礼拝・学び 概要

鈴ヶ峰キリスト福音館

2003323(日)


主を畏れる

――主は侮られるお方ではない――

レビ記10:1-3
10:1 さて、アロンの子ナダブとアビフは、おのおの自分の火皿を取り、その中に火を入れ、その上に香を盛り、主が彼らに命じなかった異なった火を主の前にささげた。
10:2 すると、主の前から火が出て、彼らを焼き尽くし、彼らは主の前で死んだ。
10:3 それで、モーセはアロンに言った。「主が仰せになったことは、こういうことだ。『わたしに近づく者によって、わたしは自分の聖を現わし、すべての民の前でわたしは自分の栄光を現わす。』」それゆえ、アロンは黙っていた。

 『わたしに近づく者によって、わたしは自分の聖を現わし、すべての民の前でわたしは自分の栄光を現わす。
 ナダブとアビフは異なった火を主に捧げた。すなわち彼らは主を侮っていたのである。それは、定められたとおりでなかったか、手抜きをしたのか、いずれにしても彼らの思うようにそれを行った。それで、主の裁きを受けたのである。
 私たちは主を恐れるということを学ぶ必要がある。

 神の愛と恵みの事実は、神を私たちのレベルに引き下げて創造者と被造物の違いを忘れることではない。神の愛と恵みは私たちが神を恐れるという前提の上にある。聖書は神を侮るということに対して多くの記事をもって私たちに戒めている。
 サムエル記には、祭司エリの息子の愚行が記されている。
―― このように、子たちの罪は、主の前で非常に大きかった。主へのささげ物を、この人たちが侮ったからである。(Tサムエル2:17)――
 このときエリはこのように言った。 「 人がもし、ほかの人に対して罪を犯すと、神がその仲裁をしてくださる。だが、人が主に対して罪を犯したら、だれが、その者のために仲裁に立とうか。(2:25)

 私たちは、クリスチャンになっても弱さの故に罪を犯し、また過ちをも犯してしまうであろう。しかし、そのとき悔い改めによって主によって赦される。
 しかし、神に対して侮りの罪を犯すときは、私たち自身が悔い改めの機会をなくしてしまっている。
 マタイ伝で主イエスは次のように言われた。「わたしはあなたがたに言います。人はどんな罪も冒涜も赦していただけます。しかし、聖霊に逆らう冒涜は赦されません。(マタイ12:31)
 このことは同様に神御自身を侮る罪を表している。神の恵みのメッセージを拒否する故に救われることはない。主の愛と哀れみの神性を汚し、内において悔い改めの機会を失う。神への侮りは私たちの悔い改めの芽さえも摘んでしまっているのである。そのとき、誰がいったい救ってくださるというのであろう。

 多くの聖徒は神への恐れを土台にして、神の恵みを感謝し賛美している。彼らは神を恐れることの喜びをもって語り、ダビデも詩篇でこのように言う。「あなたは、恵み深い者には、恵み深く、全き者には、全くあられ、きよい者には、きよく、曲がった者には、ねじ曲げる方。(詩篇18:25-26)
 これは恐怖のうちに発せられた言葉ではなく、主を恐れる者の感謝と喜びの賛美である。ダビデは生活の体験から神がいかなるお方であるのかということをよく知っていた。主を軽んじるものは軽んじられることを身に染みて分かっていた聖徒であった。

 このように信仰の原点の一つは「主をおそれる」ことに尽きる。
 聖書が示す『おそれ』には、人を恐れるおそれ、罪からの裁きを恐れるおそれ、そして、神を恐れる聖いおそれがある。この神を恐れるおそれは創造者に対する畏敬の念であって恐怖心によるものではない。クリスチャンが神に近づけば近づくほど、恐怖心から畏敬の念に変わってくる。このおそれは信仰によって成長させられるものである。聖なるおそれが何たるかを徐々に学んでいくのである。

ヨハネの福音書 3:21
 しかし、真理を行なう者は、光のほうに来る。その行ないが神にあってなされたことが明らかにされるためである。

 罪を犯して神を侮る者にとっては、光のほうに来ることは恐怖である。しかし、神に対する聖いおそれを持つ者は神に中にあって全てがさらけ出されることを望む。ヨハネ伝の言葉は「聖いおそれを持つ者は、なお光のほうに来る」と言い換えることも出来るだろう。彼らはその中で神の愛といつくしみを十分に味わうのである。

「神は愛なる方です。」
「神は恵み深い方です。」
多くの聖徒たちがそのように証しする。聖書は神の裁きについて語っているのに、彼らの感謝と賛美は神の愛である。なぜだろうか。彼らは聖なるおそれをもって主の中にいるとき、自身にとって主の恵みと愛をしか体験することが出来なかったのである。


マタイの福音書 11:28-30
11:28 すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。
11:29 わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。
11:30 わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。


 この意味を本当の意味で知ることが出来るのは主への聖なるおそれを持つ者だけである。神を軽んじ侮る者は主の恵みを体験することが出来ない。結果、主から遠く離れ去るのみである。だが信仰を抱き、おそれを持って神に近づくなら、こんなちりにも等しい私をなおも受け入れてくださる主への感謝に満たされる。
 最初は恐怖があるかもしれない。しかし、次第に主への聖いおそれによって近づく者とされ、さらに耐えず主の中に憩うことを願う者とされる。