礼拝・学び 概要

鈴ヶ峰 キリスト 福音館

2003年2月2日(日)

神との交わり

――神と同じく時を所有する者へ――

Tヨハネ1:3,4
1:3 私たちの見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。
1:4 私たちがこれらのことを書き送るのは、私たちの喜びが全きものとなるためです。

 「私たちとの交わりとは御父および御子イエス・キリストとの交わりです」
この交わりとは「コイノニア」という言葉であらわされており、共通のものを所有する、分かち合うと言う意味がある。すなわち、神は私たちに同じものを共有することを願っておられる。ここに神とともにあることを願われる主の御思いがある。

 私たちの信仰生活の中で、神を遠くに感じることがあるだろうか。私たちにはそのように時があるかもしれない。しかし、それは主との交わりが無いときである。この交わりは一体どのようにして持つことが出来るだろう。自分自身でさえままならないのに、そのような時、神の御前に整えることはおよそ困難であると感じられる。

 それでは、交わりとはどのようなものであろうか。人間同士の交わりは、同じ体験をした者同士なら心を開くことができる。その場は、人間的に言えば、盛り上がるに違いない。例えば、戦争で共に苦しみを分かち合った者同士は、その後4,50年経ってもなお、過去のときを共有したその時代を懐かしんで交わりを持つと聞いている。あなたと私は一緒だ、という連帯感によって憩う姿だ。その人々は心からの交わりを持っている。また同じ釜の飯を食べた、と言う言葉の中には時を同じくして苦労を共に分かち合ったという意味が含まれている。そこには共通の認識・絆が生じている。
 神と私たちとの交わりとは、ただ神の思いを学ぶということで満足するだけでなく、神と同じ時を過ごし、共にその働き、業に預かることに深みがある。これらの体験が、主との交わりとその喜びを強くする。

 集会の開拓の時代を振り返り、ある兄弟は楽しそうに話し合っている。金の無い時代に、兄弟の下宿に訪れ、み言葉を読み賛美して時を過ごした。お腹がすいたね。じゃあラーメンを作ってあげるよ。そういって金属の洗面器でラーメンを作って共に食べるのである。翌朝、見ると同じ洗面器で彼は自分の下着を洗っていた。
 今となっては時を同じくした共有者への懐かしい思い出話である。その時代に共に苦労したという共通の体験が彼らの交わり・絆を深くしていった。

 神が3節で「私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりですと言われるのは、神ご自身が私たちに求めて下さる深い絆によって、同じ体験のなかで生きるようにと神が心を注いで私たちに語りかけてくださっているということである。私たちはその御心に応答する交わりを求められている。
 詳訳聖書ではこう書かれている。
「私たちが見、また〔自分自身が〕聞いている事を、あなた方にも告げ知らせています。それは、あなたがたも私たちの仲間〈相伴者〉として交わりを実際に経験する〈味わい楽しむ〉ようになるためです。そして、私たちが持っている〈キリスト者の特徴である〉〔この〕交わりとは、御父ならびにその御子、イエス・キリスト〈メシヤ〉との交わりのことです。」
「交わり」を「味わい楽しむ」ようになるためと説明されている。神が求めておられるのは、この味わい楽しむようにされる交わりである。
 開拓のときに兄弟姉妹の間に特別な感情が育まれるほどに、親しい
(同労の・同じ場所に居る)交わりを神ご自身が私たちに求めておられる。
 そこには、まるで思い出話を語り合うかのような神と共にある深い交わりがある。
かつてのモーセの語りかけは、イスラエルの神へそのように思い出話をしている印象がある。「あのとき、主はこのように救いを備えられましたね。また、このとき、主は私たちを救い出してくださいました・・・」まるでそのような親しい語り合いをしているように、モーセの言葉には、主を喜び楽しむ姿が見られるのである。

 この神との交わりのなかにあるときに主を遠くに感じることは無くなる。主と日々共にいることを願う者とされるからである。

使徒4:32-33
「4:32 信じた者の群れは、心と思いを一つにして、だれひとりその持ち物を自分のものと言わず、すべてを共有にしていた。
4:33 使徒たちは、主イエスの復活を非常に力強くあかしし、大きな恵みがそのすべての者の上にあった。」

 初代教会の姿を見たとき、神との交わり、兄弟姉妹との交わりが本当に祝福されていた。彼らの集まりは喜び楽しむものであり、敬虔な主への畏れがあり、その結果、多くの不思議な業があった。主のみ救いと交わりの中にある人が、神と共に神のみ業を成していった姿である。

 これらのことを見たとき、集会の集まりは、同好会や懇談会、思想団体の集まりではありえない。私たちの集まりは神を愛する者の集まりである。
 初代の時代、彼らの内に、自己犠牲を行うことへの喜びがあふれていた。
 人間の潔い本質の中に、自分を無にして相手のために良くすることへの喜びを持つ本能的なものがあると思われる。その人間の本質の中で、正しく自己犠牲を行うことができるのなら、そこには無上の喜びがあるのではないだろうか。
 明治時代には芯の通った純粋な信仰が多く見られる。武士であった彼らには、殿様のために自分の命を捧げる価値を知っていた。そのような彼らがクリスチャンになる時、神こそ我が主・我が殿と知る。彼らの信仰の姿には、全て
(命)を主に捧げ尽くす本質的な人間の喜びがあった。信仰者が愛する方、最も良き方に捧げるのは無上の喜びである。しかし、更に主は次のみ言葉で御自身の愛を示される。

「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。(ヨハネ15:13)

「私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。(ローマ5:8)

 神ご自身が、全く自分を捧げ尽くして私たちに主との交わりを願ってくださっている。主に対して私たちがその御心に応えることは私たちの喜びである。
 初代教会のクリスチャンの中に神と共に時を分かち合う喜びがあった。神が求めておられるその「共有」の交わりを、今、私たちに求めておられる。

 このことを覚えるなら、神との交わりの本当の価値を知ることができるであろう。