礼拝・学び概要

鈴ヶ峰 キリスト 福音館

2003316日(日)

神の召しの高さ

――あなたがたは神の神殿である――

Tペテロ1:15-16
1:15 あなたがたを召してくださった聖なる方にならって、あなたがた自身も、あらゆる行ないにおいて聖なるものとされなさい。
1:16 それは、「わたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない。」と書いてあるからです。

 「わたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない。」と書いてある。私たちが神の子であることは、神の性質に預かることであり、神御自身が望んでおられることである。この「聖なるものとされる」ことは、分離することを示している。この「分離」は二つの意味を持っている。一つは、汚れたものから離れるという分離である。そして、もう一つは神に属するものとなるということである。旧約の律法の中で示された神殿の器具などはその意味で聖別されたものであり、神に属すことをもって他のものとは分離されている。

 クリスチャンのきよめ、聖なる者とされるということは、15節にあなたがたを召してくださった聖なる方にならって、とあるように、神の召しと立場とに深く関係していることがらである。
 神の召しによらないで聖くなれ、と言われるのならば、おのおの良かれと思う自分の基準に従うことになるが、クリスチャンの聖はただ神の基準にのみよっている。この基準は与えられたみ言葉によって理解され得るものである。それだから、私たちは神の召しと立場を正しく理解し、私たちについての聖書の基準を正しく受け入れなければならない。

Tコリント3:16
3:16 あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。

これが、聖書が言う私たちの基準である。私たちは神の召しに預かった結果、神の神殿であり、御霊が私たちに内住してくださる。これは、私たちの理解の範囲を超えている。自らはいつも神の前にちりに等しい、と告白せざるを得ないものである。しかし、神の私たちの宣告、判断は、自分自身の判断に優先する。――「あなたがたは神の神殿である」のだ。

 かつて、イスラエルが幕屋の生活をしていたとき、会見の天幕は神の神殿であった。それは非常に厳かなものである。人々は皆恐れを持って会見の天幕の前で指導者の神の接見を待った。自分たちの住まいでなら人々は自由に振る舞いもするが、会見の天幕に近づくものなら、厳粛な立場を持って主のみ前に近づくのであった。
 それは、おおげさでも信仰深いわけでもない。しかし、その基準で私たちは神の神殿であると召されたのだ、と言われている。

 その厳かな立場を持って私たちは生かされているものである。その生活は主を御前にしている。それゆえ、このような人は以前の生活をすることは出来なくなっている。また新約の世界にあるようなパリサイ人のような高慢の立場をとらない。パリサイ人の祈りはこのようなものであった。
ルカ18:11
18:11 パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。
18:12 私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。』

神の前に私はどうか、ただそれだけが主の前にある自分自身を問うべきことだ。しかし、彼は自分と取税人とを比較して、そのうえ自分を誇るのであった。神の評価、基準を人の評価にまで引き下げる行為である。そのようなことはまったく的外れである事がわかるであろう。私たちの召しと立場を理解するなら、決してそのようなことは出来ないはずである。

マタイ5:8
5:8 心のきよい者は幸いです。その人は神を見るからです。

ここでの「きよい者」という言葉には、「混ざり物の無い」「水で薄められていない」という言語的ニュアンスがある。二心の無い者ということが出来る。「二心の無いものは幸いです。その人は神をみるからです。」
 自分の信仰を他の人と比べたり、自分のきよさを誇ったりする、それは二心である。ただ心を一つにしてひたすら、神を求める。神の御前に誠実でありつづける。その人は幸いである。
神を見るからである。

 神を見るという体験はどのようなものなのだろう。
 神の臨在の中にあるとき、その人の全ての行為・立場は厳粛さで満ちている。モーセが出エジプト記の中で、主の山に登り会見したとき、アロンと全てのイスラエル人はモーセを見、彼の肌が光っていたので恐れ人々は近づくことが出来なかった。
 神を見るという言葉の中には、神の臨在のただ中にあるということを示し、そしてそれがいかなるものであるかを語っている。

 驚くべきことは、新約の中に、このようなモーセにさえ勝るものがクリスチャン(の立場)であると語られている。それは理解しがたい事実であるが、神がそのように宣告しているのである。Uコリントにモーセの務めより、クリスチャンの務めの方が更に栄光にあふれているかを示している。

Uコリント3:7-15
3:7 もし石に刻まれた文字による、死の務めにも栄光があって、モーセの顔の、やがて消え去る栄光のゆえにさえ、イスラエルの人々がモーセの顔を見つめることができなかったほどだとすれば、
3:8 まして、御霊の務めには、どれほどの栄光があることでしょう。
3:9 罪に定める務めに栄光があるのなら、義とする務めには、なおさら、栄光があふれるのです。
3:10 そして、かつて栄光を受けたものは、このばあい、さらにすぐれた栄光のゆえに、栄光のないものになっているからです。
3:11 もし消え去るべきものにも栄光があったのなら、永続するものには、なおさら栄光があるはずです。
3:12 このような望みを持っているので、私たちはきわめて大胆に語ります。
3:13 そして、モーセが、消えうせるものの最後をイスラエルの人々に見せないように、顔におおいを掛けたようなことはしません。
3:14 しかし、イスラエルの人々の思いは鈍くなったのです。というのは、今日に至るまで、古い契約が朗読されるときに、同じおおいが掛けられたままで、取りのけられてはいません。なぜなら、それはキリストによって取り除かれるものだからです。
3:15 かえって、今日まで、モーセの書が朗読されるときはいつでも、彼らの心にはおおいが掛かっているのです。

私たちは神を見る、神の神殿である、とは、だてに語られているのではない。私たちの召しの高さは自分の理解では消化することの出来るものではないが、その特権は神の与えた事実である。神御自身によって、クリスチャンはそういうものである、と宣告された。

 私たちは理解しがたい。しかし、正しく自らの召しの高さを知らしめられるとき主を恐れる厳粛な歩みが伴うことになろう。主が示される主の光を見ることが出来るように、このことを理解することが出来るようにと、主に祈るよりほかない。