―創世の第4日目 時のしるし太陽、月、星―
創世記1章14節~19節
1:14神は仰せられた。「光る物が天の大空にあって、昼と夜とを区別せよ。しるしのため、季節のため、日のため、年のためにあれ。
1:15また天の大空で光る物となり、地上を照らせ。」そのようになった。
1:16神は二つの大きな光る物を造られた。大きいほうの光る物には昼をつかさどらせ、小さいほうの光る物には夜をつかさどらせた。また星を造られた。
1:17神はそれらを天の大空に置き、地上を照らさせ、
1:18また昼と夜とをつかさどり、光とやみとを区別するようにされた。神はそれを見て良しとされた。
1:19夕があり、朝があった。第四日。
1.創造の目的と黙想の基点
創造のご目的の中心には、最後のアダム(キリスト)と花嫁(教会)の結合によって現れる『一体の人』があります。創世記の最初のアダムは、最後のアダムの型であり、人類と世界に対する神のご計画とご目的を映す「最初のもの」です。創世記1章はアダムの創造とそれまでの天と地の準備であり、万物の創造は、初めから、最後のアダムの完成に至ることを見据えています。
黙想の着地点は、常に一体の人の創造です。神のご計画を知るために、『最初のもの』に込められた意図を深く味わい、それらが指し示す霊的な本質と神のご目的について黙想します。そして、創造の最初のものに現れている、この世界の構造と秩序を受け止めようとすることは、神の目的を知るための最も確かな道のひとつです。だからこそ、見えるものの中から、見えない事柄に対して黙想し、霊的な理解を求めたいのです。
2.第三日目の栄光と第四日目への接続
さて、パウロは「神はみこころのままに、それぞれの種にそれぞれのからだをお与えになります」(1コリント15:38)と言いました。先の第三日目に関して、種はその種にふさわしい形(からだ)を与えられ、そこに固有の栄光が現れることについて、創造の実りにも多様な栄光が備えられていることを見てきました。その際、太陽、月、星がそれぞれ異なる栄光を持つように(1コリント15:41)と語られています。異なる栄光の中に、光であるキリストを指し示す多様な栄光を見ることができます。それぞれが、神の時のしるしとしての目的と働きを担い、輝く存在として置かれていることを黙想することができます。
3.第四日目:時と秩序の創造
第四日目の光るものの配置は、この世界の完成に至るまでの祝福の場における宣教の秩序と導きを思い起こさせます。また、時のしるしは主の日を待つ秩序でもあります。第四日目は「地上世界の秩序と支配の枠組み」が創造される日として黙想します。
太陽・月・星が「しるし」として置かれ、時・季節・方向を示しました。太陽・月・星は、人間にとって揺れ動くことのない不変の座標の象徴でもあり、宣教の導きや秩序、霊的方向性を示す象徴として理解することもできます。そして光はキリストご自身の象徴であり、その「時のしるし」は、キリストの光を反映しつつ、教会あるいは世界を導く構造を持っていると考えられます。
創世記1章14~18節の働きは、昼と夜を区別すること、季節・時・年を示すこと、地を照らすこと、昼と夜を治めることです。これは地上の生活・社会・農耕・文化・時間・秩序の基盤そのものです。
4.時のしるしと主の日を見据える秩序
ここには、地上の御国の秩序が見られ、人間が地を治めるための『統治の枠組み』が創造されています。治めるためには時間・季節・昼夜・農耕・暦・方向性が必要です。
第四日目は、太陽・月・星が「しるし」「季節」「日」「年」を支配するために置かれました。「時を刻むため」ではなく「時を示すため」に置かれたことは、「時の意味」そのものが創造された日として理解することができます。神の歴史の流れを読み取るための「霊的な秩序」の創造であるなら、第四日目を地上の歴史が主の日へ向かうための秩序が整えられた日として読むことができます。
聖書全体では、「時のしるし」は常に主の日を見据えるためのものとして語られます。
たとえば次のように示されています。
「天のしるしを恐れるな」(エレミヤ10:2)
「しるしと季節のために」(創世記1:14)
「時を見分けることができないのか」(マタイ16:3)
「しるしと不思議が天に現れる」(ルカ21:11)
「太陽は暗くなり、月は血のようになる」(ヨエル2:31)
その意味では、終末を待つ教会の霊的生活と深く結びつきます。第四日目に置かれた太陽・月・星は、主の日へ向かう歴史の秩序を示す「時のしるし」であり、地上の歩みを導く光として与えられました。しかし、これらの光は本体ではなく、天の現実を地に伝えるために置かれた「司る光」です。では、この「しるし」はどのような構造の上に置かれているのでしょうか。しるしの本質を理解することなしに、太陽・月・星を地上的権威の象徴として読むことはできません。そこで次に、第四日目の象徴理解を支えるため、「しるしの本質」を確認します。
5.太陽の象徴:地上的権威の本質
第四日目の光るものを「地上的秩序の象徴」として読むためには、まず「しるしとは何か」を押さえる必要があります。太陽・月・星は、地上の歴史における権威や秩序を象徴しますが、それらは本体ではなく、天の現実を地に映すために置かれた「しるし」です。このことを踏まえた上で、太陽の象徴を見ていきます。
太陽の象徴を御子そのものとして読む必要は必ずしもありません。むしろ、第四日目は「主の日を待つための時の秩序」として読むべきものと思います。
では、太陽とは何でしょうか。太陽は、地上の秩序を方向づける中心的な権威を象徴するものとして読むことが自然です。歴史の中で、それは神殿、律法、王権、教会制度、教理体系、典礼などとして現れますが、いずれも「しるし」であって本体ではありません。地上の秩序を示し、信仰共同体を導きますが、救い主そのものではありません。
太陽とは、人が「これがなければ信仰は成り立たない」と感じる中心的な権威・枠組みです。それは必ずしも悪ではなく、創世記では「良かった」と言われているように、秩序を与えるために必要なものです。太陽は「信仰の時間と方向を決めるもの」として機能します。教会暦、典礼、礼拝形式、教派伝統、教理体系、聖書の読み方の枠組み。これらは信仰の時間と方向を決定付け、信仰共同体が「絶対視しやすい」ものです。しかし、主の晩餐が「主の来られる時まで」と示されたように、共同体のなくてはならない中心的な制度もまた、完成の時までのものです。
太陽の栄光は、地上的中心(神殿・律法・王権)として理解できます。これは御子の光を反射するものとしての「しるし」であり、御子の現れの時を待つために存在しています。月の栄光は、補助的権威(祭司・預言者・伝統・共同体の秩序)を表します。星の栄光は、無数の小さな秩序(民・部族・共同体・証人たち)を表します。
これらはすべて地上的秩序の中に輝く栄光であり、御子の光を受けて輝く存在です。それゆえ、「上の水=天的形態」「下の水=地的形態」という区別の上に、第四日目の「地上的秩序の栄光」が配置される順序が、神の創造の秩序にかなっています。
そして、第四日目に太陽・月・星が置かれたのは、御子の光を地上の歴史の中で可視化するためです。別の言葉でいえば、御子の光を地上の歴史の中で「時・季節・秩序」として翻訳するためのしるしと言えます。
6.しるしの本質:第四日目の象徴を支える神学的基礎
第四日目の太陽・月・星を「地上の秩序の象徴」として読むための、「しるし」についての理解を深める必要があります。第四日目の光るものは、地上の歴史を導く光として置かれましたが、それらは本体そのものではなく、天の現実を地に映すものとしての光です。この「担う光」という性質は、創造第二日目に示された天と地の関係(上の水と下の水の区別)と深く結びついています。
第二日目:天と地の間に置かれた「隔て」の意味
第二日目に、神は上の水と下の水を分け、大空を隔てとして置かれました。この出来事は、宇宙の物理構造の説明だけではなく、天の現実と地の現実の間に存在する「時差」と「距離」を象徴しています。上の水=天の領域(神の現実・本体)、下の水=地の領域(影・しるし)、大空=天の現実が地に届くまでの「境界」。天で定められたことは、地ではすぐには見えません。しかし、見えないからといって存在しないのではなく、天ではすでに真実であり、地ではその現れを待つだけです。この構造が、「しるし」の本質を形づくります。
アブラハムの信仰:しるしの本質を最もよく表す物語
神がアブラハムに天を見上げさせました。
「星を数えることができるなら、数えなさい」(創世記15:5)
神が語りかけ、アブラハムが見上げたのは星の数の多さに感動させたかったのではありませんでした。アブラハムが見た星は、天においてすでに定められた神の約束の「しるし」でした。地上にはまだ何も見えませんでした。子も、民も、国も、何一つ存在していませんでした。しかし、天ではすでに神の御言葉が確かに定められていたのです。
アブラハムの信仰とは、地上では見えないが、天ではすでに真実であるものを受け取る信仰でした。イサクもヤコブも同じ信仰に生きました。彼らが受け取った約束は、地上では影であり、その成就は天においてすでに確定していました。
ヤコブが見た「天に届くはしご」も、天の現実が地に触れているが、まだ完全には見えていない状態を示しています。天の真実について、地でその現れを待つ信仰者のビジョンが横たわっています。復活の信仰も同じ構造に立つ復活もまた、天ではすでに真実であり、地では時を待つものです。地上では死が支配しているように見えても、天ではすでに新しい命が確立されており、その現れを待つだけです。
第二日目の構造は、天の現実が時を経て地に現れる、その「神の働きの流れ」を示しているのです。第二日目の構造を踏まえると、第四日目の太陽・月・星の本質が鮮明になります。それらは天の現実の本体ではないが、天の現実を地に映す「しるし」であり、主の日へ向かう秩序を地上に可視化するために置かれたものである、と。
アブラハムが天を見上げて神の御言葉を受け取ったように、第四日目の光るものもまた、天の現実を地に示すために輝く光です。太陽・月・星は、主の日を待つための秩序を形づくる「時のしるし」であり、地上の歴史を導くための光として置かれました。しるしは本体ではありません。しかし、しるしがなければ、私たちは天の現実がどこに向かっているのかを読み取ることができません。
第四日目の光は、完成の光を待つための光です。天にある本体の光が地に届くその日、しるしは役割を終えます。しかしその日まで、しるしは天の現実を地に映し、主の日へ向かう秩序を示し続けます。このような理解のもとで、第四日目の光るものとは、天の現実を地に映す「しるし」であり、主の日へ向かうための秩序を形づくる光です。しかし、しるしは本体ではなく、時が満ちるとき、その役割を終えます。
では、歴史の中でこの「しるし」がどのように揺さぶられ、どのように役割を終えていくのか。その最初の大きな出来事が、ユダヤにおける神殿崩壊でした。次に、第四日目の太陽の象徴が歴史の中でどのように成就したのかを、神殿崩壊という具体的な出来事を通して見ていきます。
7.ユダヤ神殿崩壊:太陽の象徴の歴史的成就
パウロが言うように(1コリント15:41)、太陽の栄光、月の栄光、星の栄光はそれぞれ異なります。地上的秩序の中心にはそれぞれの役割と栄光があります。しかし、その「栄光」は永遠ではありません。天の万象がその日に崩れ落ちることを意識した終わりの日に向かう聖徒の歩みが求められています。
第四日目の時のしるしが置かれ、必要な秩序として定められます。しかし、その配置は永遠ではなく、主の日にはすべての「しるし」が役割を終えます。黙示録21:22~23には「都には神殿がなかった。主なる神と小羊がその神殿だからである。都は太陽も月も必要としない。神の栄光が都を照らし、小羊がそのともしびだからである。」(黙示録21:22‒23)とあります。
ユダヤにおいては太陽は神殿と律法とに象徴されます。だから、その「崩壊の時」について主御自身が「時のしるし」についてこの教えをされました。ユダヤ人にとって神殿は信仰の中心、時の中心(祭り・暦)、世界の中心(宇宙の軸)、神の臨在の中心、共同体の秩序の中心でした。地上的秩序の「太陽」として機能していました。「太陽には栄光がある」ということばはイスラエルでは神殿の栄光と重なります。
太陽の役割は、時を刻むこと、暦を定めること、祭りの時期を決めること、年の区切りを与えること、昼夜を分けること、生活と信仰の中心を照らすことという、神殿と律法としてそれらの「秩序」を与え、役割を果たします。太陽の栄光は神殿の栄光であり、太陽の中心性は律法の中心性を示します。だからこそ主は「その日」を語るとき、神殿崩壊を語られました。
主イエスはマタイ24章で
「この神殿は崩れる」(マタイ24:2)、
「石が一つも積まれたまま残らない」(マタイ24:2)、
「太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は天から落ちる」(マタイ24:29)
と示されました。これは第四日目に置かれた「時のしるし」が揺さぶられるという終末構造の歴史的なユダヤにおける実現です。
紀元70年の神殿崩壊は、象徴的な型ではなく、ユダヤ世界そのものに対する実際の裁きであり、旧約的秩序の終焉を示す歴史的現実です。同時に、それは来るべき全世界の裁きの予兆として置かれたしるしでもあります。
実際に主が十字架にかかられたとき、真昼の太陽は暗くなり(ルカ23:44‒45)、神殿の幕は裂け(マタイ27:51)、その神殿(主の肉)は壊されました。三日目によみがえりの体において主の神殿が立てられ、新しい秩序が始まりました。
主はユダヤの神殿崩壊のときに関して、この時のしるしについて教えをされました。神殿崩壊は地上的秩序(太陽)が揺さぶられる最初の大きな出来事であり、終末の揺さぶりの原型です。太陽は暗くなる(マタイ24:29)、月は血のようになる(ヨエル2:31)、星は天から落ちる(黙示録6:13)。第四日目に「時のしるし」として置かれたものが主の日には「しるしとして揺さぶられる」ことが明らかとされています。
終末を待つ教会の霊的使命には、時を読むことがあります。
「目を覚ましていなさい」(マルコ13:33)
「時をわきまえなさい」(ローマ13:11)
「主の日は盗人のように来る」(1テサロニケ5:2)
「しるしを見分けなさい」(マタイ16:3)。
それは主の日を待っているということです。主の日に備え、主の日に焦点を当てています。主の日とは(新創造の)完成の時です。ここまで見た神殿崩壊は、太陽の象徴の歴史的成就でした。次に、より普遍的な終末の揺さぶりとして「天体崩壊」を見ます。
8.天体崩壊の象徴:終末における秩序の揺さぶり
「天の万象が崩れ落ちる」ことは、権威・秩序の崩壊を象徴する言葉です。旧約預言、ユダヤ黙示文学、主イエスの言葉、ペテロの言葉は、共通して天体の崩壊を「地上の秩序の崩壊」の象徴として使っています。
イザヤ13章では太陽は昇らず星は光を失うと語られ(イザヤ13:10)、これはバビロン帝国の崩壊の象徴でした。
エゼキエル32章では星を暗くし、太陽を雲で覆うと語られ(エゼキエル32:7)、これはエジプトの崩壊の象徴でした。
ヨエル2章では太陽は暗くなり、月は血に変わると語られ(ヨエル2:31)、これは主の日、神の裁きの象徴でした。
第二ペテロ3章でペテロは、天は大きな音を立てて消え失せ、天体は焼けて崩れ落ち、地とそのわざは暴かれると言いました(2ペテロ3:10)。これは創造第四日目の構造そのものが揺さぶられるという象徴表現です。
黙示録6章でも「天が巻物のように巻かれる」という象徴表現が出てきます(黙示録6:14)。
天体崩壊の預言は「象徴理解が本意」であることが多く、物理現象は従属的であり、中心的なメッセージではないと考えられます。だからといって物理世界の事象をことさらに否定する必要もありません。しかし、聖書が語るようにその真意をくみ取らなければ、気を付けるべき注意点や祈りの向かう先が損なわれてしまいます。
主イエスが神殿崩壊を語るとき、天体崩壊の言語を使われたのも同じ理由です。太陽(神殿の栄光)、月(祭儀の秩序)、星(イスラエルの指導者たち)、これらが「落ちる」というのは、イスラエル(ユダヤ教)の世界が終わるということでした。ペテロの言葉も同じ意味合いを持っています。秩序の崩壊が語られているのです。天体崩壊の言語は「秩序の崩壊」を象徴するものであり、必ずしも物理的に星が落ちることを意味しません。しかし、十字架のとき、太陽が暗くなるという「実物的現象」が伴うことで、象徴が現実を貫いて成就することが強調されました。象徴が本意でありながら、実物的光景がその象徴を裏打ちするという構造があります。
終末では、象徴的成就に伴い、どのような形であるかはわかりませんが、より包括的な実物現象が成就する可能性が高いと理解されます。象徴にしても物理現象にしても、その結末の意味は大きく変わりません。もし物理現象であるとしたら、そのとき人類は死滅します。この世の今ある自然法則が刷新されます。天体崩壊は「生存基盤の崩壊」という最大級の象徴です。その天体のもとに生きる人にとっては致命的であり、それまでの世界で生きることはできないということです。
人類にとって宇宙の万象は基盤的な法則であり、時のしるしの中心軸です。人類の歩みを支える土台であり、方向を示す道標であり、生命の根幹でもあります。
しかし、神のはじめの創造において光の写し(栄光)として置かれた「最初のもの」は崩れ去り、やがて真の栄光が現れるというとき、旧創造の真意とされたところの新しい創造がそこにあります。それが終わりの時(完成の時)を待つ「時のしるし」の持つ意味です。
9.地上の権威と「空中の権威」:第二日目と第四日目の霊的構造
天体が時のしるしとして置かれているにもかかわらず、地上の権威が主の御計画・神の時に対して従わず、裁きが定められるときがあります。サタンの霊的活動には、天で発せられた神の御言葉が地に届くのを妨げる働きがあり、それは創造二日目に置かれた「隔て」の領域で起こる現象として理解できます。
創造二日目に神が広げられた大空は、上の水である天の領域と、下の水である地の領域を分ける隔てであり、天の現実が地に届く際に通過する境界です。この大空は、ダニエル書10章が描くように、黙示的にとらえれば、天で聞かれた祈りが地に届くまでの間に霊的な抵抗が生じる場所であり、まさに「空中」と呼ばれる霊的境界領域の象徴です。
創造四日目に置かれた天体は、時を示し、秩序を保ち、地上の統治を象徴する代理の光として働く存在でした。天体が大空に置かれたという事実は、地上の統治権がこの「隔て」の領域と深く関わっていることを示しています。したがって、エペソ書2:2が語る「空中の権威を持つ支配者」とは、この隔ての領域で働き、神の御言葉が地に届くのを妨げ、地上の統治がキリストの時に向かうのを阻む霊的勢力の象徴です。
これは創造二日目と四日目の構造を重ね合わせることで、曖昧だった概念が一気に輪郭を持って理解される部分です。ダニエル10章はこの象徴を最も鮮明に描いています。天では祈りが聞かれているにもかかわらず、地ではその成就が遅れ、その間に「国の君」と呼ばれる霊的勢力が立ちはだかります。ミカエルが介入して突破が起こるという描写は、上の水である天の現実と、下の水である地の現実の間に存在する大空の領域で、空中の権威が妨害するという構造をそのまま示しています。
これは創造の秩序と霊的戦いの黙示的光景が一致した象徴的な理解です。そして、地上の統治がキリストの時に向かわないなら、天は巻かれます。代理の光である地上の統治が役割を果たさず、空中の権威が支配を強めるとき、天体という統治の象徴が揺らぎ、ついには天が巻かれるという象徴的表現が成就します。これは代理の光の時代の終わりを意味し、その後には本体の光であるキリストが現れ、すべてを照らします。
創造一日目の光から黙示録の完成に至るまで、この流れは一つの秩序として貫かれています。
10.第四日目の統治の権威とその本質
さて、第四日目の統治の権威についてもう少し掘り下げます。創造の第四日目は「地上の統治の権威を、神がしるしとして委ねた(配置された)日」として読むことができます。
主は「統治の権威は神から委ねられたもの」と語られました。主イエスはピラトに言いました。「あなたに与えられている権威は、上から与えられたものだ。」(ヨハネ19:11)権威は元来人間のものではありません。神が委ねたものであり、神の秩序の中でのみ正しく機能するということです。
「昼を支配する大きな光、夜を支配する小さな光」(創世記1:16)ここで使われる「語根(māshal)支配する」は統治・治めるという意味です。太陽・月・星は地上の秩序を治める「権威の象徴」として置かれました。天体が初めから地上の祝福の基盤として良いものとして整えられたということは、地上の統治もまた、良い裁きが行われるために神によって定められたことを意味します。この言葉の意味はペテロの「統治者たちの善を行うための裁き」(1ペテロ2:14)の言葉に通じます。そして本来、創造の秩序の通りに良い状態であるなら、すべての統治の権威は神の時を見分けるものとしてキリストに収束しなければなりません。そして、旧創造のしるしとしての統治はやがて役割を終え、新しい創造の秩序がキリストにおいて現れます。
11.新創造の統治の座としての十二使徒
主が十二使徒に対して「あなたがたも、わたしの国で、わたしの食卓について食事をし、また王座に着いて、イスラエルの十二の部族をさばくのです」(ルカ22:30)と語られたとき、それは新しい世界の秩序の中心に彼らを据え、統治の座を委ねるという宣言であったのです。
宣教と祝福、命と死、救いと裁きについて、御国の鍵が彼らに託され、「あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その罪は赦されます。赦さずにおくなら、そのまま残ります」(ヨハネ20:23)と語られた言葉は、天と地をつなぐ権威の委譲を示しています。異邦人への宣教と交わりの一致もまた、御国の門の鍵がペテロに預けられ、彼を通して開かれたことによって実現したのです(参照:マタイ16:19、使徒2章で、ユダヤ人の開門は、聖霊降臨の後、ペテロが最初の説教を行い、約3000人がバプテスマを受けて教会が誕生する。使徒8章でサマリア人への開門、使徒10章で異邦人への開門、使徒15章での確証)。
十二使徒たちの座は、まさに天の万象の新しい秩序と基盤であり、福音は彼らによって伝えられた教えを受け継ぐ信仰によって開かれました。旧創造では天体が時と統治のしるしとして置かれましたが、新創造では十二使徒がその役割を担います。彼らは新しい世界の秩序の中心であり、天の万象の基盤のように配置されました。
このような理解のもとで見ると、時のしるしの基盤である天空の星座が天の秩序を形づくるように、使徒たちの座が新しい創造の天的秩序を形づくる姿が見えてきます。
福音は使徒たちの教えを受け継ぐ信仰によって開かれ、彼らの座は新しい創造の天体のように輝き、御国の秩序を照らす光となるのです。
12.歴史の中での「時のしるし」
聖書の歴史の中には、神が地上の権威を「時のしるし」として用いられた例が数多く見られます。クロス(キュロス)も、ネブカデネザルも、パロも、いずれも神の時を示すために立てられた存在でした。
パロがヨセフの時代に「夢を見せられた」ことはその典型です。異邦の王でありながら、神は彼に七年の豊作と七年の飢饉という「時のしるし」を夢として示されました(創世記41章)。神の民の救いのため、そして世界の救いのために、地上の王が神の時を受け取り、見分ける器として用いられたのです。
ネブカデネザルの幻と矯正も同じ意味合いです。ダニエル書では「天の神があなたに王国をお与えになった」(ダニエル2:37)として幻が与えられ、これから起こる神の御計画が示されました。しかしダニエル4章では、彼は高ぶり、権威を乱用し、神の時を見分けられなくなります。そのとき神は彼を「獣のように」し、権威が神から委ねられたものであることを悟らせました。
バビロン崩壊とクロスの統治も同じです。ベルシャツァルの宴会では「メネ・メネ・テケル・ウパルシン」と示され(ダニエル5章)、神は「時の終わり」を告げるために介入されました。そしてクロスは「わが牧者」「わが油注がれた者」と呼ばれ(イザヤ45章)、異邦の支配者でありながら神の時を実現するために立てられました。
その他にも、出エジプトのときパロに対して「わたしの力をあなたに示すため」(出エジプト記9:16)と語られ、神の時を示すために立てられたことが明らかにされています。
エステル記6章ではアハシュエロス王の眠りが奪われ、モルデカイの記録が読まれ、神の時が動き出しました。
エズラ7:27では「主は王の心に思いを起こさせ」神殿再建の「時」を動かされました。
さらに、神は実際の天体そのものを用いて時を示されることもあります。太陽が止まる(ヨシュア10章)、日影が戻る(列王記下20:11)、星がメシア誕生の時を示す(マタイ2:2)などです。
13.時のしるしが指し示す方向性:完成へ向かう秩序
第四日目に置かれた「時のしるし」は、完成そのものを実現するためのものではなく、完成へと向かうための秩序を与えるために置かれたものでした。太陽・月・星は、地上の歴史の中で神の時を読み取り、その流れに従って歩むための光として機能します。
「時が満ちる」という言葉は、この「しるしの秩序」が指し示す方向が、やがて一つの頂点へと収束することを示しています。しかし第四日目は、その頂点そのものを語る日ではありません。頂点へ向かうための道筋が整えられた日です。
創造の秩序は、第一日目の光から始まり、第四日目の光の配置によって歴史の中に組み込まれ、そのすべてが「来るべき方」の栄光を指し示す、到来を待つためのものでした。しるしは本体ではなく、本体を待つための光です。したがって、第四日目の黙想は、「しるしが示す方向を読み取り、その先にある完成を待ち望む姿勢」へと私たちを導きます。
完成そのものは、まだ語られません。それは創造の六日目に委ねられた神の御計画であり、第四日目はその到来を待つための「時の秩序」を与えられた日です。しるしは主の日を語りますが、しるしは成就ではありません。しるしは光を映し、本体の光が現れる日を待ち望むために輝きます。第四日目の光は、完成の光を待つための光です。
注釈(補足解説)
第四日目:「時と秩序の創造」の補足
【本黙想における解釈のとり方 創造の順序について】
この黙想で採用しないよく知られた解釈についても併せて考察します。福音派・保守的な創造論の中で、「太陽はすでに存在していたが、大気が不透明で見えなかった」という解釈は一般的に知られているかもしれません。
黙想の中では、現在知られている文明の理解、科学的矛盾のない順序に対して取り組むことはしません。そのため、以下の解釈とは関わりを持たない立ち位置で、黙想を展開します。
(科学的矛盾を抑えようとする解釈の例)
太陽は創世記1:1の「天と地」の時点で既に存在していたのです。しかし、地球の大気は濃厚で、火山性ガス・水蒸気・微粒子・原始の大気などにより、光が地表に届かない状態だったことが類推されます。第一日目の「光があれ」は、太陽光が大気を通して地表に届き始めたことです。第四日目は、大気が透明化し、太陽・月・星が見えるようになった日です。
これは、植物が太陽より先にある問題を科学的に説明するための一般的な理解となりえます。なぜなら、植物は光が必要であり、太陽がなければ光合成できないからです。しかし、太陽は存在しており、光は届いており、ただ太陽の形が見えなかっただけと考えれば矛盾は解消されます。さらに14節の「光体があれ(וַיְהִי מְאֹרֹת)」は「見えるように配置された」という意味にも読めます。これは、古代の大気は不透明だったという科学的仮説のモデルと一致します。
上記の解釈は「科学的矛盾をなるべく避けるための説明」であって、創造の神学的順序そのものの意味と重要さを説明する働きは担いません。なぜ植物が先で太陽が後なのか、なぜ神がこの順序を選んだのか、創造の構造がキリストに収束することを説明できないものとなっています。科学的調和説のゆえに、書かれてあることを超えて説明すると、科学の矛盾を最小限にすることを目的としてしまい、外側の説明をすることがかえって創造の内的な意味において矛盾を抱えてしまうことになります。
象徴的理解を本意とした場合、ここでは「植物が太陽より先に造られた」ことを矛盾とは見ません。むしろ、象徴の通りでよいし、神がそうされたなら問題はないと考えます。これは信仰的強がりではなく、創造の順序そのものに神学的意味があるという前提に立つものだからです。
まず、神がそう造られたなら、それが自然の秩序の「原型」であると悟るのです。神は自然法則の上におられ、法則を創造する側です。植物が太陽より先でも、神がそうされたならそれが「本来の秩序」であり、自然法則が後から神の秩序に従うと理解します。科学的にも光はすでにあり、第一日目の光が植物を支えることは可能であると説明しても構いません。しかし、その説明は別の分野に委ねます。
創造の第一週は神の創造であり、自然法則の通常運用ではないことを前提とします。すべて神の創造の奇跡に支えられています。いのちの存在、生存と成長は神の直接的働き(創造バラー(בָּרָא)と配置アーサー(עָשָׂה))によるものです。
知られている科学的な説明は、矛盾を最小限にすることができても、必ずどこかで創造の奇跡にあたり、説明不能の創造にゆだねることになります。それを最小化し、知られる科学説明をこなすのは矮小化に見え、滑稽な科学に見えてしまいます。どこかで完成の状態からスタートする必要があるのです。科学は「原因→結果」で説明しますが、創造は未完成から完成へ進むのではなく、完成の状態から「秩序が展開される」形で描かれています。神の「御計画」は初めから完成しているのです。「初めから終わりを告げる」(イザヤ46:10)、「御計画は天地創造の前から」(エペソ1:4)とあるとおりです。
この黙想における創造の秩序の神学的な順序はこうでした。この世界の第一義的な事象は最初のアダム、創造の初めと呼ばれるものであり、これは最後のアダム、御国の完成を示すための神の御計画であると悟り(この世界が神の御言葉によってなったことを悟るのです)、創造の一日一日に完成に連なる意味があることを読み解くのです。
創造の順序は神学的構造ですが、物理現象もまた「証(sign)」としてその構造に従っていたと考えたいのです。「見えるものは見えないものからできた」(ヘブル11:3)、「天は神の栄光を語り告げる」(詩篇19:1)からです。物理世界は御言葉の構造を「証しするために」造られたのです。
•第一日:御子の光(まことの光)(王の即位)
•第二日:天的形態と地的形態の区別(完成に至る設計図)
•第三日:御言葉が形となる(成就の開始)(地と実り)
•第四日:地上的秩序の創造(太陽・月・星)御子の統治を象徴する被造の光