御国の完成に関する黙想
鈴ヶ峰キリスト福音館
Message by Nobumasa.H
2025.12.20-2026.1.23
―創世の第2日目 大空の上の水と下の水―
創世記1章6節~8節
神は仰せられた。「大空が水の真っただ中にあれ。水と水との間に区別があれ。」
神は大空を造り、大空の下の水と、大空の上の水とを区別された。そのようになった。
神は大空を天と名づけられた。夕があり、朝があった。第二日。
Ⅰ. 第二日目の創造と「大空(רָקִיעַ raqia ラキア:大空・広がり)」
創世記第二日目には、神が「大空(רָקִיעַ ラキア)」を造り、上の水と下の水を分け、大空を「天」と名づける場面です。
神は、すべてが水である世界に対し上下に分けられました。上の水は、空の下ではないため雲や雨のことである、と言い切るだけでは説明できません。地上的なものではない天上的な領域を考えることになります。象徴としての意味を捉えるなら、天的領域としての神の側の領域についての関係性を黙想します。すなわち、神の支配、秩序、神の命の源、神の働きの源・・・祝福の源泉であったり、後に聖書が語る「上からのもの」と区別されるものの原型です。
Ⅱ.水(מַיִםmayimマイム:水)の存在と御言葉の関係
水は初めから存在しています(2節)。被造物として登場しませんでした。(※補足1)
「初めからあったもの」、これは、「はじめに言葉があった」(ヨハネ1:1)というヨハネ福音書の書き出しに紹介されるロゴスと同じ態様です。水はしばしば聖書では神の言葉を象徴しますが、ここでも、そのことについて洞察する必要があります。ペテロの手紙には「この世界は水によって、みことばによって成った」と証しされています(Ⅱペテロ3:5)。ここでのことばは、神の創造の言葉、神の約束の言葉、神のみことば(דָּבָר dābārダバル)です。
水は、いのちを与えるものであり、形作るものであり、神の働きの媒体であり、創造の初めとともに存在する創造の素材のように描かれます。神の御計画・意志(ロゴス)が初めに存在しているときに、水は形を持たず区別されない世界の中に存在しています。そのなかで、第一日目に主は「光があれ」と宣言し、光がありました。そして、第2日目に神の御意志・みことばは、世界の創造のすべてを形作る設定、前段階を備えられました。神のご目的に向けた御計画を備え整えられました。
Ⅲ.下の水と上の水の象徴的意味
このように考えると、下の水とは、地に現れた御言葉(成就したもの)であり、地上に現れた御言葉とは、実際に受けている祝福、神の創造の形が現れている領域、約束がすでに形となったもの、見える世界における御言葉の成就(דָּבָר dābārダバル:言葉・出来事)として捉えることができます。
第三日目には、下の水が集められ、地が現れ、地が実を結ぶことになります。つまり、下の水は、みことばが「形」として顕れた世界の様相です。そして、上の水は、御言葉の源、成就前の領域、そしてまた、天上の蓄えです。すでに存在するが、地には現れていないもの、天上に属する領域であり、御言葉の源泉、祝福の蓄え、成就前の約束の領域を指すものであり、御言葉の「天的形態」を象徴します。それは、まだ地に降りていない祝福であり、神の側に隠されている完成形です。天においては成就済みのもの(地では未成就)であり、「上から来るもの」の源泉です。つまり、創造において、第二日目は、御言葉の「天的形態」と「地的形態」が区別されました。このことは、創造の構造そのものが御子キリストに収束することを意味しています。天にあるもの、すでに完成しているもの、神の側に蓄えられたもの、まだ地に現れていないもの。これらはすべて、「キリストのうちに隠されているもの」(コロサイ2:3)として語られます。「地にあるもの」とは、キリストによって現れた成就です。地に現れた御言葉、形となった祝福、神の創造の実際の現れ、すでに成就したものとして、キリストによって地に現れたものです。
エペソ1章10節「時が満ちるにしたがって実現される御計画とは、天にあるものも地にあるものも一切のものが、キリストにあって一つに集められることです」
コロサイ1章16–17節 「万物は御子によって造られ、御子のために造られた。万物は御子にあって成り立っている」
ヨハネ1章14節 「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた」
これは、天にある御言葉(上の水)と、地に現れる御言葉の成就(下の水)という二重構造が、キリストにおいて結び合わされるという創世記の構造の成就です。
ヨハネ3章31節 「上から来られる方は、すべての上におられる」
ピリピ2章10節 「天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるものが、すべてイエスの御名にひざをかがめる」と語ります。
(「地の下にあるもの」は、深淵・死者の領域においてなお残るキリストの憐れみの現われとしての希望を考えることにつながります。「地の下にあるもの」は、ノアの日に深淵の源が裂けたように、キリストの主権が裁きと憐みの両側面において、死者の領域にまで及ぶことを示す象徴として黙想できます。この深淵の領域に、キリストは降られ、「ノアの日に従わなかった囚われの霊たち」に宣べ伝えられた(Ⅰペテロ3:19–20)とペテロは証ししました。
→ (補足.2))
これらのみことばは、世界の創造のはじめに、上の水と下の水とに分けられたように、キリストにある新しい創造の御計画とご目的が、分けられた上の水である天に蓄えられた御言葉と、下の水である地に現れた御言葉の成就とが、やがて、キリストにおいて完成・統合することを示しています。なぜなら、キリストの日は、ノアの日になぞらえられるからです。
Ⅳ.ノアの日とキリストの日の関係
主自身が語られたように、「ノアの日」は「人の子の現れの日」の型となっています。その日には、天にあるものが地に現れます。ノアの日には、上の水(天の窓)が開き、下の水(深淵の源)が裂けました。天上の水と地の水との両面において、天にあるものと地にあるものが主の日に地上にはっきりと表れでて、この世に裁きと救いが同時に現れました。
キリストの日には、天に置かれた御子(の栄光)が現れ、天に蓄えられた救い・裁き・栄光が地に下ります(「神の御使いたちが人の子の上を上り下りする」(ヨハネ1:51))。天にあるものと地にあるものがキリストにあって合わされ、創造の二重構造が完成へと統合されます。キリストの日とは天的完成形が地に現れるときです。
ノアの日も、キリストの日も、救いと裁きが同じ出来事の両側面として現れます。このことは来臨の日のみでなく、初臨においてもその通りです。それが、ヨハネ1章の「御言葉は肉となった」ことであり、初めに言葉があった、その方・神の言葉が世に来られ、天にある御言葉が、地において「成就として現れた」光景です。天的な神のご計画が地上で可視化されたという意味です。
そして、また、天地創造の初め、神の霊が水の上を躍動していた原初の光景を思い起こすとき、天の水が地に届く働きもまた、神の霊(あるいは御使い)によって運ばれるものであることを黙想します。 (以下参照。創世記1:2、28:12、ダニエル書10: 12–13、マタイ 3:16他、ヨハネ1:51、黙示録 8:3–5、使徒2章、⇔ルカ10:18)
Ⅴ.第二日目の創造の目的
そのように黙想すると、第二日目は主が創造のご目的において、しようとしておられることの、全容を形作る日でした。そしてこのことは、万物は御子のために、御子によって造られたことを示す根拠となるみことばです。
第二日目には、まだ、地は現れていません。植物も動物もありません。太陽も月もなく人も創造されていません。しかし、全てが存在するための枠組みが整えられる日でした。第二日目で整えられるものとは、天と地の区別です。上の領域と下の領域を隔てられ、神の業が現れるための空間(大空(רָקִיעַ ラキア))が張り延ばされました。祝福が流れる方向性が形作られ、成就が地に届くための土台が備えられ、創造全体の働きが進むための枠組みが整えられました。神の業・働きが地に現れるための場が整えられたことは、万物が御子によって御子のために造られことを証しします。御子が統治し御子がすべてを満たすための舞台です。上の水と下の水の区別は、御子にあって保たれており、御子において成就されるための前提構造です(エペソ1:10)。
そして、このことの霊的な意味は、そのままキリストと教会との関係 ―― すなわち第六日目の人の創造と結婚の奥義 ―― を示唆します。
その意味で、第二日目は、「何かを創り出す日」というより、「すべての働きが可能になるための構造(枠組み)を整える日」で整えられたものは、すべてキリストの現れのために存在します。「主がしようとしておられることの全容を形作る日」でした。この日は、「目的の完成」に至るものではないため、第二日目にだけ「良し」とは言われません。
さて、逆読みになりますが、ここから第一日を考察します。
(※補足1)
天地万物は神によって造られたと語られています。被造物の区別については、詩篇148篇4–5は「天の天と天の上にある水よ、主を賛美せよ。彼らは主の命令によって造られた」と語り、天の上の水も神によって造られたことが示されています。
「天の天」という表現は、単なる物質的な空間を超えて、神の御住まいを象徴する霊的な意味を持ちます。神の御住まいそのものを「被造物」と呼ぶことはありません。したがって「天の天」と言うとき、それは神の臨在の領域、神の支配の座を指す象徴的な言い方であり、物質的な天体や空間の被造物とは区別されます。一方で、空としての空間領域は当然被造物です。
「水」も「天の上の水」も、創世記においても宇宙の中に置かれた被造物として理解できます。古代の理解では、天の上に水の層があると考えられているとしたら、雲や雨として読むことも自然です。詩篇は「彼らは主の命令によって造られた」と明言し、物質的な意味では空も水も神によって造られたことは疑いようがありません。
しかし、創世記の2節では創造の宣言がなされていません。なぜ水は初めから存在しているのかについて思いをはせる必要があります。光は「光あれ」で生じ、天は「大空があれ」で造られたのに、水だけは創造の言葉の前からそこにあります。初めからある存在であれば、象徴的には神の本質に属することを示す描写と読むことができます。
創世記1:2では、水は形を持たず、区別されない状態で初めからあるように描かれ、神の霊がその上を動いていました。神の命を与える働き、御言葉の創造の御力が世界の初めから満ちていたことを象徴的に示していると理解できます。水は、いのちを与え、形をつくり、神の働きの媒体となるものです。物質的には被造物ですが、象徴的・霊的には、御言葉の働きを映す「初めからあるもの」として描かれていると考えます。
(※補足2)従わなかった霊と降られたキリスト──創世の構造に見る主の日の黙示
天に蓄えられた御言葉、天的領域に置かれたみ言葉とは、天上のどこかに保管されたみことばというような抽象的なものではありません。主イエスが「父から聞いた言葉を語る」(ヨハネ12:49)と証しされたように、それは父のうちにある御心そのものです。主が語られた言葉は、すべて父から聞いた言葉であり、その言葉は「初めに言葉があった」(ヨハネ1:1)と記されるように、創造の初めから神とともにあった御意志の領域に属します。そして、この御父の御旨は、はじめから神のことば(聖書)の内に啓示されており、主御自身が父から聞いた言葉を語られる時、聖書に示されていない概念をもって語られることはありません。「わたしが語ったその言葉が、あなたを裁く」(ヨハネ12:48)と告げられるように、主が地上で語られた言葉は、天にある御言葉が「父から聞いた言葉」として地に届いたものです。また、「天にあるものも地にあるものも、キリストにあって一つに集められる」(エペソ1:10)と語られるように、歴史の終局において成し遂げる御心を示す聖書の御言葉も、同じく天に蓄えられた御言葉の現れです。こうして、地で語られた御言葉と天にある御言葉とが主の日に現れるとき、それは救いであり、また同時に裁きでもあります。
ノアの日に、天の窓が開き、深淵の源が裂けたとき、上に蓄えられていた水と、下に隠されていた水が同時に動きました。これは、創世の第二日目に隔てられた領域が、主の時にしたがってそのまま地に及ぶという出来事でした。天にあるものと地にあるものが、主の御手のうちで一つの出来事として現れ、救いと裁きが同じ出来事の両側面として示されたのです。ピリピ2章が語る「天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもの」が御名の前にひざをかがめるというみことばも、この流れの中で理解することができます。地の下にある者とは、深淵に置かれた者、死者の領域にある者です。しかし、主の日には、天に蓄えられた御言葉と、地の下に隠されていた御言葉がともに開かれ、深淵の領域にまで光が差し込みます。そのとき、深淵にある者もまた、御言葉の真理と栄光の前にひれ伏すのです。ノアの日に起こったことは、主の初臨にも再臨にも通じる出来事の写しでした。天に蓄えられた御言葉が、救いと裁きとして地のすべての領域に及ぶという主の御業の深いしるしでした。それゆえに、天にあるものも、地にあるものも、そして地の下にあるものも、御名の前にひざをかがめるのです。
ここで語られる「ノアの日に従わなかった霊」(Ⅰペテロ3:19–20)とは、神話的な堕落天使の物語ではありません。聖書が「霊」という言葉を用いるとき、そこには霊的性質と、その背後にある霊的活動の両面が含まれます。高ぶりや不従順といった霊的性状は、霊的現実の地上への現れです。その背後には、中間領域での霊的格闘が存在します。その現象を神話として読むのではなく、聖書が示す霊的現実として受け止めるべきものです。ノアの日に神の言葉を拒んだ霊(霊的性質)は、主イエスの初臨において御言葉を拒んだ者たちの中に同じ姿で現れました。その霊は時代を超えて同質であり、この霊的立ち位置にある者は、すでにノアの日の裁き(その型)の中に置かれています。彼らは裁かれ、呪いの中に置かれ、死の領域――深淵に閉ざされた場所に捨て置かれたのです。
しかし、ペテロは、キリストが死の領域にまで降られた方であることを、救いの核心として語ります。私たちは、よみの中にあってキリストと死に与るバプテスマを受けましたが、キリストが地の底に来てくださらなければ、私たちは命を受けることはありませんでした。バプテスマ(その死の側面)は、キリストの死に結ばれる出来事であり、霊的には「死の領域」に置かれた者としてキリストと一体とされることです。キリストの肉の捨てられたことは、私たちの肉の捨てられた運命と一体であり、古い人の死はキリストの死のうちに成就しました。
だからこそ、ペテロは「これはバプテスマの型であり、今あなたがたを救う」(3:21)と言うのです。
ノアの日の水は裁きでありながら、箱舟にある者にとっては救いでした。同じように、キリストの死は裁きでありながら、キリストに結ばれた者にとっては救いです。上の水と下の水が同時に動いたノアの日の出来事は、主の日に、地の下に隠されていた御言葉が開かれる出来事の象徴でした。
ペテロは続けて、「生きている者と死んだ者を裁く方に申し開きをする」(4:5)と言います。
ここでペテロは、主の日の普遍性を語っています。天にあるものも、地にあるものも、地の下にあるものも、すべて御名の前にひれ伏すというピリピ2章の言葉と同じ流れです。地の下にある者とは、深淵に置かれた者、死者の領域にある者です。しかし、主の日には、父から聞いた御言葉が深淵にまで届き、隠された領域にまで光が差し込みます。そのとき、深淵にある者もまた、御言葉の真理と栄光の前にひれ伏すのです。
そしてペテロは、驚くべき言葉を語ります。
「このために、死んだ者にも福音が宣べ伝えられた」(4:6)
これは、「死んだ者にも=死んだ者でさえも」という強調です。
死の領域に置かれた者でさえ、キリストの死と深淵に降られた働きの外にはいない。
キリストは、父から聞いた御言葉そのものとして、不従順の霊が閉じ込められている領域にまで下られました。
神の憐れみにすべてを閉じ込めるためです。
よみのもの ―― 光の届かない闇の中で、キリストを拒絶する霊性のまま不従順の領域にとどめられている者、すなわち「肉にあるイスラエル」――は、主の日以外には救われません。よみは本来、終わりの裁きの場として理解されており、ラザロと金持ちのたとえでも、教会の中ではよみは地獄と同一視されるように語られています。福音の宣教において、この理解は大きく間違っているわけではありません。
しかし、神のみこころを黙想すると、よみは単に閉ざされた裁きの場ではなく、主の日の御言葉が隠されている領域でもあります。そこには裁きがあります。しかし、主の日にはなお憐れみの余地が残されています。地の底に蓄えられた水が主の日に開かれるように、よみもまた、主の時にしたがって開かれる領域なのです。
とはいえ、これは不信者への福音として語るべき宣教テーマではありません。
主がその続きを黙されたことは、福音は「今」という時に応答することを求めているからです。地の下に置かれた御言葉が開かれるのは主の日です。よみに下る主の顕れなしに、その憐れみは届きません。よみにまで及ぶ御言葉の働きは、主の日における神の御心の広さと深さを黙想するなら、これは、復活の奥義の側面(神の民と教会の一体)として理解されるものなのです。
こうして、ノアの日に隔てられた上の水と下の水は、主の日においてキリストにあって一つに集められます。
天に蓄えられた御言葉が、救いと裁きとして地のすべての領域に及ぶとき、天にあるものも、地にあるものも、地の下にあるものも、御名の前にひざをかがめるのです。
御国の完成に関する黙想
― 創世の第1日目 「光があれ」すると光があった―
創世記1章1節~5節
初めに、神が天と地を創造した。
地は茫漠として何もなかった。やみが大水の上にあり、神の霊が水の上を動いていた。
神は仰せられた。「光があれ。」すると光があった。
神は光を見て良しとされた。神は光とやみとを区別された。
神は光を昼と名づけ、やみを夜と名づけられた。夕があり、朝があった。第一日。
Ⅵ. 第一日目の光とは
神の創造は、「光があれ」と言われ光ができました。ヨハネ伝でも、創世記をイメージしながらはっきりと御子を光の象徴として描いています。太陽・月・星が形造られるのは第四日目ですから、この光は、「昼と夜(光と闇)を区別する」働きを持ちます。しかし、光源は示されていません。物理的な光よりも原初的な「神の光」を示しています。この描写は御子の光を示します。では、聖書は御子の初めをどのように証ししているかを丁寧に読み取らなければなりません。
御子は「光」として世に現れました。(ヨハネ1) 新約では、御子は一貫して「光」として語られます。
「まことの光が世に来た」(ヨハネ1:9)、
「私は世の光である」(ヨハネ8:12)、
「光が闇の中に輝いている」(ヨハネ1:5)、
「光が来たことが裁きである」(ヨハネ3:19)。
これらは、創世記1章の光の働きと一致しています。創世記の光の働きは、混沌に秩序をもたらし、昼と夜を区別し、すべての創造の出発点となっていました。御子の働きもまた、闇に光をもたらす存在として、真理と偽りを区別し、救いと裁きをもたらします。
第一日目の光は御子を明らかに象徴しており、第二日目は天と地の構造を整えました。御子が現れるための舞台です。
では、御子は被造物なのか、この問いに対して真剣に応えなくてはなりません。御子は「創造された側」なのか、「創造する側」なのか。聖書は一貫して御子について、創造する側を示します。
「すべては御子によってできた」(ヨハネ1:3)、
「御子によって、御子のために造られた」(コロサイ1:16)、
「御子は万物より先に存在する」(コロサイ1:17)とのみ言葉から、創造された側に置くことはできません。御子は創造の主体であり、創造の対象ではありません。しかし光の働きは、御子の働きと完全に一致しています。
詩篇には、「あなたはわたしの子、今日わたしがあなたを生んだ」(詩篇2:7)とあります。これは、王としての任命(即位式)の言語(創造ではなく「即位」)です。詩篇の、「すべてをその足の下に置かれた」(詩篇8:6)これは、支配権の委譲(創造された存在ではない)です。ヘブル1章では、「あなたはわたしの子、今日わたしがあなたを生んだ」(ヘブル1:5)との詩篇2篇の引用があります。そして、6節で「神は御子を世界に送った(導き入れた)とき」との表現があります。これらは御子が被造物であることを示すのではなく、御子が「創造の初めに王として定められた」という意味です。ヘブル1章3節は「御子は神の栄光の輝きであり、神の本質の完全な現れ」と語ります。
Ⅶ.御子の即位 ―― 万物の存在の根源と目的
被造世界と御子との関係を黙想すると、これらのみ言葉が証しする通り、創造の第一日目が描く「光」とは、御子の「王としての現れ」の象徴を示し、「光があれ」とは、神が、御子を王として定められた(任命された)ことを宣言していると受け止められます。
第一日目の光は太陽の光ではないまことの光です。「まことの光が世に来た」、「私は世の光である」、「光が来たことが裁きである」、「すべては御子によって造られた」。
これらの言葉を並べると、創世記の光は御子の「王としての現れ」として読むことができます。
「光が、やみの中から輝き出よ」と言われた神は、私たちの心を照らし、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせてくださった(Ⅱコリント4:6)と語るこのパウロの言葉は、1日目の光がキリストにおける神の栄光の啓示そのものであることを示しています。第一日目の光は、御子の栄光の原初的顕現として読むことができます。
詩篇やヘブル書から読み解くと、王(メシア)としての神による即位です。
第一日目は、万物に対する、御子の「創造主・王としての任命(定め)」を象徴するものとして受け止められます。御子は、王として立てられた方、万物を治める方、万物の創造の主体であり、万物の相続者です。
そして、第二日目に世界の創造の初めにある水が上の水と下の水とに分けられました。これは、御子にある預言の約束のようなものです。
地に現れた神のかたちと御子の内に天に蓄えられている約束です。そして、主の日にそれは地に形となって顕現し、救い又は裁きとなり、栄光として現れます。こうして、創造の第二日目に区別された「天にあるもの」と「地にあるもの」は、歴史の中で御子によって保たれ、ついには主の日にキリストにあって一つに集められます。キリストにある御国の完成について、創世記を黙想するとき、第一日目に続き、第二日目もまた、創造の構造そのものとして、初めからキリストの栄光の現れへと向かっていたことが、ここに明らかになります。