、また主のみこころに対して自由に仕える信仰者として生かされるように求める祈りをしたい。