礼拝・学び概要

鈴ヶ峰キリスト福音館

200354日(日)

 荒野の集会

――荒野の導き――

民数記9:15-23
9:15 幕屋を建てた日、雲があかしの天幕である幕屋をおおった。それは、夕方には幕屋の上にあって火のようなものになり、朝まであった。
9:16 いつもこのようであって、昼は雲がそれをおおい、夜は火のように見えた。
9:17 雲が天幕を離れて上ると、すぐそのあとで、イスラエル人はいつも旅立った。そして、雲がとどまるその場所で、イスラエル人は宿営していた。
9:18 主の命令によって、イスラエル人は旅立ち、主の命令によって宿営した。雲が幕屋の上にとどまっている間、彼らは宿営していた。
9:19 長い間、雲が幕屋の上にとどまるときには、イスラエル人は主の戒めを守って、旅立たなかった。
9:20 また雲がわずかの間しか幕屋の上にとどまらないことがあっても、彼らは主の命令によって宿営し、主の命令によって旅立った。
9:21 雲が夕方から朝までとどまるようなときがあっても、朝になって雲が上れば、彼らはただちに旅立った。昼でも、夜でも、雲が上れば、彼らはいつも旅立った。
9:22 二日でも、一月でも、あるいは一年でも、雲が幕屋の上にとどまって去らなければ、イスラエル人は宿営して旅立たなかった。ただ雲が上ったときだけ旅立った。
9:23 彼らは主の命令によって宿営し、主の命令によって旅立った。彼らはモーセを通して示された主の命令によって、主の戒めを守った。

 イスラエルの民がエジプトを脱出したとき、主は荒野でこのように導かれた。イスラエルがこの導きに従った場面は私たちに対する主の導きについても同様に教えるものだ。彼らの導かれるとき、雲が幕屋の上に覆った。夕には火のように見えた。雲が夕方から朝までとどまるようなときがあっても、朝になって雲が上れば、彼らはただちに旅立った。昼でも、夜でも、雲が上れば、彼らはいつも旅立った。二日でも、一月でも、あるいは一年でも、雲が幕屋の上にとどまって去らなければ、イスラエル人は宿営して旅立たなかった。ただ雲が上ったときだけ旅立った。

完全に神の主権の元にあって従った生活を見ることが出来る。彼らの取り巻く環境とは荒野であり、主による以外に頼ることの出来ない環境であった。イスラエルの民は荒野においてのみ主の御業を体験することができた。主の御業を体験するのに適した場は荒野であった。

 私たちはより良い環境が与えられれば、よりよく主に仕えられると思っているかもしれない。しかし、イスラエルにとってこの荒野こそ最良の証を保つ環境であった。彼らは日々マナによって養われ、彼らが乾いたとき、岩からの清水を飲んだ。
ネヘミヤ9:21には次のように描かれている。
「四十年の間、あなたは彼らを荒野で養われたので、彼らは何も不足することなく、彼らの着物もすり切れず、足もはれませんでした。」
 この荒野の生活においてイスラエルは最も幸いな期間を過ごした。

 この荒野の中での神のみ業こそ、教会の導きであり、教会に表される神の御心である。これはただ旧約の時代のことではなく新約の時代でも同じように主の表される御業である。新約において次のように荒野の導きの個所が引用されている。

使徒7:38
7:38 また、この人が、シナイ山で彼に語った御使いや私たちの先祖たちとともに、荒野の集会において、生けるみことばを授かり、あなたがたに与えたのです。
 「荒野の集会において」とある注釈に原語では『エクレシア』と補足されている。エクレシアはここでは荒野の集会と訳されるが、他の個所では「教会」と訳される。すなわち、この「荒野の集会」は神が「教会」をどのように導かれるかを示す個所である。
 荒野の集会の性格は主御自身だけに頼ることにある。これが主の証の最も適した場所である。最も幸いな場所である。しかし、そのためには、イスラエルにとって荒野が必要な地だった。

 私たちは主を証するとき、もし、時間と富と人材とが与えられればと思うかもしれない。しかし、イスラエルは繁栄の中で集会が導かれたのではなかった。繁栄はむしろ誘惑が多く、しばしば主から離れた。だが、荒野は、神にしか頼ることの出来ない最善の祝福の地である。霊的な祝福が満ちていた。同様に多くの問題や危険も近くにあった。マタイ伝4章には主イエスが受けた荒野の試みが記されている。ここで、神に頼る以外の方法が幾度となく提示された。悪魔は人を神の言葉から引き離そうとした。しかし、主は申命記の出エジプトの民に言われたみ言葉をもって答えられた。「人はパンだけによって生きるのではない。神の口から出る一つ一つの言葉によって生きる」と。誘惑者はいつでも神以外に頼る方法をささやくのであった。
 もし、神に頼らない方法を選ぶなら、私たちの周りにはいくらでもその環境は取り巻いている。
(道は広く、際限なくあらゆる方向に広がっている。しかし、行き着く先は神御自身の祝福からそれた滅びである。)内にも外にもそれらは満ちている。神の祝福を取り去るために、悪魔はいつでも、神の手から離れて迷い出ることを促すのだ。

集会(私たちが集う集会は神御自身によらなければ生きていけないその道を求めるものである)には、教会規則は無い。献金も決めていないし、本部も無い。どうやって組織が存立するだろうか。――しかし、これは荒野の教会でもある。神御自身に頼るほかない。
 ネヘミヤがイスラエルの荒野の40年間、彼らに何の不足もなかった、といったように、神の主権の元に歩むところはいつでも、振り返ってみるとき、私たちには何の不足もなかった、と告白することが出来る。ただ、いつも神の御手を行うことを願わなければ、迷い出る恐れがある。

 もし、イスラエルが主から離れ、主の導きに対して無頓着に生活し、神のしるしを見過ごすなら、彼らは主の居られない所で生活することになる。非常に危険な命の状態となる。荒野ではそれは死を意味する。
 神の導きをいつも見続けていなければ、もはや迷い出てしまう。主の導きに従うといいながら、迷うものとなってしまうのである。

 私たちは神の御声を聞くという主の御前に静まることが大切である。安易な方法として他の集会と同じ事をすることによって安心感を得ようとするなら、自ら直接 神の御声を聞かなくても良いので楽かもしれない。しかし、他ではなく、自身に語られる神の導きのうちに歩まなければならない。先輩が多くの学びを与えるかもしれない。しかし、それをただ聞いて方法論として安んじ受け入れるのではなく、もう一度、主の御前に静まり、神の自分に語りかけておられる御声を聞く必要がある。それが大人の信仰である。
 個人でも同じことが言える。個人個人に主の召しがあるのであるから、直接あなたに示す神の御声を聞く祈りの生活が必要である。
Uテモテ4:7でパウロはこのように言った。
私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。」と。
 パウロは、ペテロはユダヤ人に召されているが、私は異邦人のために召されている、と証しした。人と同じ事をする信仰生活のモノマネではなく、神の与えた召しに従った。だからこそ、「私は走るべき道のりを走り終えた」と言い得るのである。まさしく、個人的にも『荒野の生活』において、神の導きを求めつづけたという結果である。

 神はクリスチャンだからといって常に環境の良い場所に信徒を置くということではない。荒野の生活に導き、主により頼むより他ないという地に誘われることもあるだろう。それは、何もなく、肉に頼ることの出来る保証が見当たらない。
肉は叫ぶ。しかし、霊的には、これこそ祝福の場であり、神の御声を聞くときである。神は私たちを主にある霊的な喜びを与え、さらに増し加え、満たそうとしておられる。

 主は、御自身の民を祝福し養い育てられる。人はパンによってではなく、主の口から出る一つ一つの言葉によって生きる。日々、主によって養われる体験が出来るようにと主は私たちを召しておられる。