こうして、天と地とそのすべての万象が完成された。
神は第七日目に、なさっていたわざの完成を告げられた。すなわち第七日目に、なさっていたすべてのわざを休まれた。
神は第七日目を祝福し、この日を聖であるとされた。それは、その日に、神がなさっていたすべての創造のわざを休まれたからである。
創造の第七日に神が御業を終え「休まれた」と記されたことは、完成した御業の上に座し、統治を開始される神の安息を示すものであると、受け止められます。この安息は、創造の目的が果たされた全き完成の光景として、臨在の栄光が世界を覆う安息と思います。創造の第七日目の安息は、贖いと完成の安息を指し示すものとして最初に定められ、新しい天地の創造の成就を先取りする預言的な日として黙想します。
創造の七日間の天地の創造は、万物の起源の記録として覚えると同時に、神の永遠の御旨が象徴として地に刻まれた、天に置かれた事実を指し示すしるしであり写しです。
第一日目の光、第二日目の隔て、第三日目の地、第四日目の時のしるし、第五日目の揺らぎの命、第六日目の一体の人、そして第七日の安息──これらすべては、御子と花嫁の一体という奥義を中心に据えて証しされています。
これまで以下のように創造の六日間の象徴を黙想してきました。これらの象徴は、それぞれが七日目の安息に向かう流れの中で意味を持っています。
第一日目の光は創造のはじめに中心に据えられた本体の光であり、御子の現われでした。世界の基の置かれる前に万物の支配者、御国の王として任命された主の栄光です。こうして光は、後に訪れる完成の安息の中で輝く栄光を示す最初のしるしとなります。
第四日目に置かれた太陽・月・星は、天の栄光を語り告げるしるしであり、歴史を主の日へ導く秩序でした。本体の光が現れるとき、しるしは役割を終えます。黙示録は「都は太陽も月も必要としない。神の栄光がこれを照らし、小羊がそのともしびだからである」(黙示録21:23)と語っています。
七日目は、最初の光の現われ(第一日)から光の満ちる時(第七日)へ至る創造の定めが完成する日です。第一日目に現れ、第四日目にしるしが置かれ、第七日目に満ちるという、創造の物語は光の現れから満ちる時へ向かって進みました。
第二日に置かれた「隔て」については、創造から終末まで貫く秩序として後の章で詳しく扱います。ここでは、終わりの日に断絶が取り除かれる安息の世界を前もって示します。
第三日目に水が一所に集められ、地が現れ、御言葉が形を取り、命を生み、実を結ぶという創造の摂理が、肉を取られたキリストの姿、贖い、復活、そして教会の働きと象徴として重なり合う日として黙想することができます。また御言葉が地に形を取り実を結ぶ宣教の場が整えられたことを覚えました。整えられた地は、安息の日に完成へと導かれる世界の土台となります。
天に上られた御子は、成し遂げられた御言葉による御業のゆえに、御座に着座し、安息に入られました。七日目に安息について記述されるように、地においての安息は、完成の日に天にある方がおりてこられる日に全うされます。
第五日目の、空と海――すなわち、終末的完成を待つ被造物の状態(この黙想では「揺らぎ」と呼ぶ)、そして混沌の中に置かれた命は、救いと敵対が共存する世界を象徴するものとして覚えました。神はその只中で創造された命を祝福され、やがて訪れる完成を見据えつつ、新しい創造における七日目に神の聖に与る栄光に入る希望を抱くよう導かれました。
第六日目に神のかたちに人が形造られたとき、創造の目的が象徴として現れました。男と女の一体はキリストと花嫁の一体となる奥義の原型であり、裂かれた側から生まれる命は、創造の出来事と贖いの出来事が同じ本質を持つことを示す最も深い象徴でした。
第七日目の安息は、御子と花嫁の栄光を一つに共有する「一体の人」が地に顕れる、その完成の日を指し示す型として置かれたものでした。
創造の七日間は、六日間の働きの後に安息が来るという順序の説明で語りつくされるものではなく、七日目こそ初めから御計画されていた目的であり完成の中心です。
第一日目の光は御子の栄光の現われとして置かれ、第二日目の隔ては、天と地が神の時に結ばれるための秩序として形作られ、第三日目の地は御言葉が形を取り実を結ぶ場として整えられました。第四日目の時のしるしは歴史を主の日へ向かわせ、第五日目の揺らぎの世界での祝福は、救いと敵対の緊張での希望を象徴し、第六日目の統治者として置かれた「一体の人」は御子と花嫁の同一の存在の原型として現れました。
これらすべては、七日目の安息──御子と花嫁の一体が完成し、その栄光が御父に返され、神がすべてにおいてすべてとなられる世界(1コリント15:28)──へ向かって進んでいました。七日目は、創造の目的を果たす日です。御子と花嫁の一体の人の顕れ、贖いの完成、断絶の終わり、統治の開始、満ち満ちた栄光として置かれました。
創世記で第七日だけ「夕があり、朝があった」と語られないのは、この安息が終わりを持たず、光が沈むことなく、神の臨在が永遠に続くことを示しています。黙示録の「もはや夜がない」というみ言葉と通じています。
第二日目に置かれた大空は、創造の秩序として天と地を区別する境界でした。上の水は神の側の領域、下の水は地における御言葉の成就を象徴し、その間に張られた大空は、神の御住まいと地の被造物の場が区別されることを示す象徴として理解できます。
罪の歴史の中では、この大空はイスラエルに証しされた幕屋の原型とも似ており、至聖所と聖所を隔てる垂れ幕のように、「聖」と「俗」とを区別する霊的な断絶を象徴する領域としても黙想することができまます。第四日目に置かれた太陽・月・星は、天の下で時を刻むしるしとして働き、歴史を主の日へ導く秩序となりました。天地の境界の中に置かれた大空は、地のものと天のものとが交錯する霊的な活動がなされる領域としてその象徴を覚えました。同時に罪による断絶の象徴としても働いていたと言えます。
御子のからだが十字架で裂かれたとき、罪によって生じた神と人との断絶は取り除かれました。御子の肉体は神殿(幕屋)の垂れ幕であり、その裂かれた肉体――贖いによって、天と地の断絶は取り除かれます。キリストは聖であられ、地に住む私たちは、この方によって地にありながらも天の者として区別される聖に与るものとされます。
「主は言われた。『わたしの右の座に着いていよ。わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまでは』」(詩篇110:1)とあるように、御子は、神の右に着座されました。御子の着座は、天において罪の隔てが取り除かれたことの実体であり、創造の第七日の安息の出来事が天において確立されたことを表しています。そして、地においては、完全な一人の人の顕れ、そして一体の人を通して地の贖いが全うされる時を、すなわち第七日の安息の日を待っています。
キリストの復活と着座によって、天において確立された現実が地に向かって開かれ、その実体が地において展開されていく救いの物語(地上の宣教)は、被造物が待ち望んでいた世界の「贖われること」への終末の始まりを告げます。
隔てが完全に取り払われる出来事は、キリストの復活を通して、つまり、朽ちるものが朽ちないものを着るとき(1コリント15:53)に、神の栄光に入ります。すなわち「聖」とされることを示しています。罪によって生じていた断絶は終わり、地には御子の完全な御支配とその現われに伴って、聖なる臨在のもとに置かれる終末的安息が現れます。その意味で、7日目を「その日を聖とされた」と主が宣言されたことは、完成のその日に、地が贖われ、神(御子)の臨在によって、神の栄光が覆うことを示しています。神のおられる場所が、聖であるからです。
パウロが語るように、被造物は「神の子たちの現れを切に待ち望んで」(ローマ8:19)います。堕落以降、被造物は虚無に服しつつも、贖われる時を待ち望んでうめいています。朽ちる肉体が贖われなければ栄光に入れないように、被造物の住むこの地も贖われなければ神の栄光に入れません。被造物のうめきは、地が新しい地へと贖われることへの希求です。パウロは、被造物が「滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由に入る」(ローマ8:21)という約束の成就の日があることを指し示しています。
御子の復活は、新しい創造の第一の出来事であり、御言葉が地において再び実体として形を取り始めた「第三日の実体」です。しかし、第七日の実体は着座にあります。御子が天に上り、父の右に着座されたとき、創造の第七日の安息が天において実体として現れました。これは、天において隔てが取り除かれ、安息と統治が確立されたことを意味します。地においては、この天の現実が部分的に現れ始め、最後の日に完全に満ちることとなります。
御子の着座は、創造の第七日の実体であり、贖いの完成であり、王権の確立であり、断絶の終わりであり、光の満ちる時の始まりであり、御子と花嫁の一致の中心です。御子は御座にあって休まれつつ、御霊を通して地に働いておられ、教会は御霊とともに働き、花嫁の「完全なひとりの人」としての整えは歴史の中で形成されていきます。
やがて、すべての敵が足の下に置かれ、最後の敵である死が滅ぼされ、万物が御子に従わせられるとき、御子はそのすべてを御父に返され、「神がすべてにおいてすべてとなられる」(1コリント15:28)という言葉が成就します。黙示録21?22章に描かれる新しい天と新しい地は、この安息の実体であり、神の幕屋が人とともにあり、死はなく、いのちの川が流れ、いのちの木が実を結び、御顔を仰ぎ見る者が永遠に仕える世界です。
御子の着座は、贖いの完成と天における断絶が取り除かれたことを示します。創造の第七日を天においてかたどる安息が歴史の中に実体として現れたことを意味します。天において確立された現実が地に向かって開かれ、その実体が歴史の中で現れ始めるという関係として理解します。
御子は天の門であり、天の道であり、ヤコブの梯子の幻が意味することの実体です。ナタナエルに語られた御使いたちが人の子の上を上り下りするという言葉は、天と地の行き来が御子において開かれたことを示します(ヨハネ1:51)。キリストにおいて結ばれ、天が開かれ、地に天の現実が成就する福音と御国の実現の開始です。
天においてはすでに完成した霊的現実が確立され、地においてはその現実が部分的に現れ始めました。このことは、創造の第三日目において御言葉が地に形を取り始めた象徴が、歴史の中で動き始めたことを示します。被造の世界は、キリストにあって神の聖に与る「始まり」に入れられましたが、その完全な姿は最後の日に現れます。
七日目は、神の臨在が満ちる神の御住まいを思わせる光景です。詩篇には 「私はいつまでも主の家に住まいます」と歌われ、「あなたの家に住む人は幸いです」と告白されたその家──神と人が共に住む場所──が、七日目の安息の中に象徴として置かれています。
礼拝とは、この第七日の安息の中に入り、神の臨在に身を置くことです。「安息日を聖とせよ」とは、人が自らを清めるのではなく、神がとどまられるその時と場所に身を置くことを意味します。
創世記が「第七日を聖とされた」と語るとき、創造の目的が現れました。その日を聖とされた、聖とは、神の臨在が満ちる場所であり、神の愛と栄光が世界を覆っている光景を描きます。御子の臨在と御支配によって地が完成へ導かれる終末の光景なのです。第四日目の太陽・月・星の光は役割を終え、第一日目の光の本体がすべてを照らします。七日目は、御子の安息(天の完成)と神の民の安息(地の完成)が一致する日です。御子の安息はすでに天において実体として到来していましたが、地における安息は最後の日に完成します。この日、創造の第七日の「神の聖」が歴史の中で実体として現れました。
七日目には、御子と花嫁は「一体の人」として同じ栄光に輝き、すべての業を終え成し遂げられたことが宣言されます。そして、その栄光が父に返される日です。創造の物語は初めからこの一点へ向かって流れていました。天にある現実が地に届くまでの間に、隔てが置かれ、御子を証しすることばが与えられてきました。人は地を治めるために地に置かれましたが、その支配は、終わりの日(整えの完了の時)には「一人の完全な人(花嫁)」によって、完成の日(結ばれる時)には「一体の人」によって、神の御計画を果たします。
創造の物語は、第一日目の光の最初の現われから第七日目の光の満ちる時へ向かう定めが弧を描くように流れていますが、創造・贖い・完成・新しい創造という神の永遠の御旨が七日間の象徴の中に置かれていたと受け止められます。七日間は、創造と完成を貫く霊的な神の御計画と御目的を示す定め(秩序)であり、一体の人(御子と花嫁)の栄光に関する、永遠の奥義が、光・隔て・地・時・揺らぎ・神に形作られた人・安息という象徴の中に表されています。
創造の六日間は「一体の人」へと至る流れを示しますが、その象徴はキリストの歩みの中で歴史的に表されています。御子は第一日目の光として現れ、第二日目の隔ての秩序の中で歴史が進み、第三日目の御言葉の顕現として受肉し、第四日目の時の秩序の中で十字架の時が満ち、第五日目の揺らぎのただ中で敵対を受け、六日目の最後のアダムとして裂かれた側から花嫁を生み、七日目の安息として御座に着かれました。
創世の七日間は、創造の出来事を示すと同時に、御子による贖いを予表し、完成の時を描き、新しい創造を指し示す象徴として、神の御旨があらかじめ啓示されていました。
御座に付かれた主が今に至るまで働いておられる姿は、御子が地上で宣教の働きを為さり、安息日に癒しの御業をされたとき、「わたしの父は今に至るまで働いておられます」(ヨハネ5:17)そのため、わたしも働くのだと示されたように、主御自身は御座に着かれつつ信仰者の手を通して御業を進められていきます。「主は彼らとともに働き、御言葉に伴うしるしをもって御言葉を確かなものとされた」(マルコ16:20)。
創造の物語において第三日は、天上の水と地上の水とに分けられ、地が形づくられました。天にあるみ言葉が地に形をとって現れる出来事は、旧約の最初の時代から歴史全体に連綿と流れ続けてきた姿です。
アブラハムの召し、出エジプト、契約、神殿、預言者たちの働き──これらはすべて、神のみことばの地に実現する光景です。その中で、最も深い形での実体化、すなわちその中心(最奥)として、贖いのキリストの死と復活があります。復活は、新しい創造の第一の出来事であり、御言葉が再び地において実体として形を取り始めた「第三日の象徴的成就」として理解できます。しかし、御子の復活は地における第七日の完成ではありません。復活された御子が天に上り、父の右に着座されたとき、創造の第七日の安息が御子にあって天において実体として現れました。これは、罪によって生じていた断絶が終わり、天において安息と統治が確立されたことを意味します。そして、この天において確立された現実が地に向かい、地において形を取り始めるという関係そのものが、創世の第三日の構造を映し出しています。
最後の日には、この天において完成した第七日の安息が地にも満ち、隔ては残りつつも、罪による断絶が完全に終わり、神がすべてにおいてすべてとなられる世界が現れます。すなわち、最後の日は、地における第七日の完成です。
創世の6日目に「われわれのかたち」と語られたとき、そこには御父と御子が創世前から共有しておられた一体の栄光が置かれていました。御子はその栄光を「父よ、あなたの栄光でわたしを輝かせてください」と祈られ、御父の愛においてご自身を捧げられました。
御子がご自身を捧げられたその愛こそが、御子の栄光の本質であり、命を与える支配の姿でした。この御子の栄光は、花嫁に与えられる栄光の原型です。花嫁は御子の愛を受け、その贖いの命を共有し、御子の愛を自らの愛として生きる者として形づくられます。花嫁が御子の愛に応答し、その愛を自らの栄光として輝かせるとき、花嫁は御子と同じ光に輝く者となり、御子の栄光と花嫁の栄光は一つの光として現れます。
この一体の栄光が花嫁において満ちるとき、創造の目的は完成します。創世記の第七日に象徴として置かれた安息は、御子と花嫁の一体の栄光が御父に返されるときに実体として現れます。御父と御子の一体の栄光が、御子と花嫁の一体の栄光として歴史の中に満ちるとき、世界は安息に入り、祝福され、神の栄光が全地に満ちます。
創造の御計画と贖いの御旨は、この一体の栄光の完成に向かって流れています。御父と御子が創世前から共有しておられた栄光と同じように、御子の栄光が花嫁において「完全な一人の人」として輝き(※7日目の前夜)、同一の栄光の存在として御子に結ばれるとき、神がすべてにおいてすべてとなられる世界が到来します。これが、創造の第七日に象徴として置かれた安息の実体であり、神の永遠の御計画の中心です。
創造の第二日目に置かれた大空は、天と地の区別を保つための境界であり、時を刻む秩序の舞台でした。太陽・月・星はその内側に置かれ、歴史を主の日へ導くしるしとして働きました。大空は時を刻む器であるだけでなく、時間そのものの象徴として置かれました。御子が来られ、永遠が歴史に介入されたとき、時を刻む必要は本質的に終わり、約束と成就の間にあった遅れは終わりを告げます。信仰の完成者である方が来られるからです。終末において大空が巻き取られるとは、創造秩序としての区別が消えることではなく、時間の象徴が役割を終え、時の遅れと霊的揺らぎを象徴していた領域、王たちの支配が閉じられることを示しています。
第四日目に置かれた時のしるしは、主の日へ向かう歴史の秩序でした。御子が来られたとき、時は満ち、永遠が歴史に触れました。終末において、時を刻む必要はなくなり、遅れも狭間も存在しません。
第七日の安息は、時が停止し、永遠が満ちる光景です。太陽も月も必要とせず、第一日目の光の本体がすべてを照らします。安息とは、神の臨在が満ち、時の流れが目的に到達した状態であり、創造の第七日に先取りされた永遠の実体です。
新しい地の光は、太陽や月のような代理光ではなく、キリストと花嫁の一体の栄光そのものです。御父の栄光を御子が本質的に輝かせるように、御子の栄光を一体の人が本質的に輝かせます。反射ではなく、共有された本体の光です。
新しい地は、キリストの栄光が直接に輝く場であり、創造の第一日目に現れた光が、完成の第七日に満ちる時として現れます。代理の光の役割は終わり、光の源が直接に地を照らします。
創造の大空は、時の遅れと霊的揺らぎの象徴として働き、約束と成就の間の領域として存在しました。そこでは、神の聖に与る可能性と、敵対の影響を受ける可能性が共存していました。大空の内側は、約束と成就の間に置かれた揺らぎの領域であり、また霊的な立ち位置についていえば、裁きの確定していない未判決の時代でした。しかし、御子が来られ、復活と着座によって天において判決が確立されたとき、中間領域は本質的に意味を失いました。
終末においては、揺らぎは消え、遅れはなくなり、神の時は直接に実現します。新しい天と新しい地の間には、もはや揺らぎは存在せず、御子の臨在がすべてを満たします。
朽ちる肉体が贖われなければ栄光に入れないように、俗なる地も贖われなければ神の臨在に耐えられません。被造物のうめきは、地が新しい地へと変えられることへの希求であり、身体の贖いと同じ構造を持ちます。復活の身体が朽ちないものを着るように、地もまた朽ちないものを着ます。
新しい地は、贖われた被造物が神の臨在に満ちる場であり、創造の目的が完成する場所です。朽ちるものが朽ちないものを着るという構造は、身体と被造物に共通するだけでなく、パウロが語った奥義── 一体の完成 ──へと収束します。
創造の七日間に刻まれた象徴は、パウロが語った奥義の中心── キリストと花嫁の一体 ──に収束します。
パウロが語った次の奥義―― 男と女の一体、ユダヤと異邦の一体、律法の隔ての壁の除去、キリストが内に住まわれること、復活の身体への変容── これらはすべて、区別を保ちながら断絶が取り除かれ、一つの新しい人が形づくられる出来事です。
創造の区別は、一体の奥義を映すために最初から置かれた善なる秩序であり、断絶は罪によって生じた異物です。御子の裂かれた肉によって断絶は取り除かれ、創造の区別はそのままに、一体の関係が実体として現れました。新しい地において輝く光は、キリストと花嫁の一体の栄光です。御父の栄光を御子が本質的に輝かせるように、御子の栄光を新しい人が本質的に輝かせます。キリストと花嫁の一体が七日目の安息において実現します。