礼拝・学び概要

鈴ヶ峰キリスト福音館

200397日(日)

 信仰に進む戦い

――迷い出たもの――

ローマ書3:9-12
3:9 では、どうなのでしょう。私たちは他の者にまさっているのでしょうか。決してそうではありません。私たちは前に、ユダヤ人もギリシヤ人も、すべての人が罪の下にあると責めたのです。
3:10 それは、次のように書いてあるとおりです。「義人はいない。ひとりもいない。
3:11 悟りのある人はいない。神を求める人はいない。
3:12 すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行なう人はいない。ひとりもいない。」

 すべての人が罪を犯し、完全なものはいないと聖書は記している。そして、その結果の醜さについても描かれている。そのひとつの姿は、迷い出ることにあるのではないだろうか。「迷う」とは、「検討を誤ってまごつく」と辞書には記されていた。ビリー・グラハムも「現代人は自己証明の危機」と言って、自分が何者かわからない人々の状態を示した。自分自身が何者か分からなくなるとき、人は善悪の判断を見失い、生きる理由を失う。そうなれば、快楽が当面の自分の人生の目的となる。これらは、迷い出た人の生き様であろう。クリスチャンも不信仰になって迷い出ることがありうる。自分のおるべき場所を見失うと、与えられた立場が分からなくなり、平安がなくなる。

アフリカの野生の動物たちの世界を想像すると良く分かる。シマウマなど弱い動物たちは草原の中で群れからはなれるとただうろたえるのみである。その後ろからはライオンが忍び寄っている。そのような姿は迷い出た人の状態と同じだ。クリスチャンが迷い出るとき、危険がすぐ近くに迫っている。
Tペテロ5:8「身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。」
クリスチャンが迷い出てしまうときそこには危険が待っている。サタンは私たちの信仰をだめにしようとし、主にある安定と平安を奪い取ろうとしている。野性の世界でも襲われるものは幼子や弱いものであり、獅子はそういうものを狙っている。主から離れるなら、私たちはほえたける獅子のように隙をうかがっている敵からの危険があると、御言葉は警告しているのである。

エペソ6:10-18
6:10 終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい。
6:11 悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。
6:12 私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。
6:13 ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、いっさいを成し遂げて、堅く立つことができるように、神のすべての武具をとりなさい。
6:14 では、しっかりと立ちなさい。腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け、
6:15 足には平和の福音の備えをはきなさい。
6:16 これらすべてのものの上に、信仰の大盾を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢を、みな消すことができます。
6:17 救いのかぶとをかぶり、また御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい。
6:18 すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。

 10節に「主にあって、その大能の力によって強められなさい」と勧められている。「主にあって」とは、迷いでていない者、自分のおるべき場所にいるものである。その人は大能の力によって強められる。主から離れるならサタンに捕らわれる危険がある。しかし、主の元にいるなら主の大能の力を帯びている。

 私たちの信仰生活は戦いである。クリスチャンが信仰に立って歩もうとするとき初めて、戦いなのだと感じる。しかし、何もせず惰性で生きようとするなら、戦いはない。神の働きを阻害する力も襲ってこず、自身が肉を捨てることへの祈りも無いからである。サタンはクリスチャンの命を滅ぼすことは出来ないが、多くの反対の力によって信仰者が神の働きと神のみ力に頼ることを無力化しようと日々努めている。

 クリスチャンの武具は「真理の帯」「正義の胸当」「信仰のたて」「救のかぶと」「御霊の剣」・・・これらのものは私たちに与えられている。しかし、それらは本来前につける武具であり、戦いに正面を向いているときに装備するものである。このとき、主の大能の力によって私たちは強い。しかし、後ろを向くときには着けるべき武具は無い。それは迷い出た弱さである。もし、正面に向かうならクリスチャンは勇士であり、また戦いの姿勢をとるならどこまでも強いものとされる。しかし、戦いの姿勢を持たないならどこまでも弱くなる。

 クリスチャンは主にある限りどこまでも強いが、世に帰るなら信仰告白者は生きてはいけない。一度告白し、かつては主によりすがる他無いとしたその人の心の状態は既に自我を世の人のように主張できない砕かれたものである。そのような人にはもはや世にあって生きる術は無いのである。
 ここにクリスチャンの二面性がある。私たちが神の元にいるなら、勝利者としての歩みが用意されている。神が私たちの命となり力となってくださるからだ。