福音メッセージ  福音集会

鈴ヶ峰キリスト福音館

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私はあなたを愛している

 

イザヤ書43:4
わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。――

 神の愛――それは個人的結びつきにおいて覚えるものである。
直接的には「ヤコブよイスラエルよ」と語られている。
しかし、みことばは同時に信仰をもってこれを読む私たち一人一人に語りかける。

(4節)わたしはあなたを愛している。

 「あなたを…」――それは、まわりの兄弟やクリスチャンのことでははない――まさに自分自身の問題である。
信仰に近い私の知り合いは、ある苦悩の中でこんなことを告白した。
「私は神から嫌われてしまうほどに汚れている…私のその罪・汚れは神から嫌われていると思うぐらい汚れている」
 みことばは語っている。――私はあなたを愛している――と。ともにこの愛に触れたいと願うものである。

 私たちは誰でもそんなに清い人間ではない。人の心は神様しか知らない。
さて、あなたがたの中で「バプテスマを受けたいとは思う、でも自分は正しくなれない…」
そんな思いを持つ人はいないだろうか。かつて私はバプテスマを受ける頃そんな事を思った事があった。
自分が清くならなければ救いを得る事ができないのではない。
未熟だから愛を受けるにふさわしくない者というわけではない。
自分から見て兄弟や両親、あるいは集会の人たち――その人たちの信仰は本当に立派に見えるし清く見えることがある。けれど私はそんな風になれていない。
その清さにならなければ救いを受けるに値しない者ではないんだと言う事を覚えていただきたい。

 人の心は神様しか知らないのだ。
人が評価して正しいと思っていてもその心を評価するのは神様なのである。
私たちが、たとえどんなに義人らしくあろうと努めようとも、すればするほど、その心の中は偽善で満ちてしまう。私たちはドロドロした罪に埋もれて背負いきれない。罪に悩み、心は満たされず、神の前にはまるで死人のようだ。(ヨハネの福音書では、イエス様は、「死人が神のこの声を聞くときが来る。今がその時だ」と言われた。あなたがたは神の前で死人のようだ、そういう存在)
でも、イエス様が救って下さると言うのはそのような私たち、汚れた私たち、死人のような私たち、
神様はもちろん汚れを憎まれるし、聖い方である。
けれども福音書に示された聖なる神は、汚れた人をどこまでも愛しつづけて下さったのだ。


――汚れの中に生きる罪びとたち――

 いつも主の救いを体験したのは、罪にまみれた人たちだったではないか。例えば、そう…ユダヤ人の同胞や貧しい人からもお金を余分に奪いとり、自分だけ裕福に暮らしていた取税人――彼らは聖書の中では罪人の代表格として出てくる。
 私たちはあまりにこのような場で福音メッセージを聞いているので、彼らが本当に哀れな存在だった、と同情してしまう所があるのだが、でも、実際は本当に嫌な存在だったと思う。今教会に集っている私たちが彼らの実際の姿を直視するなら――あの当時の取税人は本当に嫌な存在。自分だけ裕福に暮らして同胞や貧しい人からもお金を余分に奪いとる――自分の罪の深さ、己の汚さを身に染みて分かっているひと。
 彼らは人々からのけ者にされ、正しい人からも憎まれていた。そのようにして自分の罪の深さ、己の汚さを身に染みて分かっている哀れな罪の従者だ。彼らは自分自身が人々から憎まれる存在であることを甘んじて受けていく。それが当然の報いだったからだ。 それにもまして、神様からも見放された存在であることを自覚したはずである。
なぜなら、神様は隣人・同胞を哀れむように律法のなかで命じるそんな哀れみ深い方なのに、自分は哀れむどころかよけいに隣人を苦しませていたのだから。
 でも、それでも、イエス様はこの汚れた一人に対して声を掛けられ、そして自分を求める事を願いつづけて下さるのだ。
 正しいと見えた律法学者やパリサイ人は 「あなたはいつも取税人や罪人とともにいる」 と非難している。
いつも――イエス様はむしろ罪に沈み、生きる意味を失っている人間にだけ、主は救いの声を優しく語り掛けて下さった。
あなたの罪は赦すとイエス様を求める心に対しておっしゃった。
(ただ、それは、イエス様が代わりに罪の裁きを負う苦しみを受けて下さったことによる。)

 近寄ることも、神の会堂にすらその存在を許されないような汚れた女性の代名詞のような罪を負った、遊女。――彼女も自身、自分の罪の深さに悲しまずにはいられない者だった。近寄る事すら忌まわしい――社会の中でそんな存在。
自分自身が罪深いと言う悲しみに満ちていた人。
彼女は罪を一杯背負って、そして尚も犯し続ける――まるでそれがその人の生き方の全てであるような人生を歩む人だった。遊女と言えば遊女のなすこと以外にその人の生きるすべがない。それがその人の人格のすべてであるかのようなそんな存在ではなかったのではないだろうか。
でも、それでも、彼女がイエス様を求めて涙を流すとき、そのような汚れさえも主が負って下さった。

 私たちの罪は、真実のところ彼らの罪となんら変わることのない深い者である。
クリスチャンホームで育っていても、毎週教会に集っていても、私たちは自分の罪というものを自覚しなければならないと思う。自分の心の汚れた事、そして私たちが神の前に本当にどうしようもない死人である事、それを悔い改めてイエス様の元に近づくと言う信仰が大切だと思う。
 そんな私たちを前に対してイエス様は、愛しているとおっしゃってくださる。
「43章:わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

 私個人を愛しているとおっしゃって下さる。
 このことを言うとき、神様がクリスチャンである自分の親を愛しているのだとか、集会のクリスチャンであるこの人を愛しているとか、そういうことではなくて、自分に関して言えば、「神様はこの私を愛しているんだ」と言う事実を受け入れて欲しいのである。

 私と神様とのただ一対一の関係においてこの事実を受け止める交わりが必要だと思う。この愛を誰も否定する事はできない。
たとえ、親や集会の人があなたは救われてない、愛されていないとしたとしても、そのようにいうことはできない、この愛はただ神の主権の元においての愛である。罪びとに過ぎない者が神の主権をとやかく言うことはできないのである。しかし、ただ主の主権において、主は私たちを愛していると語りかけて下さったのだ。
たとえどんなことがあってもどういう時であっても神様は私を愛している。この聖書のみことばを信じて生きていって欲しいと思う。

 汚れていたら私たちは神から嫌われる存在だと思う。神は汚れを憎まれる方だ。けれども、汚れていればいるほど私たちに救いは必要なのだ。汚れているからこそイエス様の救いがいるのだ。

 イエス様の救いを受け入れない正しいと思っている人たちは、神の愛を自ら必要ないと言う事でシャットアウトしてしまっている。
そういう祈りがある所を見てみたいと思う。
 私たち罪人である存在は、キリストの十字架を前にして強盗のひとりがいったように、「私は罪を犯したのだからこの裁きを受けて当たり前だ」本当にそういう存在である。けれども、イエス様はこのような罪人をあがなうために死なれたのは覚えるべき恵みである。
 そして、ルカ18章を見てみたい。ここでは、義人だと自称するパリサイ人の祈りと自分の罪に沈み悲しんでいる罪人――取税人の祈りとを見る事ができる。

ルカ18:9
 自分を義人だと自任し、他の人々を見下している者たちに対しては、イエスはこのようなたとえを話された。
18:10 「ふたりの人が、祈るために宮に上った。ひとりはパリサイ人で、もうひとりは取税人であった。
18:11 パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。
18:12 私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。』
18:13 ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』
18:14 あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」

 パリサイ人の行なってきた事は悪い事とは思えない。
けれども、「私は神の前に正しいんだ」その自分の義を持って神の前に出た。
神の前に人はなすすべのないものである。けれども彼は自分の義をもって神の前に出た。―― 一方、取税人は 「私はどうしようもない者です。あなたの救いが必要なのです。」 心の叫び、魂の叫びをもって祈っている。 「私はどうしようもないから、この哀れな私を救って下さい」 といったのである。
 私たちが自分を正しいとして神の前に出る事が良いのではないのだ。
何か善くなってから神の救いを受けるのではないのだ。
それは自分の義を持って神様の前に出る事だからだ。
「こんな私でも」、いや 「こんなどうしようもない私だから、この私をどうか神様哀れんで下さい。」 と神の前に信頼してゆだねて出ていく姿勢を主は望まれるのである。

――どのような立場で立つのか ――

 このこと――自分の義をもって神の前に出るという行為は、昔から、旧約の時代からみ言葉が引き継いできた問題提示である
 創世記の初めにアダムとエバの物語が書かれてある。
彼らが食べてはならないと言う善悪を知る知識の木の実を取って食べたとき、その裁きの後で、主はこのようにおっしゃった。
創世記3:22「神である主は仰せられた。「見よ。人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るようになった。今、彼が、手を伸ばし、いのちの木からも取って食べ、永遠に生きないように」
そうしてエデンの園を追放された。

 「我々の一人のようになった」と言う神様の言葉に目を留めていただきたい。
 神様が何が正しい事で、何が善くない事であるかの義を基準するように、人である者が自ら義を基準するものとなったということである。
 私たちが自分で正しいと判断する――自分を正しい存在だとして生きていく。
 神が全ての義を決められるお方であるのに「私が正しい」という思いで物事を決め、「私が正しいのだ」という――そういう生き方である。神様しかそれは言えない事だった。正しいのは神様だけなのだ。しかし、人が自分で選択し、自ら木の実を取り「神の言葉によってではなく私はこのように生きる」という――神様は今でも、みことばの中で多くの正しい勧めをなさっているが、人間は「嫌、私はこれでいいんだ」「私はこう生きる」そういう自分の正しさによっていきる生き方だと思う。その時に私たちは罪の姿――的外れの姿――神の心から遠く離れた姿を覚えることができるのではないだろうか。

 ここにパリサイ人の姿を見る。
「私は正しい」――その行いを持って、その自覚を持って神の前に出る事が正しい事ではない。

 時々、私たちはクリスチャンであっても、クリスチャンであるがゆえの幸いを思って、「私はクリスチャンであるからこのことがうまくいった」「高校がうかった」「大学がうかった」「私は他の人のように悩んでなくて人生に乾いてなくて…」という、そういう、何か自分を義とする心で神の前に出る事があるかもしれない。しかしそれは本当におろかな姿だ。
 私たちは本当にどうしようもない、汚れている、罪人だ。だから私を哀れんでください。そういう祈りが必要なのだ。私たちはあまりにも汚れているから、罪を赦すという限りない神の恵みを受けなければ生きていけないのだ。神の救いがなければどうしようもないのである。
あまりに醜いため、ついには救いを与えて下さるイエス様にしか頼ることができないのである。――これこそ、信仰なのである。

 「私」の罪を赦すために死んで下さった主イエスを告白すること、この事実を信じることが信仰であるのであったら、たとえどんなことがあっても愛されていることを信じることは信仰なのである。そして、これは過去一度信じて、感動して、それで今は信じない、救いを実感していないというものではない。私たちはずっとずっと、犠牲になられるイエス様の愛が必要なのだから、それがないと生きていけないのだから。どうぞあなたの信仰を堅くして欲しい。
たとえどんなことがあっても私の救いはイエス様なのだ、神様が私を愛して下さっている。このことを信頼して欲しいと思う。
聖書に書いてある恵みを自分ものとして欲しいと思う。
たとえば、福音キャンプや伝道者の方々による特別伝道集会で神様の愛を知り、自分の罪を知り、救いの素晴らしさを知ったなら、本当に喜びで満たされると思う。
しかし、そういうことがなくなったらまた感情的にさめてしまう――そういう事は肉の弱さとしてあるかも知れない。けれども、だからといって救いが必要ないのではないのだ。

 私たちはいつでも、イエス様の救いがなければ生きていけない存在なんだ。
イエス様にしか頼る事ができないんだと言うその信頼を確立して欲しいと思う。
私たちがこの「イエス様はたとえどんな時でも救い主だ」という信頼を失えば意味のない事だと思う。
聖書を良く読み、毎日教会に集っていても、また仮に神の働きを良く行う。
けれども、もし、「どんな時でもイエス様は私の救い主」という信頼がなかったら力のないものである。

 取税人や遊女はもうこの世に希望もなかった。神様からも憎まれている――見放されていると思っていた。けれども、イエス様が近寄って下さったとき、「主よ」といって、「私はこの方にしか頼る事ができない」という全生涯をかけての悔い改め――神の前に向かう姿勢を告白しているのである。
救って下さるのは教会や兄弟姉妹や親や、立派な信仰者ではない。
救って下さるのは神様だけなのだ。
だから 私と神様 私とイエス様 この一対一の関係において自分の救いを確立していただきたいと思う。
「私と神様」――この一対一の関係こそが大切なのだ。

「このイエス様がこの私を愛して下さいます。だから、私は主を愛するのです。従いたいのです。私はもう罪を犯しません」

――この決断は、主に向く悔い改めの姿勢である。私はまた罪を犯してしまうかも…という恐れは誰にでもある。しかし、そうではなく、「主がこの汚れを負って痛みを担って下さったのだから、私はこの方の喜ばれることをしたい、私はもう罪を犯したくないのです。二度としません」 この決意を主は喜ばれるのである。
 人は弱さのゆえに信仰を持っても罪を犯してしまう――でも、悔い改めるのである。「みんな犯してしまうのだから」ではなく、「クリスチャンだってみんな罪人なのだから」ではなく、「主よ、あなたの喜ばれる生き方に従いたいのです」という、これがイエスを主と告白することである。

 私を愛して死なれるこのお方を前にして、私は尚も汚れている。しかし、神様は聖いと言って下さる――一人私たちが犯す罪の罪過を担い神の激しい御怒りをご自分の身に受ける贖いの主イエス様の故に。そして、私たちが神に向かう新たな決意をずっと待って下さるのである。