礼拝・学び概要

鈴ヶ峰 キリスト 福音館

200339日(日)

生ける神への信仰

――信仰の証――

Tペテロ3:13-15
3:13 もし、あなたがたが善に熱心であるなら、だれがあなたがたに害を加えるでしょう。
3:14 いや、たとい義のために苦しむことがあるにしても、それは幸いなことです。彼らの脅かしを恐れたり、それによって心を動揺させたりしてはいけません。
3:15 むしろ、心の中でキリストを主としてあがめなさい。そして、あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでもいつでも弁明できる用意をしていなさい。

 15節において「あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでもいつでも弁明できる用意をしていなさい」と勧められている。ペテロの手紙の背景には迫害下でどのように信徒が信仰を保つかという教えがある。迫害のうちにあって、クリスチャンの苦しみの中に他の人々とは違う生き様を見ることが出来る。このような人の様を見て質問する人が多くいたのではないだろうか。苦しみの中で、世は、嘆きと失望にあるいは呪いとつぶやきに満ちている。しかし、クリスチャンの中に、苦しみのさ中で賛美と感謝があるなら人々は疑問に思うだろう。「あなたの口から出る感謝と賛美はいったいどこから出ているのですか」
 それだから、ペテロは言うのである。「
あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでもいつでも弁明できる用意をしていなさい」と。

 Uコリント6:10でパウロは言った。「悲しんでいるようでも、いつも喜んでおり、貧しいようでも、多くの人を富ませ、何も持たないようでも、すべてのものを持っています。
 パウロの内にある内なる人の力強さ、命の息吹が、この言葉に良く表れている。クリスチャンに内住する復活の命、信仰の力は、教理的なものではなくまさに命の躍動であった。

 2世紀に発見されたある手紙の中に当時のクリスチャンの生き様が表現されている。
「この世では「肉に」あったが、「肉に従って」生きようとはしなかった。この世では旅人であり、国籍は天にあった。 法律には従ったが、それぞれの生活は法律を超越したものだった。全ての人を愛したが、全ての人から迫害を受けた。・・・」
 彼らのうちにある希望が生活の中ににじみ出ていた姿である。彼らの信仰の証とは、復活された主イエスの証にほかならなかった。彼らは世に単なる戒め、教えを広めていったのではなかった。広めていたのは命の主の表れである。
私たちは、復活の主をどれだけ知るかによって、その信仰がみられる(知られる)のではないだろうか。

Tコリント15:1-8
15:1 兄弟たち。私は今、あなたがたに福音を知らせましょう。これは、私があなたがたに宣べ伝えたもので、あなたがたが受け入れ、また、それによって立っている福音です。
15:2 また、もしあなたがたがよく考えもしないで信じたのでないなら、私の宣べ伝えたこの福音のことばをしっかりと保っていれば、この福音によって救われるのです。
15:3 私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、
15:4 また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと、
15:5 また、ケパに現われ、それから十二弟子に現われたことです。
15:6 その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現われました。その中の大多数の者は今なお生き残っていますが、すでに眠った者もいくらかいます。
15:7 その後、キリストはヤコブに現われ、それから使徒たち全部に現われました。
15:8 そして、最後に、月足らずで生まれた者と同様な私にも、現われてくださいました。

 福音とは、復活された主への信仰に基づくものであり、福音が示す良き訪れとは、復活の主であり、その方への信仰である。福音とは、良い教えを得る(与える)ことではなく、復活の主を知る(知らせる)ことであり、この方に対する信仰なのである。
 単なる良い教えなら、迫害に会う現実の苦しみに耐えられない。しかし、復活の主が生きておられ、信徒に働かれ、力を与えてくださるのなら、この方の御力によって力強く主を証することが出来た。

Tコリント15:17-19
15:17 そして、もしキリストがよみがえらなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお、自分の罪の中にいるのです。
15:18 そうだったら、キリストにあって眠った者たちは、滅んでしまったのです。
15:19 もし、私たちがこの世にあってキリストに単なる希望を置いているだけなら、私たちは、すべての人の中で一番哀れな者です。

 聖書は主の復活の事実に対して決してあいまいではない。字句通りの歴史的事実である。その信仰が無いなら私たちの信仰は虚しい。言い換えれば、主の復活を否定することが出来るのなら、2000年の教会の歴史と全クリスチャンとを否定することが出来る。
 聖書はイエス・キリストの教えではなく、キリストを述べ伝えている。この方が今生きているからこそ、私たちに力がある。その教えが力を与えるのではない。

 ここに、私たちの信仰のあり方が教えられる。生ける神に対する信仰、すなわち生ける神への信仰の応答を求めなければ、力が無い信仰となってしまう。私たちは知識的にも多くのことを学ぶことが出来る。イエスの復活を歴史的考古学的に証明する人々がいる。復活の歴史的事実に対して証明することは私たちの信仰を助けるかもしれない。しかし、信仰の一番の力は、直接、生ける神に祈り求めることであり、その応えを体験することの中に、生ける信仰の力を持って歩むことが出来る。
 かつて、2世紀のクリスチャンの生き様が示されたが、彼らは当時考古学的な証明の裏付けを持っていなかったが、彼らの生ける神との体験こそが証明された力であった。神御自身の力の表れが、彼らの信仰の生き様をかたどった。

 たとい、多くの苦しみ、不安の中に入ったとしても生ける神が私たちとともにいてくださるその事実を体験するなら、多くの人に私たちの希望について問われるだろう。
 神御自身のみ言葉・約束を今私たちは手にしている。だからこの約束の故に、私たちは主に迫り求めることが出来る。主はそれを望んでくださる。
「あなたは約束してくださいました。主よそのとおりに御自身をあらわしてください」と。