聖書研究会メッセージ  

鈴ヶ峰 キリスト 福音館

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シリーズ:キリストの足跡(マタイ福音書 5章)

―― 山上の垂訓 Part2(キリストのこころ) ――

  今回、マタイ5章の山上の垂訓から、預言者の言葉や使徒たちのことばを通して、イエス様によって実現している「インマヌエルの主」――という主題をともに洞察していきたいと思う。

 これまで各章で、多くの群集がイエス様に求めてやってきた。ガリラヤ全土で多くの病人を癒し、悪霊を追い出し、人々は、「癒されていった」他の人々を見てはうわさを聞き、イエス様に求めてくるのである。多くの人はキリストに近づいて「地上の救い」、人間的な意味の「地のメシア」をイエス様に求めてきた。
「キリストに何を求めているか」と人々の姿を見るならいうと、人はキリストにパンを求め、キリストに支配者であることを求め、またキリストからくる祝福、キリストにさまざまな癒しを求めてやってくる。しかし、そのようにイエス様に求めてやってきても、イエス様は応えることができないのである。信仰なしにキリストに近づいて「地上のメシア」――イエス様が与えようとしておられるものでない、本当の意味でメシアとして与える救いでない彼らの欲望としての救いを求めてやってきても、主は応えることはおできにならない。
 しかし、ただ、その中でも本当に苦しみ、悩みの中でイエス様を求めた人がいる。彼らはイエス様から体や霊の癒しを求めたのだが、しかし、心の底から、キリストの癒しをどうしても自分に必要とするという救いの求めがあったためにキリストの哀れみを受ける。好奇心や奇跡を見たいという心で近づくものとは異質の信仰なのである。
 多くの人はイエス様に「地上の救い主」としてのキリストを求め、弟子も群集たちも地上のことしか念頭にない。報いも、人々からの栄誉や金銭的に富むことなどばかりを求めている。しかし、主がここで語り、与えたいと願ったのは、天上の祝福、ただそれだけで、天の報酬、御国の慰め、主が弟子に与えたいものとは――御国の世界に弟子たちを歩ませたい、というそういうものを願っておられる。
 人々がイエス様の元にきて何かがもらえる、イエス様の元に行けば何かが見られる、何かが聞けるという、そのようなイエス様が本当に与えようとしているものではないなかから――正しい信仰によって近づくものでないなかから求める――そのような地のメシアを求めることしかできなかった群衆を前にして、そのとき、イエス様は神が本当に人々に与えようと願われた「神のこころ」そのものを弟子たちに与えようとされた。それがこの場面である。
 

マタイ4:24−5:2
4:24 イエスのうわさはシリヤ全体に広まった。それで、人々は、さまざまの病気と痛みに苦しむ病人、悪霊につかれた人、てんかん持ちや、中風の者などをみな、みもとに連れて来た。イエスは彼らをお直しになった。
4:25 こうしてガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤおよびヨルダンの向こう岸から大ぜいの群衆がイエスにつき従った。
5:1 この群衆を見て、イエスは山に登り、おすわりになると、弟子たちがみもとに来た。
5:2 そこで、イエスは口を開き、彼らに教えて、言われた。

 イエス様は弟子たちに「あなた方が、神さまが見ている御国の世界を歩むように」「あなたがたが天の父が持っておられる御思いを持って生きるように」あるいはまたそう願うように、と語られていく。イエス様が与えたいのはただ天上の祝福だけであって、ご自身を彼らに与えたい、ご自身を彼らに示したいとされるのは、人々が求めてやってくるような地上のメシアとしてではなく天上のメシアとしてであったから、本当の意味でキリストご自身を求めさせたいと人々に願われているわけである。
 こうした理解の下でイエス様の宣教に目を当ててみると、主は汚れた霊につかれた人が「あなたは神の子だ、あなたは神の聖者です」と叫ぶことをお許しにならない、あるいはまた、いやしや奇跡をして本当に悩んでいる人をあわれみによって助けられても多くの場合、堅く口止めしてこのことを言いふらさないようにされる。イエスさまの宣教はむろんその御業により、みことばにより、ご自身がキリストであることをお示しになるが、宣教の言葉として「私はキリストなんだ」という宣伝的な言い回しを持って人々に宣言して回るというようなことはされなかった。(ユダヤ人の中にはあなたがキリストならはっきりそう言ってください、という人もいた)こういうイエス様の活動された姿の中には、彼らに本当の意味で、「キリスト」をイエス様に対して求めさせたい――地のメシアでない本当の意味のキリストを求めさせたいと願われた理由がここにあるという理解ができる。
 このようにして、イエス様はヨハネが捕らえられた後、その宣教の中で、人が、キリストに対して一体何を求めなければならないか、ということを注意深くメッセージされている。このことは、言い換えれば「神は人々に何を与えようとされているのか」ということである。――それこそ、イエス様がここで言われた山上のメッセージに示されるのである。
 人がキリストに対して求めるべきもの、すなわち、神が何を人間に与えたいと望まれているか、これこそまさに、山上のテーマである「神(キリスト)の心をもって生きるいのち」である。

ルカ6:35 表現がわかりやすいので同じ山上の垂訓をルカ福音書から見てみたい。
6:35 ただ、自分の敵を愛しなさい。彼らによくしてやり、返してもらうことを考えずに貸しなさい。そうすれば、あなたがたの受ける報いはすばらしく、あなたがたは、いと高き方の子どもになれます。なぜなら、いと高き方は、恩知らずの悪人にも、あわれみ深いからです。
6:36 あなたがたの天の父があわれみ深いように、あなたがたも、あわれみ深くしなさい。

 これは、山上のメッセージの一節である。
ここに神の心が示されている。神はこのような方である。神はこのように哀れみ深い方である。だから、天の父がその御心を持っておられる如く、あなた方もその御心を持つように、とイエス様はおっしゃられたのである。
 私たちはこの言葉を聞いてどのように感じるだろうか。何故、山上でイエス様は完全な父なる神さまの在り方を私たち人間に要求なさるのだろうか、と思うだろうか。もし、そのように思うなら、私たちには主のみ思いを考えたときに疑惑、疑問でしかない。

同じルカ6:40に
6:40 弟子は師以上には出られません。しかし十分訓練を受けた者はみな、自分の師ぐらいにはなるのです。
とある。
  この言葉は精神的意味の内容であろう。ここで、弟子と師の関係を考えたときに、それは、信頼関係であったり、主従関係であったり、技術の継承であったり、様々な面が考えられる。確かにそのようなことで子弟の関係を表すことはありうる。しかし、師弟の関わりを最も言い表すものは、「弟子が師の心を得る」こと以上に師弟のあいだを物語るものはないと思われる。「師の心を何者が受け継ぐだろうか――」ここにこそ、弟子と師の存在する大きな意義がある。古代哲学の繁栄した時代に、師と弟子と呼ばれる者たちの繋がりを想像してみても分かるだろう。有名な哲学者たちを生んだかの時代も、哲学者たちはそれぞれ自分の弟子を持っていた。弟子と師の関係を物語るときその哲学思想を継承していくのは弟子たちである。その哲学思想とは紛れもなく師なる哲学者の心に他ならない。ユダヤ世界の中にもラビと呼ばれる律法の最高位学者がいる。彼らも弟子を持ち、その聖書解釈や精神を教えていた。当時バプテスマのヨハネもまた弟子を持っている。この弟子と師を物語る関係とは、精神的意味――「いかに師のこころを受け継ぐか」ということである。
 イエス様はそのように師の心、すなわち、キリストの心――父なる神のこころを、弟子たるものが受け継ぐことをさして師弟の関係を物語るのである。

 また6:35ではこう言われる。
 6:35 ――そうすれば、あなたがたの受ける報いはすばらしく、あなたがたは、いと高き方の子どもになれます。――
そうすれば、いと高き方の子供になれます。といっている。ここでも同じことが言える。
 もし、父と子が正常な尊厳の関係であるとすれば、子は父の思いを自分の思いとして抱く存在であろう。父のこころを持つ――それが、聖書で言っている神の子である。まさにイエス様というお方を考えたときに、御子、イエス様は、その意味で100パーセント完全に父のみこころがご自分の心を支配したひとり子であったということが言える。

 そして、山上でイエス様が弟子たちに与えようとしていたこと――「あなた方は、天の父が哀れみ深いから、あなた方も哀れみ深くありなさい」「――そうすれば、いと高き方の子供になれます」また「しかし十分訓練を受けた者はみな、自分の師ぐらいにはなる」とこの関係を語られていくとき、イエス様が完全に父のみこころがご自分の心を支配しておられた神の御子であったように、まさに山上の垂訓で弟子たちに何を与えようとしておられたか、それこそ、神の心を持って生きることであった。
 イエス様が人々に与えたいと願われたもの、とは、山上で示されていたこと――御国の子として生きるいのちそのものだったわけである。十字架の光に照らして個人的にとらえようとするなら、それは主御自身を与えようとされたキリストの命である。 (※1)

 クリスチャンである我々は良く聞いているところのメッセージである。このいのち(の躍動)は、イエス様を信じるもの、従う者に内在される聖霊の働きである。書簡は様々に語っている。そして父の心、神の心を持って生きることは、神の子としての特権――子としての姿である。

 第Tコリント2:6−16 
 ここに、イエス様が山上で語られ、伝えようとされていたことの現れを示す具体的な表現がある。

▼2:6 しかし私たちは、成人の間で、知恵を語ります。この知恵は、この世の知恵でもなく、この世の過ぎ去って行く支配者たちの知恵でもありません。
▼2:7 私たちの語るのは、隠された奥義としての神の知恵であって、それは、神が、私たちの栄光のために、世界の始まる前から、あらかじめ定められたものです。
2:8 この知恵を、この世の支配者たちは、だれひとりとして悟りませんでした。もし悟っていたら、栄光の主を十字架につけはしなかったでしょう。
2:9 まさしく、聖書に書いてあるとおりです。「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮んだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」
▼2:10 神はこれを、御霊によって私たちに啓示されたのです。御霊はすべてのことを探り、神の深みにまで及ばれるからです。
▼2:11 いったい、人の心のことは、その人のうちにある霊のほかに、だれが知っているでしょう。同じように、神のみこころのことは、神の御霊のほかにはだれも知りません。
▼2:12 ところで、私たちは、この世の霊を受けたのではなく、神の御霊を受けました。それは、恵みによって神から私たちに賜わったものを、私たちが知るためです。
2:13 この賜物について話すには、人の知恵に教えられたことばを用いず、御霊に教えられたことばを用います。その御霊のことばをもって御霊のことを解くのです。
2:14 生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらは彼には愚かなことだからです。また、それを悟ることができません。なぜなら、御霊のことは御霊によってわきまえるものだからです。
2:15 御霊を受けている人は、すべてのことをわきまえますが、自分はだれによってもわきまえられません。
▼2:16 いったい、「だれが主のみこころを知り、主を導くことができたか。」ところが、私たちには、キリストの心があるのです。

 ここに聖霊が与えられるという神の賜物――クリスチャンの、神の子供としての姿をパウロは描いている。それこそまさにイエス様が山上の垂訓を持って弟子たちに語られ与えようとしておられた神の心そのものである。――神のみ心のことは御霊のほか誰も知りません。私たちはこの世の霊ではなく御霊をうけた。恵みによって神から私たちに賜ったものと、パウロは語る。これこそ私たちにはキリストの心があるという、その「キリストのこころ」なのである。

イエス様は山上で弟子たちにこのことを語られていた。だからこそ、イエス・キリストの教えは驚くべき教えであり権威に満ちていたのである。(マタイ7:28,29)人々は今までに聞いたことのない神のみ教えを聞くことができたわけである。

 そこで先ほどの話に戻って考える。

 山上で主イエス様はなぜ父なる神様のあり方を人間に要求なさったのであろうか。
「あなた方は天の父が完全なように完全でありなさい」といわれるとき、私たちは、先ほど神の心を与えようとなさる主のみ思いを覚えた。しかし、もし私たちがイエス様が与えようとしておられる御心を見ないでイエスキリストの言葉を捕らえていくならイエス様の言葉は不可解な言葉で終わってしまう。一つ一つの命令と思われるようなイエス様のこの言葉を、もし、イエス様の心を理解しようとする心をもたずして捕らえていったら、いくつかに主のみことばを解釈することになる。

・地上に住む私たち人間ごときが天の神がかくある方であるから同じような水準を持てというのは無理難題というものである ――このような理解を持って聞くこともあるだろう。
・あるいは、神は私たちの罪深さを指摘するために、人間には到底実践不可能な神の義を主張しておられるのだ ――そのよう見方をすることがあるかもしれない。
・あるいはまた、私たちは神の子と呼ばれるために、これらのことを実践するよう努力し目標としなければならない。

 これらのとらえ方をする中には、イエス・キリストの心、イエス様が私たちに語ろうとしておられる御思いを度外視している捕らえ方である。だから、そのような姿勢のうちにおいては、いずれにおいてもイエス・キリストの言葉を無力化してしまっている。かつて、モーセの与えた旧約の律法が私たちの罪を認識させたとパウロは信仰者に語った。イエス・キリストの言葉も命令もそのような過ぎ去った時代の中に区分される教えとして捕らえ、ユダヤ人の囚われた律法の水準でしか聞くことができないのなら、そこに主のことばは空文化されてしまう。ここで、イエス様は過ぎ去ったものとして弟子たちに与えられているのではない。
 もし、私たちがイエス・キリストの語られる御思いを知ろうとする思いなしに主の言葉を捕らえていこうとするなら、たとえそれが神のただ一人子である方の み言葉でさえも、文字と化した旧約の律法主義的律法と違わないという結果を生む。
 同じように、私たちがいまなおモーセの与えた旧約の律法を神の御心を知ろうとする思いなしに捕らえているとしたら、その旧約の律法も律法主義的律法であって石の文字に過ぎない。

 エレミヤという預言者は、主が私たちの内にきて実現されるインマヌエルの救いを次のように預言している。

エレミヤ書31:33
31:33 彼らの時代の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうだ。・・主の御告げ。・・わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。
31:34 そのようにして、人々はもはや、『主を知れ。』と言って、おのおの互いに教えない。それは、彼らがみな、身分の低い者から高い者まで、わたしを知るからだ。・・主の御告げ。・・わたしは彼らの咎を赦し、彼らの罪を二度と思い出さないからだ。」

 わたしの律法を彼らの中に置き、心に書きしるす。彼らがわたしを知るからだ――と仰せられた。そしてそれは彼らの罪を赦すという神の愛のゆえに、赦しのゆえに、哀れみのゆえに。

 イエス様の山上で語られたみことばは、神のみ心を私たちが持つように願われた御思いであった。そして父はこのような方――このようなみこころをもっておられる。だから、あなたがたはそのようにあれ。父が哀れみ深い方であるから。愛なるお方であるから。それは、神の愛のみ心に他ならない。だから「あなた方は、天の父が哀れみ深いゆえに、あなた方も哀れみ深くありなさい」とイエス様は言われたのである。
イエス・キリストは近づく弟子たちに山上でこの神のみ心を示して与えることを願われた。
これはイエス・キリストに救われたもの、愛されたもの、赦されたものが、師の心を受け継ぐ弟子として、また父の子どもとして生きるためである。
 神の心を持って生きるという主の御思いを与えられたこの光景は、キリストが私たちの間にきてくださり、インマヌエルの救いとなられたイエス・キリストが、弱きもの、小さきもの、貧しきものの手を取り悩みや痛み、罪の重荷に苦しんでいる者達のすべての重荷を、イエス・キリストがご自分の身に負って私たちの間で愛と哀れみを示してくださっているさなかのできごとであるのだ。
 人々はガリラヤ全土から主のみ元に寄ってくる。病人や悩み苦しむ者、悪霊に支配されている者、そのような者たちがイエス様のみ元にやってくる。イエス様はそのような人々の間にあって山上で語られる。主が山から降りられるとすぐ、らい病人は私を哀れんでくださいと懇願するのである。
イエス様の山上のメッセージはこのように神の愛・哀れみが実現している悩む者 心の貧しきも者を愛し、赦し、御自分がその身に人々の重荷を担うというさなかで語られている神のみ心なのである。
 ここに、エレミヤがキリストの救いを見たインマヌエルの預言の実現がある。・・わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。・・身分の低い者から高い者まで、わたしを知るからだ。・・わたしは彼らの咎を赦し、彼らの罪を二度と思い出さないからだ。

 また、預言者マラキはこのように語っている。

マラキ書4:4
4:4あなたがたは、わたしのしもべモーセの律法を記憶せよ。それは、ホレブで、イスラエル全体のために、わたしが彼に命じたおきてと定めである。
4:5 見よ。わたしは、主の大いなる恐ろしい日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす。
4:6 彼は、父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせる。それは、わたしが来て、のろいでこの地を打ち滅ぼさないためだ。」

 預言者エリヤを遣わす。彼は、父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせる。イエス様はおっしゃった。「もし、人々が進んで受け入れるのなら、この人(バプテスマのヨハネ)こそ来るべきエリヤなのです。」――実際に、彼は荒野に来て、御国の前触れとして悔い改めを説いたのであった。ヨハネは人々が彼らの心を神に向けるように呼ばわった。父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせるために遣わされた預言者なのである。人々の間にイエス様が来て、神ご自身の心を子に与えようとされるときに、ヨハネはイエス・キリストのみ前に先立ち、人々がイエス様から神の心をいただく為に、彼らの心が父なる神に向けられるための道備えとしての使命が託されていたのである。バプテスマのヨハネの後に来る方は自ら神の心を与えたもうことを願われたのである。それは預言者エレミヤが語るように贖いの十字架のみ業をもって語られる神の子としてのみこころを与えられる。それゆえ、ヨハネは「私より後にくる方」のくつの紐を解く値打ちすらないとこの方を証しした。

 ユダヤ人はこのバプテスマのヨハネを受け入れなかった。メシアの先駆者を受け入れることがないのは、イエス・キリストを受け入れ得ない人間の姿である。ただ、イエス様を受け入れ、知った人々は貧しきもの、弱きもの、小さきもの、自らの罪に苦しむものであった。
 このような現状があったときに、イエス様は山上でご自分の元によってくる弟子たち、近づく人たちに対して、「あなた方は渇きのために打ちひしがれている。しかし、本当に乾いてわたしのもとに来るそのような者は幸いである。天のみ国はその人のものなのだから」と語られていくのである。
 それは主の臨在のさなかで赦されたものにこそ語られる、愛された者の弟子として、神の子としての特権的姿である。


 キリスト者は信仰によって十字架の救いをもって語られる主の愛の中に憩う。復活の主イエスが神の御霊を通して私たちに神のみ心を与えるからである。私たちは主の哀れみの只中でまた、かくも大いなる恵みのみことば――山上のみ心を聞くことができる。

 イスラエルの中で働かれる壮大な神のご計画が旧約の預言者たちを通して預言されてきた。また、書簡をもってキリスト者の受けた恵みの立場が説明されていく。これらの中心となるものはイエス・キリストが人々に語られていくメッセージ、主が人々に与えようとしておられたものである。今回、主イエス様が山上で語られたことをうけて、それを書簡や預言書が立体的に証しし、これまで預言してきたみことばをもって、そのことが成就されていることの実際をともに覚えることができた。

 どうか、私たち一人一人が主のみ顔を仰ぎ見、山上の垂訓に示されていく主のみ思いに心を留めることができますように。

 

(1) 御国の子として生きる命はキリストの命である。その命の姿は山上の説教に表される。その与えられる命とは単にイエスの説教だった、ということではない。キリストの十字架によって流された血潮に基づいて捉えうる命である。十字架のキリストの購いなしに人は御国の子とされることはない。言い換えるなら、キリストの十字架によって流される血潮を 受け、キリストの命を受けることなしに、神の心を受けることはできない。なぜなら、人は神との和解なしに神の心を受けることは決してできないからである。人は本来神に敵対している。罪ある私たちは決して神の心を受けることはできない。罪深い私たちは神の前におびえ隠れる存在である。神の心を受け、子とされるというそれはキリストによってこそ与えられる命であり、キリストの救いによって癒され、赦され、神との和解を得るときにはじめて、その者の内にあらわされるものである。では、山上のこの光景はなんだったたろうか。それは子達の罪を赦し、罪深いもの、病むものたちを癒し、ご自分の御元に救いと赦しをもって招かれる主キリストの神に赦されたものにこそ語られる子たちへの語り掛けである。主は赦し てくださる。主は哀れな罪びとを招いておられる。「あなた方は今は悲しんでいる。しかし、そのものは幸いである。私の元に来るものは慰めを得るであろう。」 −−インマヌエルの主の御元には癒しがある。まさに山上で語られていたそのとき、赦し主・救い主・癒し主なる主のみ姿が人々の只中にあった。そこに、旧約の時代から語り継いできたメシアなるインマヌエルの主の姿があるのを見出すだろう。救いの主が 人々の只中におられた。癒しが、救いが、赦しがそこにはあった。「彼らの罪は二度と思い出されないからだ」・・・その先にはキリストの十字架がある。そのようにして赦された者にこそ語られる子たちへの語りかけが山上で示された。
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