礼拝・学び概要

鈴ヶ峰 キリスト 福音館

2003223日(日)

キリストに属する

――運命を共有する服従――

ローマ書6:16-18
6:16 あなたがたはこのことを知らないのですか。あなたがたが自分の身をささげて奴隷として服従すれば、その服従する相手の奴隷であって、あるいは罪の奴隷となって死に至り、あるいは従順の奴隷となって義に至るのです。
6:17 神に感謝すべきことには、あなたがたは、もとは罪の奴隷でしたが、伝えられた教えの規準に心から服従し、
6:18 罪から解放されて、義の奴隷となったのです。

 自分の身をささげて奴隷として服従すれば、その服従する相手の奴隷である。この、「服従する相手にしたがう」という原理の内に神の裁きが定まると教えている。すなわち、服従する相手の奴隷であるが故にその相手が受ける報いを共に受けるだろうと。
 だから、あなたは誰に服従するのか。この問いは真剣に問われている。

マタイ25:41
25:41 それから、王はまた、その左にいる者たちに言います。『のろわれた者ども。わたしから離れて、悪魔とその使いたちのために用意された永遠の火にはいれ。

 この神の裁きの宣告の中には、地獄が人のために備わっているのではないことを示す。人のためにではなく、悪魔とその使いのために備わっているのである。しかし、もし人が悪魔に仕え、服するのなら悪魔と共にその報いを受けることになろう。
 ここに、神の裁きの基準がある。

 (神の裁きの基準は、人の表面上に表れるだけの行為に対するものではない。私たちがもつ裁きの概念の中において、人の不遜な行為をなすことを、)仏教では、バチあたりだという。この言葉は仏の気を害するときバチがあたる、悪いことが起こる。このような考えに基づくとき、人は問題に触れさえしなければ良い。(罰当たりなことをしないという所業が問われる。)
 しかし、聖書は「あなたは誰に従い、いったい誰の業に預かろうとするのか」と問う。従う相手が受ける報いを、同じにするとき、あなたは誰に従いたいだろうか。

エペソ2:1-8
2:1 あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、
2:2 そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。
2:3 私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行ない、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。
2:4 しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、
2:5 罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、・・あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。・・
2:6 キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。
2:7 それは、あとに来る世々において、このすぐれて豊かな御恵みを、キリスト・イエスにおいて私たちに賜わる慈愛によって明らかにお示しになるためでした。
2:8 あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。

イエス様の救いを受けるまでは「あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた」「それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいた」奴隷として歩んでいたその行いは、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行なっていた。
 これらの行いは、あなた方が支配されていた者の業に預かっていた(為していた)ということである。死の中にあって世の支配者の中に生きていたのである。
 しかし、キリストの奴隷となったのだから、これからはキリストの奴隷となる。属している方の中にあるとき、その方の業をするようになると言っている。
2:10 私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです。

――誰に属するか――

 私たちにとって大事なことは、どこに属し、あるいは属そうとしているかということである。
 パウロは使徒24章の中で大祭司や長老・弁護士らに訴えられている。「
この男は、・・・ナザレ人という一派の首領でございます。
 ここでとりざたされていることは、このパウロはイエス・キリストに属するものだという訴えである。これに対するパウロの弁明はまた、同じことを証している。「
私は、彼らが異端と呼んでいるこの道に従って、私たちの先祖の神に仕えている」――この道、すなわち、パウロもまた「キリストの道に従ってその業を為している」と反論しており、訴え(訴える者)も弁明(訴えられている者)も同じことを証言している。使徒パウロはキリストに属している者であった。

 しばしば私たちはどこに属しているかと言うより、良い人間か悪い人間かを問うている。しかし、前提となるのは、「私はイエス・キリストに属して生活しているか、それとも世に属して生活しているか」であって、その選択肢の方がより大事である。
 どれだけ長く信仰生活をしていても、この問い
(イエスの側にいるかどうか)に応えなければならない。
 イエス・キリストの側により近く生活することを私たちは願う。キリストと共にあるとき、信仰者は主の御業に預かる。そのうえ、天上の幸いは私たちと共にある。主に属する私たちは主の報いをも共に預かる者であるからだ。
 しかし、この世の流れの中で生活し、世に属するならこの世の報いを受けるだろう。

 あなたはどちらに属そうとするだろう。どちらにあることを選択するだろうか。
 主の再臨の近いとき、このような問いは厳粛な響きを持って私たちに迫る。私たちが主に属する者であるなら、だれが私たちから平安を取り去ることができよう。だれが私たちに敵しえようか。