礼拝・学び 概要

鈴ヶ峰 キリスト 福音館

2003年2月9日(日)

キリストへ導く律法

――律法の目的――

ガラテヤ3:23-25
3:23 信仰が現われる以前には、私たちは律法の監督の下に置かれ、閉じ込められていましたが、それは、やがて示される信仰が得られるためでした。
3:24 こうして、律法は私たちをキリストへ導くための私たちの養育係となりました。私たちが信仰によって義と認められるためなのです。
3:25 しかし、信仰が現われた以上、私たちはもはや養育係の下にはいません。

 律法が私たちにどのような目的で与えられ、私たちにどのような関係があるのかを教えている。「(24節)律法は私たちをキリストへ導くための私たちの養育係となりました
 すなわち、律法は私たちが「キリストを必要とします」と告白させるためにある。私たちをキリストへと導く目的がある。律法そのものは私たちの目的ではない。ただキリストへ私たちを導くための導き手として用いられる。律法は私たちをキリストへと導き、それによって恵みの救いを私たちに出会わせてくださる。パウロは次のようにも言った。「
律法によらないでは、私は罪を知ることがなかったでしょう。律法が、「むさぼってはならない。」と言わなかったら、私はむさぼりを知らなかったでしょう。
 律法は私たちの罪を示し、私たちが決して義なるものではないということを示す。それゆえ私たちにキリストを必要とする信仰を促す。この信仰は、自らの不義を明らかにし、自己の罪を認め、救い主の救いを求める真理に至らせる。だから神が与えまた私たちに示す目的の原点はキリストに対する信頼にこそある。「
3:25 しかし、信仰が現われた以上、私たちはもはや養育係の下にはいません。

 パウロは律法とキリストへの信仰の関係を語っている。律法は、「あなたはダメな人」であることを示し、そのため人を神の裁きの元に連れて行く。その事実を前にして、だがキリストへの信仰によって私は恵みによってキリストによって赦される。この律法と信仰の関係を見るとき、律法そのものは目的ではなくキリストへの信頼が私たちの目的であることがわかるであろう。

ルカ18:10-14
18:10 「ふたりの人が、祈るために宮に上った。ひとりはパリサイ人で、もうひとりは取税人であった。
18:11 パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。
18:12 私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。』
18:13 ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』
18:14 あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」

 先ほどのガラテヤ書の記事とこの譬えには似たような関係がある。パリサイ人は神の救いを必要と感じていなかった。彼は律法を大切にしたがその本質を求めなかった。すなわち彼にとって神の救いは不要であった。しかし、取税人は律法の目的である救いの必要を求めて神(救い主)を必要とした。それは律法の本来の目的にほかならない。だからこそ、取税人の方が義と認められたと主は言われる。
パリサイ人はせっかく律法を学んでいながら、自らの義を立てようとしたのである。

ルカ18:18-23
18:18 またある役人が、イエスに質問して言った。「尊い先生。私は何をしたら、永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか。」
18:19 イエスは彼に言われた。「なぜ、わたしを『尊い』と言うのですか。尊い方は、神おひとりのほかにはだれもありません。
18:20 戒めはあなたもよく知っているはずです。『姦淫してはならない。殺してはならない。盗んではならない。偽証を立ててはならない。父と母を敬え。』」
18:21 すると彼は言った。「そのようなことはみな、小さい時から守っております。」
18:22 イエスはこれを聞いて、その人に言われた。「あなたには、まだ一つだけ欠けたものがあります。あなたの持ち物を全部売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」
18:23 すると彼は、これを聞いて、非常に悲しんだ。たいへんな金持ちだったからである。
18:24 イエスは彼を見てこう言われた。「裕福な者が神の国にはいることは、何とむずかしいことでしょう。
18:25 金持ちが神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。」
18:26 これを聞いた人々が言った。「それでは、だれが救われることができるでしょう。」
18:27 イエスは言われた。「人にはできないことが、神にはできるのです。」

 ここで、役人はイエスに質問した。「何をしたら、永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか
 この質問は、律法が目的となった生活から出ている。律法の最初の目的を考えるなら、それが示すはずの「あなたはダメな(罪に沈んだ)人間である」ということを通りすごしている。主は、あなたが律法を目的としているなら完成させなさい、と言われる。今、「あなたはダメな人間である」ということを教えられるチャンスであったが、彼は去っていった。自分がだめな人間であるということを拒否した。その結果、神から離れ去った。もし、ここで彼が自分の不義を認めることが出来るなら、神の救いを求めることが出来た。

 あるアフリカに行った宣教師は、アフリカの現地の子供に日曜学校で話をした。
 「イエス様が好きな子はどんな子だと思うかい?」子供たちは答える。「お母さんの言うことを良く聞く子。」「勉強を良くして賢い子。」子供たちの回答を受けて宣教師は答えた。「イエス様が好きな子供は悪い子供です」子供たちは皆キョトンとして顔を見合わせた。ここで、神が求められる人の姿は、罪を犯す悪い人間が好きだというのではなく、罪びとであることを認める人であるということを教えるために語っていた。
 自分が罪人であることを認めない人は神を求めない人である。主は、罪人である自分を自覚し、信仰によって主を必要とする者を求めておられる。

 福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる。」と書いてあるとおりです。(ローマ書1:17
 
信仰は、イエス・キリストを求める。そして更に主への信仰によって主を求める信仰がイエスキリストのみ業へと私たちを預からせる。その中にこそ私たちの生きる術がある。神の中にこそ私の生きる術がある。だから信仰は人生の苦にはならない。私にとって喜びである。
 律法の働きは私たちをキリストに至らせる働きがあった。その目的はあくまでも、私たちのキリストを求める信頼にある。