― 創世記34章──シェケムとディナ 破綻した花嫁物語 嘆きから主の日へ(真の一体の成就)
Ⅰ 父祖の出来事は神の救いの御計画に定められている
創世記23章で黙想したように、父祖たちの歩みは、訓戒のためだけに記されたものではない。主と共に歩んだ人生の記録として後の日のために残されている。 井戸を掘り、祭壇を築き、契約を受け、悩みを通り、土地を買い、墓に葬られる―― これらは互いに切り離された出来事ではなく、 主が誓われたそれぞれの場所で、父祖たちの歩みの中に刻まれた預言的なしるしである。神の誓いと御計画の中心に、復活の信仰、一人の新しい完全な人、そして神の全イスラエルの完成とが、父祖たちの信仰の先に置かれている。
こうした理解のもとで創世記34章を黙想するとき、注意深く見るべきことの中に、シェケムの地の出来事、そしてそこに置かれたディナの嘆きの行く末がある。
ディナの出来事は、「罪の世に対峙するための教訓」や「肉による一体化が失敗した事件」として片づけることはできない。
愛されるはずであった娘が傷つけられ、結ばれるはずであった関係が破壊され、家族の中に怒りと恐れと暴力が生まれたという、深い嘆きがある。イスラエルの中でディナが穢されたこのようなことは「あってはならないことである」と記されている。
この嘆きは、神の救いの御計画から切り離された悲劇として終わることはない。ディナの嘆きもまた、神が御国の完成へ向かって歴史を進められる中に置かれた出来事として取り上げられ、後にキリストの日に回収されることを待つ一つのしるしとして読むことができる。それゆえ、創世記34章は「なぜこのようなことが起こったのか」という問いを抱きながら、「この嘆きが、神の御国の完成の中で、どこへ運ばれていくのか」を見つめる章なのである。
Ⅱ ミツパからシェケムへ──隠された一体と、肉による一体
創世記31章では、ヤコブとラバンの間にミツパの境界が置かれた。 人の目には隠されている事柄を、主が見ておられるという真実が証しされた。 肉による相続と霊による相続は、人間の力では一つにできず、主の御手の中に境界として保たれた。
しかし、その境界は完成の光景ではない。 主のみ使いは、隠された事柄を見張っておられる。 互いの目に隠され、肉において分離して見えるものを、神はご自身の時にご自身の方法で一つにされる。
隠された事柄とは、神の奥義としての知恵であり、 人間の肉による一体ではなく、 御子によって成し遂げられる一体の完成を待つ、奥義の啓示として置かれている。
創世記32章では、ヤコブは神と格闘し、もものつがいを打たれ、自分の力を砕かれながら、それでも神に祝福を求めてしがみついた。そして神から「イスラエル」という名を与えられた。
創世記33章では、そのイスラエルがエサウの顔を「神の御顔を見るよう」に見た。その後、ヤコブはスコテに仮庵を造り、シェケムへ来る。シェケムに祭壇を築いて、「エル・エロヘ・イスラエル」と呼んだ。ここは、イスラエルの神の名が置かれ、ヤコブが主によって勝利する者であることが確定し、宣言された場所である。
ところが、その直後に創世記34章の出来事が起こる。
ここには深い逆説と疑問が生じる。
イスラエルの神の名が置かれた場所で、イスラエルの娘ディナが傷つけられる。異邦のシェケムはディナを愛したと言い、彼女との一体を求める。しかしその愛は愛として成立せず、性暴力として現れたものである。ハモルは、「私たちの娘たちをあなたがたに与え、あなたがたの娘たちを私たちに迎えよう」「私たちは一つの民になろう」と提案する。そこには一見すると、「一つの民」という理想的で美しい言葉がある。しかし、それは神によって成し遂げられる一体ではない。穢れを帯びた肉のまま、欺瞞の聖別を通してイスラエルと一体になろうとする試みである。
ミツパで隠されていた神の奥義である一体が望み見られている中で、シェケムでは主の日に先立って、人間が自分の力で一つになろうとする姿が現れた。その結果、愛は姦淫のかたちをとり、割礼は欺きとなり、一体化の提案は虐殺へと変わってしまう。
ここに、キリストによる贖いがまだ成し遂げられていない時代に、肉によって一体を先取りしようとしたことの不義と悲劇とがある。
Ⅲ ディナの嘆き──救済史から忘れられない痛み
ディナは土地の娘たちを見ようとして出て行った。その先でシェケムによる暴力に遭遇する。シェケムはディナを見て、捕らえ、彼女と寝て辱しめた。そして彼女を愛したと言う。しかし、愛と呼ばれたものは、ディナにとっては汚れと傷となった。
その後、ハモルは結婚と一体化を提案する。しかしシメオンとレビは割礼を条件にして彼らを欺き、町の男たちを殺す。汚されたディナの痛みから始まった出来事は、シメオンとレビの怒りと暴力によってさらに大きな痛みへと広がった。父ヤコブはその結果を恐れ、ふたりの子らを責める。
ここには、非常に強い不調和がある。イスラエルという名を与えられたヤコブがいる。イスラエルの神の名が祭壇で呼ばれ勝利は宣言されている。しかし、そのイスラエルの家の中で、一人の娘が傷つけられ、その痛みに対する人間の応答がさらに暴力を生み出している。
だからディナの嘆きは、単純な「悪いことが起こった」という一場面では済まされない。それは、神の民の中にある未完成さ、肉による一体の限界、異邦との関係の破れ、そしてその破れに対して人間が自分の力で決着をつけようとすることの悲劇を、一人の娘の痛みの中に集約している。
しかし、シェケムの地でアブラハムが嗣業の約束を受け、神の誓いが置かれていることを覚えるなら、ここでディナの嘆きを救済史から切り離してはいけない。父祖たちの出来事がすべて御国の完成に向かうしるしであるなら、ディナの嘆きもまた、その完成の中に意味のあるものとして置かれている。神はその痛みを忘れずこの問題を取り扱われる。
主の日は、贖いによる勝利の日であり、キリストの苦難を経て実現する。信仰者の嘆きと苦難はキリストの苦難に接続し、贖いの道と苦しみの意味を指し示すものとなる。だからこそ、ディナの嘆きも、ただ裁きと罰の物語、訓戒として閉じられるのではなく、神の善と勝利が明らかになる日を待ち望ませる。
創世記46章でエジプトに降るときに、ディナの名は、後のイスラエルの形成の構成員として記され名が挙げられている。そのことは、彼女の存在と痛みが救済史から忘れ去られていないこと、神の救いの御計画から消されていないことを示すしるしとして読むことができる。痛みと嘆きは無価値な絶望のまま終わらず、主の日に意味のある形となる。御国の完成へ向かう歴史の中にその痛みは置き直される。だからディナの嘆きは、主の日を待ち望む嘆きとなる。
Ⅳ 割礼──聖なる境界が、暴虐の器にされる
創世記34章では、割礼が非常に重要な位置を占める。割礼は契約のしるしであり、聖別のしるしである。それは神の民と異邦との境界を示す。しかしシメオンとレビは、その聖なるしるしを欺きと虐殺のために用いた。
イスラエルの子らが聖なる律法を自分の怒りと暴力のために利用するという恐ろしい現実が現れている。聖なる境界を守る立ち位置をもってシメオンとレビは、暴虐の剣を振るった。つまり、シェケムでは、愛による一体化も破綻し、聖なる分離を守ろうとする人間の力も暴力へと変わった。
この二つは、どちらも人間の側から一体と聖を完成させようとする限界を示している。神が初めから成し遂げようとしておられた一体は、人間が肉において勝ち取るものではない。それは、主の日にキリストによってのみ成し遂げられる一体である。
だからシェケムは、単なる失敗の地ではない。そこには、キリスト以前には完成することのない「一体」の姿が、破綻した形で先に現れている。そして、その破綻そのものが、後にキリストによって完成される一体を待ち望ませる。
神がアブラハムにシェケムで約束の地を与えると誓われた祝福は、主の日に実現する救いの全うとして定められている。
Ⅴ 「買ったシェケム」と「剣と弓で取ったシェケム」
33章19節で、ヤコブはハモルの子らからシェケムの土地を銀百ケシタで買っている。この地はヤコブの所有として確定した。これは、アブラハムが創世記23章でヘブロンのマクペラの畑を代価を払って買い取ったことと重なる。
23章では、父祖が約束の地全体をまだ所有していないにもかかわらず、墓を買ったことに着目した。生前にカナンの地の所有を見える形で相続しなかった父祖アブラハムが、死を越えてなお神の約束の地へ帰るという復活の信仰が地上の具体的な場所に刻み込まれた証として、それを見た。アブラハムは寄留者でありながら、死に臨んでなお約束の地に墓を買い、その地への帰還を信じ――つまり神の永遠の都、天の故郷を望み見た。
同じように考えるなら、ヤコブがシェケムを買ったことも、単なる土地購入として読むことはできない。シェケムは、破綻することになる場所である。そこにはディナの痛みが刻まれる。しかし、その場所をヤコブもまた代価を払って取得している。シェケムは、信仰によって受け継ぐべき相続を意味付ける土地として確保されている。すなわちアブラハムの土地の購入と同様に復活の信仰に通じる父祖の命の刈り入れのための業である。ヤコブ自身の理解がどうであるかを超えて、 神によって救いの御計画の中に置かれる信仰の行為となる。
ヤコブの遺言において、意味深い言葉が示されている。ヤコブはヨセフにシェケムを与えるとき、「私が剣と弓とで取ったシェケム」と語る。一見すると、33章でヤコブがハモルの子らから代価を払って買ったという記録と矛盾するようにも見える。しかし、ここには信仰によってとらえる行為の結果が置かれている。
シェケムは平穏無事な所有として与えられたのではなく、ディナの事件、シメオンとレビの剣、敵意と暴虐がそこにはあった。この怒りの行為は呪われるべき行為として退けられる。それにもかかわらず、遺言の言葉では、ヤコブが「剣と弓で取った」とされている。虐殺の歴史を超えて、神の勝利の嗣業として扱われるという信仰の言葉が置かれている。肉の業の呪われるべき行為を、神のイスラエルとして信仰によって再定義して語られる、主の主権の内にある預言的な言語がここには置かれている。
肉の剣ではなく、神の勝利によって嗣業が確定されるという構造である。これは、主イエスに対する祭司たちの忌まわしい行為―― 着物を着せ、侮辱し、銀貨30枚を払い、十字架へ渡した呪われるべき人の肉の忌むべき行為――が、 神の救いの御計画の中で罪人への恵みの業へと置き換えられたのと同じである。見えるところでは呪われる行為であっても、神はその行為の先に、キリストにあって勝利と嗣業の構造を置かれる。
ヤコブは「信仰によって」、シェケムをヨセフに与えた。 破れの地は捨てられず、イスラエルの名によって聖別された嗣業の地となる。 ここに、「イスラエルである」という本質―― 肉によらず、神の勝利によって嗣業を得る者――が刻まれている。
したがって「剣と弓で取った」という言葉は、過去の出来事を語ると同時に、その場所が神によって嗣業として確定されることを信仰によって見る、預言的な光景を映すものでもある。ヤコブは、代価を払ってシェケムを買った。しかし、その土地は「剣と弓」の父祖の働きを通して、神の勝利によって受け継がせ、信仰の「実り」を刈り取る地として位置付けられる。そして、その土地は、最終的にはヨセフの相続地として渡される。
この悲劇と虐殺が生じたシェケムの地にあって、暴力と破れによって汚された歴史をも、神はそのまま捨て去られず、ご自身の主権の中で嗣業として受け継がせる歴史へと進められる。
23章の「墓の購入」とシェケムの「土地の購入」は同じ本質の信仰が受け継がれている。ヘブロンでは、墓を買うことによって、死を越えた約束が望み見られ、シェケムでは、破綻の地を買うことによって、人の業を越えて父のみこころが成し遂げられるべき地として、嗣業と救いの完成へと向かう約束が刻まれた。父祖たちの出来事は別々の歴史ではない。
Ⅵ ヨセフの相続──破れの土地に、復活のしるしが置かれる
シェケムは、その後ヤコブから特別にヨセフに相続地として与えられる。このことは極めて重要である。ディナの痛みが起こった場所が、そのまま「捨てられた場所」で終わるのではなく、ヤコブはそこをヨセフに与える。ヨセフは主の型である。
ヨセフはイスラエルの中で、痛み、死、そして回復を通る者である。ヨセフ自身が兄弟たちによって捨てられ、死んだもののように扱われ、エジプトへ下り、そこで神によって高く上げられる。そして最後には、彼自身が自分の死を越えた神の顧みを信じる。
ヨセフは、自分が死んだ後について、「神は必ずあなたがたを顧みてくださる」と語り、自分の骨を携え上るように命じる。彼は自分の遺体をミイラにして棺に納める。これは、単にエジプトの習慣に従っただけのこととして読むのではなく、弱くなっていくイスラエルの子孫の中に、自分の身体をもって神の約束をイスラエルの子らの中に置いた信仰の業――復活の信仰に通じるものとして読むことができる。
「神は必ず顧みてくださる」。 その信仰を、自分の体によってイスラエルの中に残すのである。だからヨセフの骨の帰還は、単なる葬送ではない。死んでも約束は終わらない。神の約束は、死を越えてなおイスラエルを顧みる。
そしてヨセフの骨は、最終的にこのシェケムへ帰る。
このことは、シェケムでの出来事と深い関連性を持つ。
ディナの嘆きが起きたその地。シメオンとレビの暴虐の剣が刻まれた地。ヤコブが代価を払って買った地。ヤコブが「剣と弓で取った」と語った地。
その土地に、神のイスラエルが顧みられることを信じて信仰をイスラエルの中に据えたヨセフの骨が帰ってくる。ここに、復活の信仰に生き、神の慰め、イスラエルの帰還を信じる救済史が置かれていることを見る。そして、その完成はキリストの日に現れる。
シェケムはヨセフの相続地として語られ、ヨセフの骨の帰還は、その相続が死を越えて顧みられること、復活の信仰を待ち望むことの前景となる。「剣と弓で取ったシェケム」という言葉には、暴力の歴史以上に、神による相続の確定が重ねられている。
つまり、ディナの嘆きの場所は、最後には復活の望みを得させる場所になる。だからディナの嘆きもまた、むなしく終わらない。
神はここに嗣業を置く。 相続の土地に、復活のしるしを置く。 そして復活のしるしによって、主の日を待ち望ませる。
Ⅶ ヨシュアとシェケム──相続が実際の民の中に確定される
ヨシュア記24章では、ヨセフの骨がシェケムに葬られたことが語られる。 ここで、ヤコブが買った土地、ヤコブが相続としてヨセフに与えた土地、ヨセフが死を越えた約束を託した土地が、イスラエルの相続の中に置かれる。
これは、23章でヘブロンの墓が父祖たちの死によって約束を終わらせるのではなく、むしろ死を越えて約束を継続するしるしとなったことと同じ方向を持っている。
父祖たちの出来事がそこに刻まれ、神の約束を後の世代へ証言する器となる。
Ⅷ ベテルへ向かうイスラエル──ディナの嘆きはまだ終わっていない
ヤコブはすでに神からイスラエルと呼ばれている。そして創世記34章の後、神はヤコブにベテルへ上るように命じられる。
ベテルは、神の召しと誓いの起点である。「あなたを帰らせる」「わたしは成し遂げる」という神の誓いは、ヤコブ一人の帰還だけではなく、失われた神の民が、イスラエルとして神のもとへ帰ることを含んでいる。
ベテルは「あなたを帰らせる」「わたしは成し遂げる」という神の誓いが、全うされたイスラエルの帰還を含むものとして読まれるものである。
シェケムからベテルへ向かう旅路は、単なる地理的な移動ではなく、シェケムで一体が成し遂げられないヤコブのままとせず、神がイスラエルとしてきよめ、整えて、主の御前に立たせ、そして、神のイスラエルとして父の家へと帰らせる。ここに救済史の方向がある。
ディナの嘆きは、一体の不完全な表れとしてキリストの贖い以前に現れ出た。この世が贖われておらず、罪の世とは隔てられなければならないからである。しかし、キリストの十字架によって、律法の隔て・敵意を廃棄し、十字架によって世界を和解させ、ご自分の民を清め、異邦と御民の一体を成し遂げて、一人の人に作り上げ、神のイスラエルとしてベテルで立たせる。そこに、神の誓いの完成がある。
イスラエルの神なる神、エル・エロヘ・イスラエルという、イスラエルの勝利は、異邦の敵らを欺き、暴虐の剣をもって屈服させることではない。自分を害した者を永遠の敵として固定化することでも、敵意によって汚れたものを滅ぼすことでもない。キリストの勝利が、世界に祝福の源となったように、敵意のあった人との隔てを、また神と人との間に罪のための敵意を、十字架によって除き去り、無価値なもの・罪ある者に神の恵みだけが働くとき、相手の顔の中に神の救いの御業、救いの対象を見る、ここに勝利がある。
しかし、罪の世に対して、罪に打ち勝つ力がない時に、一体どんな勝利があるだろうか。
贖われていない世界に対して、勝利はいつ実現するのだろうか。神の約束をいつ果たされるのだろうか。ここに信仰がある。
創世記32~33章でヤコブに定められた勝利の道は、シェケムで剣を振るって相手を屈服させる道とは異なる。イスラエルの勝利とは、相手を滅ぼすことではない。
主ご自身が汚れを引き受け、痛みを担い、贖いを果たし、御子によって敵の門を勝ち取る――その勝利の道こそ、神がイスラエルに得させる道である。
Ⅸ シメオンとレビ──剣の痛みが、キリストの杯へ向かう
シメオンとレビは、暴虐の剣により「境界線を越えた者」である。二つの部族はこの事件のゆえに、その結果をそれぞれの道としてたどる。
創世記49:5-7
シメオンとレビとは兄弟、彼らの剣は暴虐の道具。
わがたましいよ。彼らの仲間に加わるな。わが心よ。彼らのつどいに連なるな。彼らは怒りにまかせて人を殺し、ほしいままに牛の足の筋を切ったから。
のろわれよ。彼らの激しい怒りと、彼らのはなはだしい憤りとは。私は彼らをヤコブの中で分け、イスラエルの中に散らそう。
シメオンは共同体に散らされる方向へ、レビも共同体に散らされるが、聖別され、祭司職へ転換される祝福へ進んでいく。
父祖ヤコブの言葉は、内容が裁きであっても「祝福の形式」の中で語られている。族長の祝福は、神の民の未来を形づくる言葉である。その中に、裁き、整え、聖別、贖い、役割の再配置が含まれる。
祝福は、彼らの行為を肯定するものではない。
その行為の裏側で、神の民の未来が定められ、この枠組みの中でシメオンとレビの未来は「散らされる」と定められている。裁きの側面を持つが、祝福の形式の中で語られる「神の民の整え」に関する事柄として黙想できる。
シメオンは創世記49章で「彼らをヤコブの中に散らし、イスラエルの中に散らす」と宣告され、散らされる部族のままとなる。土地の割り当ても限定され、ユダ族の中に吸収される。申命記33章では、モーセの祝福の中でシメオンの名が出てこない。
しかし新約では、シメオンという名を持つ個人の人物において、イスラエルの慰めを待ち望み、「私の目はあなたの救いを見ました」と幼子イエスを祝福する形で現れる。部族として沈黙したその名が、人物としてキリストの慰めを証しする者の中に登場する。
さらに、ペテロの本名はシメオン・バルヨナである。ペテロは初臨において、主に向かって最初に駆け寄る者として描かれる。ガリラヤ湖で真っ先に従い、水の上を歩こうとして主に向かい、主の変貌に立ち会い、主の逮捕の場で剣を抜き、復活の知らせを聞いて墓へ走った。一方で、主を三度否認し、恐れに負け、自分の力で主を守ろうとして剣を抜く。
ペテロもまた「境界線を越えた者」である。しかし主は彼を回復し、三度の愛の告白を通して「わたしの羊を飼いなさい」と委ね、ペンテコステでは説教者として立たせ、イスラエルの散らされた者たちへ福音を語る先駆者とされた。最終的に彼は殉教によって主への愛を証する。
レビもまた、暴虐の剣を振るった。創世記34章では欺きの兄弟に対して剣で虐殺したが、出エジプト記32章の金の子牛事件では、モーセの「主の側に立つ者は私のもとに来い」という呼びかけにレビ族が集まり、剣を帯びて兄弟、友、隣人に向かうことになる。ここでは神の聖を守るための剣として、兄弟たちに対して剣をふるった。そのようなレビは散らされることだけで終わらず、幕屋に仕える祭司の部族となっている。
レビとシメオンの暴虐の剣については、ペテロの剣において主が語られた言葉を聞く必要がある。
ペテロが主の逮捕の場で切りつけた相手は、堕落した兄弟である大祭司のしもべである。しかし主はペテロに剣を収めさせ、剣によってではなく、ご自分に渡された杯を飲み干される形でその戦いを収められた。兄弟である大祭司たちの不義と姦淫の結末に対して、十字架を身に負い、聖の剣をご自分に刺し通して不義に対する義の裁きをその身に引き受けて、贖いを果たされた。肉による勝利ではなく、イスラエルの勝利の中にキリストご自身が神の御手に委ねられたのである。
苦難はキリストの杯と接続する。主イエスはゲツセマネで「この杯を取り去ってください。しかし御心が成りますように」と祈られた。しかし、苦難と嘆きを通ることなしに主の勝利――新しい命はない。主はその痛みを通られ、その先に贖いの新しい命が置かれた。
それゆえ、ディナの嘆きも、シメオンとレビの怒りも、キリストの贖いの御業の中で、この物語が読み解かれる。
主は痛みを無かったことにはされない。
ディナの嘆きもまた、主の日の勝利において慰めを見る。
Ⅹ シェケムからサマリヤへ──破綻した花嫁が、真の夫に出会う
ここでシェケムの奥義は、さらに新約へ延びていく。ヤコブがヨセフに与えたシェケムの嗣業の地は、後のサマリヤへとつながっていく。そして、スカルというその場所(ヘブライ語でシェケム)で主イエスはヤコブの井戸に腰を下ろされる。
サマリヤの女の物語は、破綻した結婚物語でもある。五人の夫があり今いるその者も夫ではない、という。サマリヤそのものが、イスラエルとの断絶と混血の歴史を背負った、破綻した民として現れている。サマリヤは神の民でありながら、王国分裂以来偶像崇拝の中に生き、捕囚の時まで離れなかった。アッシリヤによって占領されたとき、神の民は散らされ、異教の5つの民が偶像を持ち込んでイスラエルの民と混血した。彼らは神の民でありながら異邦の民であり、神を礼拝しながら偶像を礼拝した。しかし、サマリヤの女はヤコブに与えられた嗣業の約束とメシアの到来――救いの主の日の約束を抱き続け、ヤコブの井戸の水によって生きながらえる主の所有の民であった。主はあなたの夫(バアル)を呼んできなさい、と語られ、そして、命の水を与える方について、礼拝について、そしてメシアについて証しされた。「わたしがそれ」である、「わたしこそ、その『わたしがある(エゴーエイミ) 』という約束のインマヌエルである」と。ベテルでヤコブに誓った誓いのインマヌエルの主、「あなたがどこへ行っても決して捨てない」「あなたを返らせる」と誓われた主こそ、「わたしである」と。
それは創世記34章のシェケムと重なる。
異邦に落ちた神の民――律法によって敵意が置かれた神の民を、一つのイスラエルとする「わたしのものを決して失わない」とされる主の約束、御父のみこころが成し遂げられなければならない誓いの果たされる光景。
一体は、肉によっては完成しない。キリストが成し遂げる唯一の働きによってのみ実現する。
救いがどこから来るのか。父祖ヤコブは約束を与えたのにサマリヤの女は礼拝すべき方も、礼拝すべき場所もわからない。この山で礼拝すべきなのか、エルサレムなのか。今自分と共にいる者が真の夫ではないという破綻した花嫁がそこにいる。主はサマリヤの女に、いのちの水を与える方として「彼女の傍ら」におられた。彼女の前に、真の夫となる方として、礼拝すべき方としてキリストが立たれる。この方こそ、彼女の全てを見届け、探して見出し、「彼女のしたこと全てをご存じ」の方である。シェケムでの破綻した花嫁物語が、キリストの日に、救いの光景を描いている。
主がサマリヤを通らなければならなかったこと、ヤコブへの「あなたを帰らせる」「あなたと共にいる」という誓いが、ヨセフに与えられたシェケムの嗣業の地でサマリヤの女に対して現実のものとなったことは、神の約束の確かさを証言している。
だから、シェケムは「破綻の地」で終わらない。 神は決してご自分の民を捨てない。それは、必ず、ご自分のものをご自分のものとして全うさせるという意味である。サマリヤは、神の民として主が探されるイスラエルを帰らせる代表的な光景である。
主が探して見出された姿は、「決して見捨てない」という主の熱心である。そして、贖いの十字架の後、はじめに「主のからだ」として築きあげられたものこそ、律法の敵意、異邦人とユダヤ人という二つの民の中にあった血肉の隔てを取り除いて、約束により、キリストご自身の御声に呼ばれる神の民の一体として建てあげられる主の教会の姿がある。ここに神のイスラエルとしての帰還がある。
異邦人とユダヤ人という別々の完成された民として残すことではない。キリストによって隔てが除かれ、一人の新しい完全な人として、神の一つの民へと集められていくこと――神が初めからしようとしておられた一体は、肉による一体ではない。キリストによる一体である。
Ⅺ エシェット・ハイル──主の日に現れる花嫁の姿
このように見ると、終わりの日の救いの働きとして、箴言31章の賢い妻「エシェット・ハイル」の姿も見えてくる。創世記34章では、異邦との一体が肉によって求められ、その結果は破綻した花嫁物語となった。
しかし箴言31章では、花嫁は自分の家のためだけに閉じているのではない。商人の船のように遠い所から食料を運んでくる(出入りする)(14節)。彼女は羊毛と亜麻を求め(13節)、自分の手で仕事をし、家族に食物を与え、貧しい者に手を開く。ここには、分けられていたものを神の秩序の中で扱い、家を整え、備え、外へ向かって働く花嫁の姿がある。
キリスト以前には、異邦の穢れと神の民イスラエルは分離されていなければならなかった。羊毛と亜麻は一つに織ってはならなかった(申命記 22章11節)。異邦の世界と行き来してはならなかった。もし、世界に勝利する前に、イスラエルとなる前に世界と行き来したら、捕らえられ汚されてしまう。するとそこには律法と敵意が存在する。
しかし、主の勝利の後には、主が勝利しておられるがゆえに、敵意は取り除かれ、異邦とイスラエルの隔ては除かれる。
聖別は霊と肉に対してであり、血肉に対してではない。
一つの神の民が主の花嫁として整えられていく姿がここにはある。それが、神のイスラエルである。
エシェット・ハイルは、単なる「良い妻」の高貴な模範だけではなく、主の日に完成される花嫁の姿を待ち望ませるものとして読むことができる。
創世記34章のディナの嘆きは、分離されなければならない時代、境界が置かれている時代の、キリストにある勝利が果たされていない中での、肉にあるしてはならない混合によって生じたものであった。
そこに生じた悲劇は、完成から遠い失敗と敗北に見える。しかし、この異邦との一体に関する、破綻と嘆きは主の日を待ち望ませる。破綻した花嫁が真の花嫁へとキリストの十字架の御業の奥義へと回収される。肉による一体が失敗した歴史の彼方で、キリストによる一体が待ち望まれている。
そして、その完成は、ディナの痛みをなかったことにすることによってではなく、その痛みをも神の御国の完成の中に置かれることによって、慰めを得る。
Ⅻ 「エル・エロヘ・イスラエル」──破れの地に立つ勝利の歌
創世記33章でヤコブはシェケムで祭壇を築き、それを「エル・エロヘ・イスラエル」と呼んだ。34章の悲劇はその直後の出来事であった。
祭壇の主の名は、この事件と無関係に建てられたものではない。
「エル・エロヘ・イスラエル」は、人の道に敗北と見える破れの只中で、主の勝利、主の日を証しする。ディナの嘆きがあり、シメオンとレビの暴虐の剣があり、ヤコブの恐れが記される。それでも、イスラエルは、神によって勝利を得る者として定められている。ここはイスラエルの神の場所である。
神はイスラエルのただ中におられる。そして、その嘆きをそのまま終点にされない。
だから、ディナの嘆きの上にも、この神の名が立っている。神に忘れられた嘆きではない。 主の日に意味を持つ嘆きである。
結び シェケムの嘆きから、主の日の花嫁へ
創世記34章を読むとき、私たちはディナの嘆きを軽く扱ってはいけない。
これは本当に悲しい出来事であり、可能であるなら、その限りにおいて最大限の教訓を受け取るべきである。
しかし、世の不条理に信仰者はなおも置かれている。愛と呼ばれたものが暴力となり、一体になろうとした言葉が死を生み、聖なる割礼が欺きと虐殺の器にされ、イスラエルの家の中に深い傷が残った。
しかし、神の救いの御計画を父祖への誓いの中に見出すとき、この出来事をそこで閉じることもできない。父祖たちの出来事は別々の歴史ではない。
ディナの嘆きも、シェケムの破れも、ヤコブの恐れも、ヨセフの相続も、ヨセフの骨も、サマリヤの女との出会いも、すべて御国の完成へ向かう一つの線の中に置かれている。
Ⅰ シェケム──破綻の地が相続の地となる
シェケムは、ヤコブが代価を払って買った土地である。 そして同じシェケムを、ヤコブは「剣と弓で取った」。
その土地はヨセフの相続地となる。ヨセフは死を越えた神の顧みを信じ、自分の骨をイスラエルに託す。神の復活の力を信じる信仰が表明され、その骨はやがてシェケムへ帰る。
Ⅱ サマリヤ──破綻した花嫁が真の夫に出会う
そしてそのシェケムの地、サマリヤで、破綻した花嫁が真の夫であるキリストに出会う。
シェケムでは、この嘆きと暴力の破綻がヨセフの相続地として選ばれ、相続が復活の信仰へつながり、復活の信仰が花嫁の命の出会いへつながり、最後にはキリストの日の完成を待ち望ませる。
Ⅲ 嘆きは消されず、完成の中に置かれる
そして何よりも、ディナの嘆きそのものが、その救済史の中に置かれている。神は嘆きを消すのではなく御国の完成へ運ばれる。
ヤコブは、イスラエルとしてベテルへ向かう。ベテルは、神の誓いのもとへ帰る場所である。
ヤコブが帰ることは、失われた神の民が、また、散らされたイスラエルが帰ることとも重ねられる。そして全イスラエルが回復され、キリストによって異邦とユダヤの隔てが除かれ、一つの神の民となり、花嫁として整えられる。これは、シェケムすなわち神の
約束の地での最初の出来事、十字架の贖いの業が最初に為すキリストの御働きであり、一体の一人の人を作り上げる主の復活の業である。
Ⅳ 肉による一体の失敗と、キリストによる一体の完成
創世記34章の肉による一体の失敗した光景は、ベテルへの帰還の中で果たされることになる、ミツパで主のみ使いが見張ったキリストの日に起こる奥義の実現によって、真の御計画を見届ける。シェケムで起こった破れは、キリストによって回収される完成を待と望ませる。ディナの嘆きも、その完成において、慰めを待つものとなる。
アブラハムが主の日を見て喜んだように、ヤコブもまた、まだ見えていない完成を望み見るという理解ができる。
ディナの嘆きが、主の日には慰められる。主の日には回収される。イスラエルの散らされたことが、主の日には集められ、失われた主のものが探し出される。異邦とイスラエルの隔てが主の日にはキリストにあって除かれる。主に勝利が置かれているゆえに。
そして、一つの神の民が、一人の新しい完全な人として、キリストの花嫁として全うされる。
Ⅴ 破綻した花嫁物語から、主の日の花嫁へ
34章の肉による合一は悲劇であり、異邦の愛は歪み、割礼は悪用され、肉による一致は破綻した。これはキリスト以前の世界の敗北である。しかし、この不完全さの中にこそ、完成の時を待つ本体の愛が写されている。
「破綻した花嫁物語(創世記34章)」→「禁じられた混合(律法)」→「混合を扱う賢い妻(箴言31章)」→「キリストの勝利(主の日)」→「異邦のきよめとイスラエルの一体化(終末)」
Ⅵ 救済史の線の終点──主の日の慰め
それゆえ創世記34章は、嘆きのままで終わらない。
シェケムの嘆きから、聖別を経てイスラエルとしての帰還へ。それは、全イスラエルの回復、異邦とユダヤの隔てが除かれる一体、一つの神の民。キリストの花嫁の整えについての光景である。そして主の日の完成へと向かう。
ディナの嘆きは、罪の世において受けたイスラエルの嘆きと痛みであり、主の日に、神の善と勝利の中に置かれ、慰められるものであることを信じることができる。