福音・学び 概要

鈴ヶ峰 キリスト 福音館

20031228日(日)

神の義と裁き

 

ローマ書 11章22節
11:22 見てごらんなさい。神のいつくしみときびしさを。倒れた者の上にあるのは、きびしさです。あなたの上にあるのは、神のいつくしみです。ただし、あなたがそのいつくしみの中にとどまっていればであって、そうでなければ、あなたも切り落とされるのです。

 ここには神の厳しい言葉が記されている。神様についての真理を見るなら、聖書はいつでも二つのことを語っている。一つは神の愛である。神御自身の命を投げ出すまでに私たちを愛してくださった。これが神についての大きな真理の一つである。もう一つは神の義・神の正しさである。神が正しさを示さないで、神の愛を語ることは無い。神の義を土台にしない愛は成り立たないのである。その意味で私たちは聖書の中に神の愛を強調して学ぶのであるが、神の義について正しく理解するのでなければ神の愛がまがい物になってしまうことさえありうる。
神の義を覚えるなら、必然的に神の愛の深みというものが分かってくるだろう。
22節は口語訳ではこうある。「神の慈愛と峻厳とを見よ。神の峻厳は倒れたものたちに向けられ、神の慈愛は、もしあなた方がその慈愛に留まっているならあなたに向けられる。そうでないとあなたも切り取られるであろう

 神の義とは一点の曇りも無い正しさである。私たちの義とは、時に情によって左右される。情状酌量という言葉がある。「あなたには罪がある。でも、あなたがそのように罪を犯したのもいろんな理由がありやむをえなかったですね。だから、このたびのさばきについては罪があるが相当の罪をさばかれる必要は無い」という判決が下されることがある。そこには、罪を覆ってしまい、罪を罪として裁くのに猶予してあげようというニュアンスがある。
 しかし、一方、神の義・神の正しさ・神の裁きとは一点の情状酌量というものの無い世界である。それは、愛が神御自身の本質であると同様に、神の義も神の本質そのものであるからだ。だから、その本質のゆえに罪あるものをそのまま赦すことは出来ないのである。
 それゆえ、神の裁きというものをみるとき、レビ記10:1−2に、その厳粛な光景を見ることが出来る。

 祭司アロンに二人の息子がいた。その息子二人は神が指名し、定めていたにもかかわらず異なった火を神の前に捧げたのである。そのとき、天から火が下されて彼らはたちどころに焼き殺されてしまった。彼らは神によって指名されたささげものを侮った心で自分勝手な火を捧げたのである。神はそのものを決して赦すことはできず、「神に近づくものによって私は神の聖をあらわす」といわれたのであった。ここに人間の侮りが神の業を左右させることは決して無いということが分かる。神は罰すべきものを罰する。これが神の義である。だから、当時の人たちは神の名を聞くときに神の正しさ・義について真っ先に覚えたはずである。
ヘブル12:18には、このようにある。

ヘブル書 12章18節-21節
12:18 あなたがたは、手でさわれる山、燃える火、黒雲、暗やみ、あらし、
12:19 ラッパの響き、ことばのとどろきに近づいているのではありません。このとどろきは、これを聞いた者たちが、それ以上一言も加えてもらいたくないと願ったものです。
12:20 彼らは、「たとい、獣でも、山に触れるものは石で打ち殺されなければならない。」というその命令に耐えることができなかったのです。
12:21 また、その光景があまり恐ろしかったので、モーセは、「私は恐れて、震える。」と言いました。

 

 さきほどのローマ書にあった「神のいつくしみときびしさを。倒れた者の上にあるのは、きびしさです。」というこのことばの実物教訓はユダヤ民族ではないかと思う。

 ユダヤ民族は神の愛と恵みの言葉を多くの預言者たちを通して何度も何度も聞きながら、彼らは自分の意志ではっきりと拒んだ民族である。ついにはご自分の民の中に来られたイエス・キリストに対して十字架につけろ、十字架につけろと叫んだ民族である。彼らを通して神は御自身の義がいかなるものかを今に至るまで私たちにメッセージとして語っておられるのではないだろうか。
 第二次世界大戦ではナチスのヒトラーによって何百万もの人たちが殺されていった。そのとき、あの申命記の中に記されている預言がまさにそのとおりに起こったことをしることができる。
 彼らは牢に入れられながら、そこでは子供が引きずり出される。そこで親の見ている前でガス室に連れ去られていくのをかれらは見送らなければならなかった心情を察する。
 申命記には「もし、あなた方が神を捨てるなら、朝には、「ああ夕方であればよいのに。」と言い、夕方には、「ああ朝であればよいのに。」と言う。あなたの心が恐れる恐れと、あなたの目が見る光景とのためである。」とある。神を捨てた者たちに対する神の義がいかに厳しいものかということを民族を通してみることが出来る。

 神のさばきについていくつかの代表的な光景を見ることが出来る。一つはノアの時代の裁きである。そしてもう一つはソドムとゴモラの裁きである。
 それらの裁きの共通点・前兆とは「民が罪を犯し、不道徳に満ち、その罪が天にまで上った」ということである。
 ノアの時代、「主は地上に人の悪が増大しその心に計ることがみないつも悪いことに傾くのをご覧になった」。
 ソドムとゴモラの裁きのときは「主は仰せられた。『ソドムとゴモラの叫びは非常に大きく、また彼らの罪はきわめて重い。わたしは下って行って、わたしに届いた叫びどおりに、彼らが実際に行なっているかどうかを見よう。』

 この裁きは、神の義がいかに的確にその語られたとおりに現実となったかということを私たちに知らせる。
 そして、ノアの時代もソドムとゴモラの時代も、その不道徳性、罪の増大が指摘されているが、そのように、現代においてもまた同じような状況がきている。いま私たちの世界は、罪が天にまで昇ろうとしている。そして、遠からず神の裁きのときがくる。

 神のメッセージの中には「救い」というテーマがある。その救いとは何からの救いであろうか。私たちが生活を改良するためだとか、苦難からの癒しだとか、そのようなことを言っているのではなく、本質的・第一義的には「神様の裁きからの救い」を言っている。

創世記 19章12節-17節
19:12 ふたりはロトに言った。「ほかにあなたの身内の者がここにいますか。あなたの婿やあなたの息子、娘、あるいはこの町にいるあなたの身内の者をみな、この場所から連れ出しなさい。
19:13 わたしたちはこの場所を滅ぼそうとしているからです。彼らに対する叫びが主の前で大きくなったので、主はこの町を滅ぼすために、わたしたちを遣わされたのです。」
19:14 そこでロトは出て行き、娘たちをめとった婿たちに告げて言った。「立ってこの場所から出て行きなさい。主がこの町を滅ぼそうとしておられるから。」しかし、彼の婿たちには、それは冗談のように思われた。
19:15 夜が明けるころ、御使いたちはロトを促して言った。「さあ立って、あなたの妻と、ここにいるふたりの娘たちを連れて行きなさい。さもないと、あなたはこの町の咎のために滅ぼし尽くされてしまおう。」
19:16 しかし彼はためらっていた。すると、その人たちは彼の手と彼の妻の手と、ふたりの娘の手をつかんだ。・・主の彼に対するあわれみによる。そして彼らを連れ出し、町の外に置いた。
19:17 彼らを外のほうに連れ出したとき、そのひとりは言った。「いのちがけで逃げなさい。うしろを振り返ってはいけない。この低地のどこででも立ち止まってはならない。山に逃げなさい。さもないと滅ぼされてしまう。」

 ここに神の義とさばきについて私たちに迫るメッセージがある。この語りかけ、警告は「神御自身の裁きから逃れなさい」との警告のメッセージであるのだ。神が救いのメッセージ語るとき、私たちの身には危険が迫っているのである。もし、神が私たちを救おうとされないなら、神の義と裁きを語ることは無かったであろう。しかし、神様は私たちを救おうとなさるからこそ、同時に裁きの現実について大きな声で語りかけられるのである。そこで、私たちは私たちの心を照らし出される。「いのちがけで逃げなさい。うしろを振り返ってはいけない

 私たちは神の言葉に対して侮ってはならない。私たちは神の言葉に対して厳粛に受け止めなければならない。私たちは神があまりにも愛と恵みに富んでおられるお方であるからといって神御自身に対して軽んじやすい者である。
 しかし、神と対峙するときには、神の義と裁きとその救いについて応えるときは命がけで行動を起こさなければならないということである。神が私たちに救いを与えてくださったことは神の真剣そのものである。
 御子イエス・キリストの命さえ与えて私たちを救おうとされた重みは、神の義と裁きを背景にしてみるときにより正確に伝わるであろう。
 神の義とさばきを抜きにして、イエス・キリストの命が捧げてくださったと聞くなら、「ああ、そう」で済む。「勝手にイエス・キリストが命を投げ出して頼みもしないのに信じなさいよ、という。でも信じないより信じたほうがいいか」ということになる。だが私たちの裁きの故に御子イエスの命が捧げられたのは、「滅びに行くより救いに行く方がいいか」という程度の救いではないということである。神御自身の義と裁きが背景にあるからこそ、イエス・キリストの命が捧げられなければ私たちの救いは無かったのである。

 数年前の事件だっただろうか。川の中州で多くの人たちがキャンプをしていた。大雨が降ってきて、警告が発せられた。この川は、今は中州となっているがもうしばらくするなら、この大雨なら増水し浸水するだろう。市と消防の人は何度も何度も説得したという。そのうち何人かは岸にあがって逃れた。しかし、その中の一家族は、その中州でキャンプを開いており、消防の人も説得し、市の関係の人も「ここは危ないから」と説得したが、「私たちの勝ってだ。私は自分の責任でここにいるのだから、いらんことを言うな」という調子で何度もけんか腰で断ったという。そこで市と消防の職員は仕方なしにひき上げた。それから何時間もたたないうちに上流の方から水が押し寄せてきた。上流にはダムがあり、ダムの水門を開かなければ決壊してしまうので流すのである。中洲に取り残され、腰から胸から水かさが増し、何人かは流されまいと抱き合って頑張っていた。しかし、その上から水が押し寄せてついには流されるのであった。そのような光景の全てをテレビは放映していた。その災難を受けた者の中には幼児までもいた。
 しかし、彼らは何も言うことは出来なかったにちがいない。あれだけ度重なる避難勧告を無視してそこに居続けたのであるから、自分自身の責任であると身にしみて分かったはずである。しかし分かったといってもそれでは遅い。何人かは助かったようだが、しかし残る者はみな死んでしまった。

 

 私たちは神の言葉に対してどれだけ厳粛に受け止めているだろうか。神御自身が命をかけて語ってくださったことに対して、いいかげんな心、侮りの心で神の言葉を受け取るなら、私たちは神様の真意についてほとんど理解することが出来ないのではないかと思う。神御自身が命をかけて語ってくださった言葉に対しては私たちは命をかけてその言葉に応えるべきである。この言葉は真剣である。

 「いのちがけで逃げなさい。うしろを振り返ってはいけない。この低地のどこででも立ち止まってはならない。山に逃げなさい。さもないと滅ぼされてしまう。

 私たちがイエス・キリストの命の代価をもって救われたという厳粛な事実は変わらない。しかし、私たちが滅びないからといって神の厳粛な事実がいささかも低減することはない。
 「見よ、神の慈愛と峻厳とを」この言葉の中にある、いつくしみの中にある真剣さを受け止めなければならないのではないかと思う。私たちが命がけて応えるなら、神御自身は命がけで恵みの全てを見せようとしておられのではないかと思う。