編集者による−『文意研究』

N.Hiraoka

ヨハネ伝のラザロの奇跡の記事で、マルタとマリヤが主に語った言葉にニュアンス的な違いがあるのかどうか検討してみる。

・マルタの言葉
 ヨハネ11:21  もしあなたがここにいてくださったならば、私の兄弟は死ななかった(οωκ αν ετεθνηκει)でしょうに
・マリヤの言葉
 ヨハネ11:32  もしあなたがここにいてくださったならば、私の兄弟は死ななかった(οωκ αν απεθανε)でしょうに

「もしあなたがここにいてくださったならば」までは原文も英語も同じ表現となっている。その後に続く「しななかったでしょうに」に違いがある。
辞書ではどちらも「死ぬ」で、英語でもどちらも「Would not have died」であるが、微妙なニュアンスの違いがあるような気がするのは否めない。

訴えるニュアンスに違いがあるとすれば、まずは彼女たちの言葉そのものに違いがあるのかどうかを理解したい。

こういうことらしい。

(マルタの言葉)
ετεθνηκει→θνησκω
http://bible.crosswalk.com/Lexicons/Greek/grk.cgi?number=2348&version=kjv
1. 死ぬこと、死んでしまうこと
2. <比喩> 霊的に死ぬこと

(マリヤの言葉)
απεθανε→αποθνησκω
http://bible.crosswalk.com/Lexicons/Greek/grk.cgi?number=599&version=kjv
1. 死ぬこと
a. 人の自然死
b. 人または動物の変死
c. 何かの手段で死滅すること
d. 干上がった木、植えたときに腐敗した種
e. 永遠の死、地獄で永遠の苦しみを受けること

 岩隈直氏の新約ギリシャ語辞典と逆引辞典とで引用例を見比べることは出来るが、それらが表している意味を読み取っても、ここでヨハネ伝が原語を使い分けた意図がどうしても分かりにくい。日・英の聖書翻訳者がそうしたように、ギリシャ語の用法・単語意味的にもマルタとマリヤの言葉は「同一の意」なのか。それとも言語の使いわけに意味があるのか。
もし、両者の違いが「θνησκω」と「αποθνησκω」との違い、すなわち「απο」に含まれる語意に依存するなら、αποに含まれる意味の中の「原因・理由」的な意が「死ななかった」という文意の中に含まれてくるのかもしれない。

マルタの言葉が「主が居て下さったら救われた(死ななかった)」=「主なら癒してくださる力がある」というのに対して、マリヤの言葉は「主が居てくださらなかったので、死ぬことになった(生きることが出来なかった)」=「主でなければ生きられない」という強い依存的信頼を感じさせる意味の違いがあるともいえるのではないか。

−意訳にはっきりとした違いを感じることは困難であるが、いずれにしても言語の使い分けの事実はある。引き続き留意して読んでいくことにする。−