礼拝・学び概要

鈴ヶ峰 キリスト 福音館

2003921日(日)

 キリストの証し人

――キリスト者の実――

マタイの福音書7:15-20
7:15 にせ預言者たちに気をつけなさい。彼らは羊のなりをしてやって来るが、うちは貪欲な狼です。
7:16 あなたがたは、実によって彼らを見分けることができます。ぶどうは、いばらからは取れないし、いちじくは、あざみから取れるわけがないでしょう。
7:17 同様に、良い木はみな良い実を結ぶが、悪い木は悪い実を結びます。
7:18 良い木が悪い実をならせることはできないし、また、悪い木が良い実をならせることもできません。
7:19 良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。
7:20 こういうわけで、あなたがたは、実によって彼らを見分けることができるのです。

 人を判断するのには、その人の実によって見分けられると記されている。この言葉は私たちにとって厳粛なことばである。現代のキリスト者がユダヤ人の行いと言葉の不一致を示すのは簡単だが、自らのうちに実を示すことができるだろうか。
 キリスト者とは、主が与えてくださった命の実を表す存在である。

 ところが、忙しく神の働きをしているといいつつ、主の実りのない実態に出会うことがありうる。22節にこのようにある。
その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行なったではありませんか。』 しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』
 日曜牧師は、日曜日には「主よ、主よ」と言うが、それ以外の日常は主からかけ離れた生活をする。事実そのようなことがありうる。

 クリスチャンが表す実とは何だろうか。
 その人の内に主の業が明らかになることではないだろうか。
 枝が木から養分を得て実を実らせているように、生活の基盤がどこにあるかということが問われるのである。

詩篇127:1
主が家を建てるのでなければ、建てる者の働きはむなしい。主が町を守るのでなければ、守る者の見張りはむなしい。

 私たちの価値の評価は、仕事の量ではなく、むしろ質である。主は、主がともにいてくださった業を祝福してくださる。主の業に預かっていることを示さないで働くことは、詩篇の信仰者が言ったようにそれはむなしい。
 主は私たちを愛しておられる。これらのことは、私たちをご自身の高みに招き寄せるために聖徒に語りかけておられるみ声である。

ヨハネの福音書12:1-2
12:1 イエスは過越の祭りの六日前にベタニヤに来られた。そこには、イエスが死人の中からよみがえらせたラザロがいた。
12:2 人々はイエスのために、そこに晩餐を用意した。そしてマルタは給仕していた。ラザロは、イエスとともに食卓に着いている人々の中に混じっていた。

 ここにラザロという人物が出てくる。聖書はラザロが働いたことをまったく示していない。しかし、ここには主が彼をよみがえらせた(主の業に預かった人)という特徴がある。彼は多くの証しとなっている。9節に「大ぜいのユダヤ人の群れが、イエスがそこにおられることを聞いて、やって来た。それはただイエスのためだけではなく、イエスによって死人の中からよみがえったラザロを見るためでもあった」と書いてある。
 信仰の証しとは、私たちが何かをしたことではなく、主が何をしてくださったかが示されるところに重大な価値(大きな衝撃)がある。人々は見て、主が何をして下さったのかを喜ぶことができる。ラザロ自身の業はなく、ただラザロのうちに主がなされた業を見るのである。
 同様のことが、使徒の働きのうちにも見られる。

使徒の働き4:8,13-15
4:8 そのとき、ペテロは聖霊に満たされて、彼らに言った。「民の指導者たち、ならびに長老の方々。
4:9 私たちがきょう取り調べられているのが、病人に行なった良いわざについてであり、その人が何によっていやされたか、ということのためであるなら、
4:10 皆さんも、またイスラエルのすべての人々も、よく知ってください。この人が直って、あなたがたの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけ、神が死者の中からよみがえらせたナザレ人イエス・キリストの御名によるのです。


4:13 彼らはペテロとヨハネとの大胆さを見、またふたりが無学な、普通の人であるのを知って驚いたが、ふたりがイエスとともにいたのだ、ということがわかって来た。
4:14 そればかりでなく、いやされた人がふたりといっしょに立っているのを見ては、返すことばもなかった。
4:15 彼らはふたりに議会から退場するように命じ、そして互いに協議した。

 人々からの迫害が迫ってきたころのことである。ここで使徒ペテロの証の中心は、「イエス・キリストのみわざがここにある」ということであった。癒されて立っているのは、イエス・キリストの御力のゆえである。この主の力を見ては迫害者も言い返す言葉がなかった。そして、それが最も力ある証しであった。
彼らは何を見ただろうか。「彼らはペテロとヨハネとの大胆さを見、またふたりが無学な、普通の人であるのを知って驚いたが、ふたりがイエスとともにいたのだ、ということがわかって来た
彼らは、使徒たちがイエスと共にいたことのゆえに為したその力を見たのである。

 人々はクリスチャンを見て何を求めているのであろう。クリスチャンの働きや犠牲、多くの努力を見たいのだろうか。クリスチャンでなくても働きのために、命や生涯を捧げる人は多くいる。財産を貧しい人のために与え、生活をボランティアのために尽くす人もいるだろう。人々がクリスチャンに見るべきは彼らの働きぶりや努力、犠牲の姿ではなく、主が為しておられる業そのものである。そして、クリスチャンだけが、その主のみ業を証することができる。
 −−ある牧師が教授たちから特別の講演を頼まれたという。そこには哲学者・文学者、精神科医など多くの学識者が期待して集まってきた。メッセージの依頼を受けた牧師は有識者が集まってくるからというのでそのために哲学や文学などの多くを学んで準備し、学識高いメッセージをした。しかし、講演が終わって教授たちは言ったものである。「あなたには失望した。あなたが話したそれらのことは私たちにとっては初歩の初歩である」 彼らは、講演で話された哲学高いメッセージを聞きたかったのではない。キリスト者の、神の力、神のみわざを聞きたかったというのである。

 クリスチャンは、神のみわざに預かることを求めるべきである。
 今生きておられる主を、どのように体験しているかを証しするそのとき、その人を通して、主が今も働き、生きておられる主が証しされる。私たちはクリスチャンの特権を覚え、大胆に祈るべきである。
 「主よ、私たちのうちに神のみわざを表してください」と。
私たちは主を求め、主のみ業が明らかにされる必要を求める信仰が大切である。
キリストの大使である私たちは、「大使」として主の力をあらわす存在であるからだ。