礼拝・学び概要

鈴ヶ峰キリスト福音館

2003831日(日)

 主を知ることを求める

――主を知る――

ホセア書6:1-3
6:1 「さあ、主に立ち返ろう。主は私たちを引き裂いたが、また、いやし、私たちを打ったが、また、包んでくださるからだ。
6:2 主は二日の後、私たちを生き返らせ、三日目に私たちを立ち上がらせる。私たちは、御前に生きるのだ。
6:3 私たちは、知ろう。主を知ることを切に追い求めよう。主は暁の光のように、確かに現われ、大雨のように、私たちのところに来、後の雨のように、地を潤される。」

 イスラエルが反逆し、主から離れるとき、神は預言者を通してどれほど多くのメッセージをなされたことか。ホセア書も同じように、預言者を通して神が民に立ち返るように仰せられた御言葉である。これはまた、私たちにも通じる神の御声である。信仰生活のどの段階においても、主の御元に返るべきことが私たちの心に示されるからである。
3節に
「私たちは、知ろう。主を知ることを切に追い求めよう。主は暁の光のように、確かに現われ、大雨のように、私たちのところに来、後の雨のように、地を潤される。」とある。
 この「知る」とは、二つの意味があるだろう。一つは知識的に知ること、理解することである。そしてもう一つは、体験的に神を「知る」ことを指す。特に聖書が「知る」というとき、体験的な交わりにおいてしばしばこの言葉が扱われていることが分かる。(→
注1

 神は、私たちに単に知識的に御自身を知ることだけを求めてはおられない。主は御民に対して、神の前に彼ら(私たち)が神を知ることを切に求めるとき、与えられる恵みがどれほどのものなのかが体験的に分かる、と仰せられる。マラキ書に示されているとおりである。わたしをためしてみよ。・・万軍の主は仰せられる。・・わたしがあなたがたのために、天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうかをためしてみよ。主はあふれるばかりの恵みを、しかも観念的にではなく、現実的・体現的な恵みを注ぐと約束しておられる。主を追い求めるなら、主なる神御自身がどんなに恵みを注がれるのかを体験的に知るであろう、と。

 主を追い求めるそのとき、主の臨在を私たちは覚える。「主は暁の光のように、確かに現われ、大雨のように、私たちのところに」(3節)神は確かに私たちに表れてくださる。苦しみのとき、また叫び呼び求めるときも、確かに来て、主は私たちを助けてくださる。
 そしてまた、主は
後の雨のように地を潤される(3節)。渇ききった砂漠では、人々は、雨が降るのを心から喜んだであろう。そのように私たちの渇いた魂の中に、雨を降らせ潤してくださる。(主を知ることは私たちにとってそのような喜びであり、神がともにいてくださることを求めることである。)

 神御自身が私たちの必要を知り、必要の雨を降らせて心を潤わせてくださる。主を知ること・主を知ることを切に求めることがどれほど大事なことか分かる。
 しかし、私たちが神に対して冷淡であるとき、主のこころを悲しませるものとなるであろう。

――主への自由――

Uコリント3:6,14-18
3:6 神は私たちに、新しい契約に仕える者となる資格をくださいました。文字に仕える者ではなく、御霊に仕える者です。文字は殺し、御霊は生かすからです。
3:14 しかし、イスラエルの人々の思いは鈍くなったのです。というのは、今日に至るまで、古い契約が朗読されるときに、同じおおいが掛けられたままで、取りのけられてはいません。なぜなら、それはキリストによって取り除かれるものだからです。
3:15 かえって、今日まで、モーセの書が朗読されるときはいつでも、彼らの心にはおおいが掛かっているのです。
3:16 しかし、人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです。
3:17 主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。
3:18 私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。

 6節の中に、ユダヤ人たちが神の言葉を知っていながら、いかに知識的にしか知らなかったかということが伺える。彼らは文字に仕えていたと示されてある。14節のみ言葉のとおりに、彼らの思いは鈍くなったと。「 しかし、イスラエルの人々の思いは鈍くなったのです。」

 神の言葉を大切に扱いながらも、実際、主御自身には疎かった。神の言葉を朗読しながらも、その心には覆いがかかっていた。御言葉を読むこと、大切にする事は大事である。しかし、まず大事なのは、それを語ってくださる神のみこころに私たちの心を向けることである。生ける神を求めつつ聖書を読み始めるとき、私たちの心に覆いが取りのぞかれる体験をすることが出来るだろう。その体験的な証は「自由」である。主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。(17節)
 そして、この自由は悪を行う自由ではない。神に仕えることへの自由である。キリスト者は、正しいからというので、キリスト者のようであらねばならないのではない。――聖書を読まなければならない。キリスト者であるなら、祈らなければならない・・・自らを強制する内に、神に仕えることの不自由な自分を見出す。私たちが神に自由を与えられるならば、私たちは自由に神に仕えることが出来るようになる。
 ――仕えること、御言葉を読むこと、祈ることは、しなければならない課題ではなく、私にとって読むこと祈ることは生きている呼吸のようである――この自由には、神への喜びがある。そのような人は、
「顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行」く(18節)であろう。

 神は私たちに御自身の近くにおらせたいと願われる。こころにおいてみそば近くにいるのでなければ、いくら主に仕えても、神を知的に知っても、また働きにおいて神の業近くにいても主の御側にいることにはならない。
 旧約で主は「あなた方のささげものは忌み嫌う」と言われた。礼拝を行いつつ、しかし日常は神から遠く離れ、いやいやながら行っていた。背信した時代の肉のイスラエルの姿である。主は、そのようなささげものはいらない、と言われる。

 主の御元にいることを喜びとすることは、聖徒の姿である。この特権はいまや恵みによって私たちに与えられた。私たちは主を知ることを求めるのである。体験的な神との交わりの中におらせられるとき、救いの主が私たちの心を潤してくださる。求めるとき、主は私たちに主を体現的に知ることを与えて(示して)くださる。まさに渇くことのない命の水がその人のうちから耐えず湧き出るようになる。そのような内にあって、私たちがせねばならないこととして、生じる実を残そうとするのではない。結果的に主御自身によって私たちは多くの実を結ぶ者とされる。

 


注1: 「知る」ことの聖書的用法は、たとえば以下の事例等に見られる。

〔体現的〕
・かつて、不法と汚れの町ソドムが裁かれたときも、汚れた者らは神の御使いに対して言った「今夜お前のところにやって来た男たちはどこにいるのか。ここに連れ出せ。彼らをよく知りたいのだ。」「兄弟たちよ。どうか悪いことはしないでください。お願いですから。私にはまだ男を知らない二人の娘があります。」・・・というやり取りがある。ソドムの住民が言ったことは、同性愛的な思考の元(物理的事象)で言われている。
・また、処女マリヤは御使いから告知されたとき、御使いに言っている。「どうしてそのようなことになりえましょう。私はまだ男の人を知りませんのに。」

〔応用〕
・見よ。人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るようになった。
・それでは、どういうことになりますか。律法は罪なのでしょうか。絶対にそんなことはありません。ただ、律法によらないでは、私は罪を知ることがなかったでしょう。律法が、「むさぼってはならない。」と言わなかったら、私はむさぼりを知らなかったでしょう。
・「あなたがたは、わたしをも、わたしの父をも知りません。もし、あなたがたがわたしを知っていたなら、わたしの父をも知っていたでしょう。」
・わたしはわたしのものを知っています。また、わたしのものは、わたしを知っています。それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同様です。
・その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。
・そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。