福音集会 速記メモ

鈴ヶ峰 キリスト 福音館

20031026日(日)

 

(司会)

信仰ということは、まだ見ていない事実を確信するものであると記されている。
まだ見ていない事実を確認するとは、肉の目で見ることのできない神の現実を知ることである。
対象を無視した信じる心の強さが貴いのではなく、信仰とは生ける神に対する信仰であって、信仰の対象の神に力がある。
神を信じていない人の信心は無意味である。今私たちは、まことの神様に対する信仰を抱くのである。だから、神は確かに私たちに応えてくださる。期待して主を仰ぎたいと思います。


(メッセージ1)

――純粋な信仰――

信仰を持って神の前に出るということを司会の方によって覚えさせられた。
私たちの言う日本人の信仰と聖書の言っている信仰とはだいぶ違うのではないだろうか。
私たちが単に信じたというのと、神が私たちに求める信仰とは、違う。神様が聖書で言われている神のみことばを素直に信じることが必要なのだと思う。
だれも見ていなくても、私たちは悪いことをしてはいけないと思うだろう。これは自分の良心にある程度の基準を持っているためである。しかし、その基準は時として狂うことがある。人のものをとったり、悪いことをしたりすることがありうる。それは、人の生活の状況や精神状態によって判断基準があいまいになったりすることによることにも原因がある。
人の良心は神が私たちに秩序として与えたものであるが、しかし、善悪の判断基準は人との相対関係でするものではなく、また生活の環境によって作用されるものではない。その意味で神が求めている信仰も私たちの自分本位な知り方で神を受け入れたり知ることではなく、信仰とは神に対する誠実・忠実によって歩むことによって、そのとき神が私たちに求められた姿が表される。
神に対して純真に生きることが出来るなら、その人は神に対して平安に生きることが出来るだろう。

マグダラのマリヤは主に純粋な香油を注いだ女性である。彼女の純粋な香油を捧げた純粋とはピスティコスという原語である。この原語は信仰(ピスティス)ということばと同じ語源である。彼女の捧げた香油は純粋であり、それは純粋な主に対する心、すなわち混じりけの無い信仰を示している。
マリヤが弟子たちに責められたとき、主は「マリヤを責めてはならない」と弟子たちを戒められた。彼女は純粋な香油を同じその純粋な心・信仰で主に捧げたからである。それは人が出来る最も価値ある行為である。主はそれを受けてくださった。
十字架の前にイエス御自身のために注いだ純粋な心を、彼女の行為は全世界で福音が述べ伝えられるところで記念として語られるようになる、とそのように主は言われた。
信仰ということばのなかには、純粋・忠実とおなじ語源(ギリシャ語)が示されるなら、私たちの信仰のあるべき質というものを学ぶことが出来る。
混じりけの無い香油は人が捧げることの出来る、主の喜ばれる行為である。まっすぐな思いと忠実なこころで主に仕えることを主は望まれている。

ルカ伝で、百人隊長のしもべを癒される記事がかかれてあるが、そこで、しもべを癒してもらうようにイエス様に頼んだとき、百人隊長は、ユダヤ人の長老を遣わした。ユダヤ人の長老はイエス様に「あの人(百人隊長)はあなたに治してもらう資格のあるひとです」と言って頼んだ。だが、実際、主に対して恵みをいただくのに何の故に資格があるといえるだろう。しかし、それでも主は行って直してあげよう、と言われた。主が向かわれるとき、途中で百人隊長は「先生を自分の屋根の下にお入れする資格はありません。(あなたは神の子で)権威あるかただから、おことばだけをください。そうすれば癒される。」という信仰を表した。その彼の信仰に対して、主は「その信仰のとおりになれ」と語られる。そのとき、彼のしもべは癒された。
百人隊長の「おことばだけをください」と言った主の権威の前にへりくだる信仰は、イエスの(神の子としての)権威・主権を認めたものの告白である。彼の生き方は誠実であった。イエスを求めた姿勢もまた誠実であった。彼の信仰をイエス様は「このような信仰はイスラエルのなかでだれにも見たことがな
い」と賞賛された。誠実に神を求める姿勢を彼に対して評価されたのである。それは混じりけの無い純粋な信仰である。

信仰とは望んでいる事柄を保証し、目に見えないことを確信させるものだ、と書いてある。
(いま、あちらの机の方で、無線のパソコンでこのメッセージをやり取りしているが、この電波もひとには見えない。私たちは今知識があるから電波があることをしっているが、しかし、見えなくてもそれは事実に存在している。)
イエス様に対する真実については、私たちは信仰の目によって見るのである。

イザヤ書62章「」
これは、直接的にはシオンに対するメッセージである。
4節「」
今朝の学びと同じ視点がある。

花婿であるキリストが花嫁である聖徒を喜ぶ。この関係に私たちは置かれている。
このとき、人は自分のためではなく、神の御心のために生きたいと願うようになる。これは正常な主との関係である。おのずと、そのひとは豊かに祝福される。
神様は私たちにどれほど誠実で純粋な信仰を求めているかが分かると思う。
これからバプテスマを受けて従いたいという告白を聞くとき、その中にあって私たちひとりひとりも祝福される。
私たちはキリストが愛しておられるように兄弟姉妹を愛することができる。それは、そのひとが主に対する純粋な信仰を持つからである。
だから、私したちはイエス様に対するまっすぐな信仰をもつようになりたいと思う。
与えられた信仰をもって、御霊の助けによって信仰から信仰へと歩みたいと思う。


(メッセージ2:入力省略)