聖書研究会 原稿

鈴ヶ峰 キリスト 福音館

/投稿2004/3/27/ メッセージ200351日(金)

金持ちの青年

 

―― 良い方はひとりだけである ――

マタイの福音書19:16-26
19:16 すると、ひとりの人がイエスのもとに来て言った。「先生。永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをしたらよいのでしょうか。」
19:17 イエスは彼に言われた。「なぜ、良いことについて、わたしに尋ねるのですか。良い方は、ひとりだけです。もし、いのちにはいりたいと思うなら、戒めを守りなさい。」
19:18 彼は「どの戒めですか。」と言った。そこで、イエスは言われた。「殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。偽証をしてはならない。
19:19 父と母を敬え。あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」
19:20 この青年はイエスに言った。「そのようなことはみな、守っております。何がまだ欠けているのでしょうか。」
19:21 イエスは、彼に言われた。「もし、あなたが完全になりたいなら、帰って、あなたの持ち物を売り払って貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」
19:22 ところが、青年はこのことばを聞くと、悲しんで去って行った。この人は多くの財産を持っていたからである。
19:23 それから、イエスは弟子たちに言われた。「まことに、あなたがたに告げます。金持ちが天の御国にはいるのはむずかしいことです。
19:24 まことに、あなたがたにもう一度、告げます。金持ちが神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。」
19:25 弟子たちは、これを聞くと、たいへん驚いて言った。「それでは、だれが救われることができるのでしょう。」
19:26 イエスは彼らをじっと見て言われた。「それは人にはできないことです。しかし、神にはどんなことでもできます。」

 

 ここに出てくるひとりの人は、青年であり、共観福音書の別の記事では「ある役人」として出てくる。このひとりの人がした質問は私たち人類が神様に対して問う最も大きな質問のひとつであろう。永遠の命を得るためには何をすればよいか。「先生。永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをしたらよいのでしょうか。
 永遠の命とは、永遠の救いのことであり、天の御国に入るということを指している。すべての人が神様に対して問いたかった質問がこの青年の口によって救い主であるイエス・キリストに向けられたわけである。
 いままで、既にイエスの前に出てきた律法学者やパリサイ人たちがイエスに対して律法問答を挑戦してきた。だがここでなされている質問は、単なる律法問答や聖書解釈の一ケースとして紹介されているわけではないと思われる。

 イエス様はこの記事が描かれる19章の前後にかけて、天の御国について語っておられる。このちょうど前の段落では、たとえ話や教えを通して「天の御国はこのような者たちの国です」と示していかれる。しかも、その天の御国はイエス・キリストの十字架の贖いによって実現する来たるべき世として教えられている。つまり、天の御国を示されるその前後にかけてはっきりと主はご自分の十字架のことを弟子たちに語っていかれたのである。
 16・17章で、主は弟子たちにご自分が十字架にかかられることを予告された。それから、天の御国がどういうものであるかを語って聞かせられた。そして、今日読んだ青年との命に関する教えの記事がある。続いて、20章でイエス様は天の御国の話をされ、その後再び12弟子だけを呼んでご自分が十字架にかかるということを語られるのである。
 主が弟子たちに天の御国を示されている狭間に、ひとりの青年がなした質問が記されている。それはどういうものであっただろうか。「先生。永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをしたらよいのでしょうか。
 主はこの問いにおいて、「ご自分が十字架によって為される贖い」ということに焦点がむけられている中でお答えになっておられるということに私たちは心を留めておきたい。

 

 さて、青年はイエスに言った。永遠の命を得るためにどんな良いことをすればよいのだろうか。彼がこの質問をする時、彼はその生き方において、ひとつひとつの規則を守り行ってきたことを確認していただろう。神がモーセを通して与えた律法の一つ一つを守るという生活の中でキリストに問うのであった。イエス様はむろん彼を知っておられた。その彼に主はどのように答えられただろう。
17節に記されている。「なぜ、良いことについて、わたしに尋ねるのですか。良い方は、ひとりだけです。

 青年の質問に対するこのイエス様の回答は分かりにくい。「なぜ、良いことについて、わたしに尋ねるのですか。良い方は、ひとりだけです。」これは分かりにくいが、しかし、イエス様はダイレクトに質問の中核を回答しておられると思われる。このひとりの人は、様々な規定や規則、律法から出てくる細則といった、行為の一つを取り上げてイエス・キリストに対して問うている。
 「いったい私は律法の守るべき行為としてどんな良いことをすればよいでしょうか。」と聞くが、主はなぜ良いことについて尋ねるのかとお答えになる。そして核心的な回答をされる。その核心的な回答とは、「良い方はひとりだけです」という言葉である。青年が聞きたかったのは、永遠の命を得るために為すべき善がどういうものであるかということであり、つまり、「私があとしなければならない良いことは何ですか。」「天国に入るための私がなすべき善は何ですか。」というものである。彼の質問とイエス様の回答とはかけ離れている。主はまず良い方についてはっきりと示された。
 彼は行為としての律法のひとつとして為さなければならない善について主に尋ねるが、主は「良い方はひとりだけだ」とまず根源的な回答をされた。命を得るためにしなければならないことが何か、と律法のひとつひとつを取り上げ思い描き、主に質問しただろう。しかし、主は良い方はひとりだけであり、父なる神ただひとりであると答えられる。
 ただ、父なる神に受け入れられるときのみ、ただ、神の満足があるときにのみ、彼は受け入れられる。良いことの本源は、唯一である。良い方はひとりだけである。律法の何がしかを行うということは、すなわち、多くの施しをしたり、良いことを為す、というこれらのことは、そこに神様の喜びと御思いがあるから、それらのことが良いのである。彼が主に問うたのは、律法の何がしかを行うある一つの行為についてであったが、主は「良い」ということの中心と目的が父なる神様ただおひとりであることを示されたのであった。

 ここで、命を得るために人が求める良いこととは、父なる神の満足であり、ただ父なる神に受け入れられるということに意義がある。そしてそれか主イエスの回答であった。まずそう答えられた上で、主はその規則の一つを良いこととしてわたしに尋ねるのですか、と問われたのではないだろうか。「みこころはどのように示されているか。それは律法の書に記されている。いのちにはいりたいと思うなら、戒めを守りなさい。
 人がなすべき律法の根源というものが、父なる神に完全な者として受け入れられるためであることをここで示されたのだと思う。だから永遠の命を得るための良いことというのは神の満足に他ならない。それが求めるべき善であり、欠けのない律法行為である。

 

―― あなたが完全になりたいなら ――

19:18 彼は「どの戒めですか。」と言った。そこで、イエスは言われた。「殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。偽証をしてはならない。
19:19 父と母を敬え。あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」
19:20 この青年はイエスに言った。「そのようなことはみな、守っております。何がまだ欠けているのでしょうか。」
19:21 イエスは、彼に言われた。「もし、あなたが完全になりたいなら、帰って、あなたの持ち物を売り払って貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」

 イエス様は、別の記事で「あなたにはまだ欠けたものが一つあります」と言われた。もし、神の満足として受け入れられないならば、だれも命に入ることはできないのである。人は不完全な状態では決して御父に受け入れられない。天の御国・永遠の命に入ることはできない。一つの善を行おうと、はたまた99%の善を行いえたとしても、神の前に完全でなければ誰も神に受け入れられることはない。神が完全なものをしか受け入れられないというとき、あなたの一つの欠点というものは、その一つの欠けが決定的に神の御前には不合格であり、いのちに入ることはできないということなのである。なぜなら、神はその者を神の満足として受け入れることができないからである。それゆえ、21節の「もし、あなたが完全になりたいなら、」との言葉は、神に受け入れられたいならということである。このことは、人が不完全であることを居直らせる事実ではない。すなわち、一つの欠けがあるゆえに神の前に完全でないとしても、受け入れられるのだったら多くの欠けがあったとしてもかまわないというのではない。一つだろうと多くだろうと欠けがあっても受け入れられるのではなく、その一つの欠けが決定的に神の前に受け入れられないという状態を示している。

 私たちがこの記事を観るとき、この青年が完全なことを求めたのが自分の限度を越えて求めた傲慢であるとしてみるべきではない。所詮、人は不完全で良いのだというのではない。ここで主が言われたのは、人はすべて完全でなければ父なる神に受け入れられないのだという事実を言っている。僅かな欠けさえも永遠の命を得ることに関しては不合格であり天の御国に入る資格がないという現状を指して言われたのである。だから信仰者は不完全な状態で神に受け入れられると思ってはならない。罪人である信仰者の不完全さは決してそのままでは神に受け入れられるものではない。神の満足がそこになければ神は受け入れることができない。
 これは聖書の語る真実である。
 不完全でもかまわないのではなく、私たちが受け入れられるのは、ただイエス・キリストの贖いによって私たちが不完全なままとはされず、完全なものとみなされる故である。キリストの完全さ、キリストに対する御父の満足によって私たちは受け入れられる。
 このことは、罪を犯してしまう人間が哀れまれるべき存在であるというので、キリストの完全さを抜きにして自分たちの不完全な状態で神に受け入れられるということは決してありえないということである。

 主はこのところで青年に「あなたが完全になりたいなら」と語っていかれた。完全でない今の状態では、そのままでは決して受け入れられないのだという事実を指している。だからこの言葉の持つ意味は、「あなたは完全になる必要がある」との言葉である。

 この青年との応答は心の通わない単なる律法問答ではない。主の応答されたこの記事は、ご自身の十字架による贖いの御業を予告された記事の前後のなかに描かれた光景である。それに呼応して、到来する天の御国について御言葉が語られていく。この贖いによる永遠の救いを背景にして主は彼に応えられたのではないだろうか。だから、「もし、あなたが完全になりたいなら、帰って、あなたの持ち物を売り払って貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」との言葉は、福音である。主イエスの恵みの呼びかけであると私は思う。イエス様は既に永遠の命に至る良いことの根源は律法の一つ一つの細則にあるのではなく、行いを規定する律法の文字にではなく、良い方にあるということを示された。
 「もしあなたが完全になりたいなら」という言葉は、単に肉の限界や律法を行い得ない限界を示すだけの意味ではない。また、持ち物全部を捨てて主に仕えるよう言われた言葉が彼自身に行いえない罪の限界を示す意図で発せられた言葉ではないだろう。
 「もしあなたが完全になりたいなら」という言葉には、イエス・キリストの救いに預かるべきことを指し示している。そして、ここでの言葉は、神の子の呼びかけとして実践を促している恵みの福音であると感じられる。彼がこれに応答することを主は真実に求められていたであろう。マルコの福音書には、彼が「そのような律法はみな守っております」と言ったとき、主はどういう態度で彼に接せられたか、それは、「主は、彼を見つめ、その人を慈しんで言われた」と描かれている。イエス様の彼に「もし、あなたが完全になりたいなら、帰って、あなたの持ち物を売り払って貧しい人たちに与えなさい。そのうえで、わたしについて来なさい。」との呼びかけは、彼に対する慈しみと哀れみの眼差しの中で語られた言葉なのである。イエス様のその哀れみの御思いは、この青年が最終的にイエスご自身と共にいるようになることを願ってくださり、主はそのように導いておられた。それは、キリスト共にいることこそ、彼の完全に成る唯一の道であったからである。
 十字架の贖いに焦点が向けられる中で、この青年と主との応答がある。ただひとり父なる神の満足であり、父なる神に完全な者として受け入れられるイエス様の十字架の業によって、命の君である主が私たちに慈しみの眼差しを向け、不完全で神のいのちから遠い罪人を前にして、慈しんでご自分の道に従うことを促しておられる。

 「あなたが完全な者となるためにすべての財産を投げ出して私についてきなさい。」との語りかけは、今でも常に私たちに対する信仰のチャレンジである。これは実践不可能なものとしての呼びかけだろうか。私は主はそういう意図で語られたのではないと思う。主は「私についてくる者」「私の弟子となる者」の厳しい姿を多くの個所で示された。イエス様は真実に「すべてを置いて私についてくる」このことを求めておられる。
 キリストの完全となるために肉を離れてキリストにつながりなさい。この呼びかけは使徒たちの言葉を通しても私たちに投げかけられている。そこには主を信じる信仰が要求される。また、主に頼るしかないという唯一の信仰をも要求される。
 このような信仰は非常に偉大で純粋な信仰であるが、この偉大な信仰を持つにいたることは私たちにとって困難である。しかし、このすべてを置いて私について来るというイエス・キリストの呼びかけは、私たちにとって信仰の最初(初歩)でもあり、同時に限りなく連続する私たちの信仰生活の問いである。

―― 富める者の不幸 ――

 ひとりの青年へのこのよびかけは、イエス・キリストのご自身の慈しみの眼差しの中での促しであった。貧しい者のために持ち物全部を売り払って私についてきなさい、といわれたとき、彼は富める役人であった。彼の多くの財産は御国の門を自分が通れなくなるほどに狭めている
 私たちがもし、自分で自ら得たものを堅く持って離さないなら、神はその人に御国の相続を与えることがおできにならない。自ら持っているもの、自分の力で築き上げたもの、自ら獲得したもの、こういう自分が持っているものが多ければ多いほど、またそれらが尊いと思えば尊いと思うほど、私たちはそれらを離し難く捨てがたい。しかし、それらは自分で得たものである以上、この世のものであり、霊的なものとは逆行する地上的なしがらみである。

 私たちは財産があればあるほどそれを失いたくないであろう。知識や名誉があればあるほどそれらを捨てがたい。しかし、主はその人が握っているその手に彼が築き上げて離さない地上的な財産ではなく、主は、地上の富を放してその手に天の富をつかませたいと願っておられる
 自分の生きてきた地上の富、すなわち自分が為してきた「良い行い」や自分で「獲得した財産」、自分の「築き上げてきた人生」などは、神の前には不完全で受け入れられない欠点のあるものである。永遠のいのちにいたることの出来ないその不可完全さは神に受け入れられない。私の人生は神に受け入れられない・・・だから、主はそのようなあなたが築き上げてきた人生、あなたが得てきた財産、自分で得た力、そういう地上的なものから離れて、キリストに従うイエス様の完全さで生きることを主は求められた。

19:23 それから、イエスは弟子たちに言われた。「まことに、あなたがたに告げます。金持ちが天の御国にはいるのはむずかしいことです。
19:24 まことに、あなたがたにもう一度、告げます。金持ちが神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。」

 金持ちが天の御国に入るの難しい。

 自分が持っているものが多いほど、自分で築き上げてきたものが尊いほど、それを放すことは困難である。
 自ら多く持っている者はなんと不幸であろうか。なぜならそれを捨て去ることが困難だからである。
 主は御国の光景を山上で示された。「貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。
 自分の善とか自分の行う義を堅く持つものは不幸である。自分の生来の行き方を捨てがたい人は神の与える新しい生き方、神の義によって生きることを願うことが出来ないからである。

 主は心の貧しいものは幸いであると語られた。また義に飢え渇いている者は幸いです。その人は満ち足りるからです。と。
 天の御国を主が語られるとき、自分自身で多く持つもの、自分自身の義を持つものが神の国で不幸であるとイエス様は語っていかれた。その背景には、それらから離れてイエス・キリストが与える人生、主が与える財産でその人が生きることを願われているからにほかならない。それなのに自分の財産を手放すことが出来ないなら、それらの地上的なしがらみは自分が御国の門を入ることが出来なくなるほどに狭めている。主の目には金持ちのありさまは憤慨や嘲笑の対象として映ったのではなく、慈しみと哀れみの眼差しがその人に向けられていたのである。

 

 この視点における教えは、先の18章のたとえの中にも含まれていた。主は兄弟を赦すことを神の赦しと比較して弟子たちに教えられた。

――天の御国は地上に王にたとえることが出来る。一万タラントの借りのあるしもべが、王のところに連れて来られたが返済することができなかったので、主人は、かわいそうに思って、彼を赦し、借金を免除してやった。ところが、そのしもべは、同じしもべ仲間で、百デナリの借りのある者に出会い、その人をつかまえ、首を絞めて、『借金を返せ。』と言った。ひれ伏して頼んだが、彼は承知せず、借金を返すまで牢に投げ入れた。
 ここで、しもべ仲間を赦さなかった人は天の御国に相応しくない者として描かれていくが、どうして、彼はそのような態度をとったのだろうか。彼は自分の持っている彼自身の所有財産を隣人(兄弟)に貸したとき、それが自分のものであったために失うわけにはいかなかった。彼の所有している財産への固執が主人から受けた赦された恵みをその人に実現することが出来なかった。ここで、主は赦しについての教えをなされている。兄弟を赦すことが出来ないとは、神が赦しておられるのに、赦せないという姿であろう。神とは離れた自分自身の持っている義の基準が兄弟を赦すことを困難にしている。自分自身で何も持たなければ、その人は神の赦しと神の義によってだけで兄弟に相対することができるはずであるが、自分自身の手離す事の出来ない義を持つなら決して赦すことはできなくなる。たとえにあるように、自分自身の持っている財産があるためにそれを失うことができなくなるのである。
 また、主は天の御国を別の視点で教えられた。

――幼子たちを抱き寄せて天の御国はこのような者たちの国ですと語られた。
 幼子は何一つ自分からは人生を築き上げず、何一つ持っていない者たちである。ただ父・母の恵みのみにすがり生きるものである。しかし、その幼子の姿を指して、主は天の御国の光景を示される。

 天の御国は自分自身で得ているものが多いほど神が与えようとされるいのちの生活と離反しているということが分かる。だから金持ちが天の御国に入ることは難しい。金持ち・富める者が天の御国に入ることがどんなに困難なことであるかを言われるとき、弟子たちは主に尋ねた。

―― 神にはどんなことでもできる ――

19:25 弟子たちは、これを聞くと、たいへん驚いて言った。「それでは、だれが救われることができるのでしょう。」
19:26 イエスは彼らをじっと見て言われた。「それは人にはできないことです。しかし、神にはどんなことでもできます。」

 「人には出来ないことです」とは、青年との応答にある律法を完全に守るという御国に入るための善行である細則の一つを指して言っているのではなく、主が彼に求められたようなすべてを捨ててイエス・キリストに対する完全な信頼を持つに至ることではないかと私は思う。
 イエス・キリストに対する完全な信仰を持つに至ることは本来私たちにとって困難である。
 しかし、ここで御言葉に目を留めてもらいたい。「主は彼らをじっと見て言われた。」と書いてある。この言葉の中に、十字架の主の御業に焦点が向けられていることに気づく。イエス様は、多く赦された者はより多く愛することが出来る、と語られた。神にはどんなことでも出来る。神にはあのような金持ちでさえ救うことがおできになる、とお語りになるとき、主は贖いの十字架に焦点を向けながら哀れみの眼差しとともに語られていると思う。すなわち私たちが自分自身で持っている離し難い己の財産・尊い誇りや自分の義・私たちの尊いと感じている自分の人生、それらに勝る神の富を私たちに与えるときにのみ、私たちは自分が尊いと感じるそれ以上のものを前にして捨て去ることが出来るようにしてくださる。
 人が持っているものが尊ければ尊いほど、捨てがたいが、尊ければ尊いほど主はそれ以上の価値でもって贖われる。主はご自分の命を私たちに与え尽くされ、生涯を私たちに与えられた。私たちが離す事の出来ないと思っている人間的な富や自分の生涯にまさる価値でもって私たちに神の富を示される。主イエスはその神の富を、イエス・キリストのいのちを、私たちに与え尽くされた。
 21節の「あなたが完全になりたいなら、帰って、あなたの持ち物を売り払って貧しい人たちに与えなさい。」との言葉の実行は困難である。財産は彼にとって高価なものである。しかし、主はその人にとって高価なものと思っている以上の高価な神の財産をもって神がご自身の命でその人のためにすべてを売り尽くし、払い尽くし、与え尽くしてくださる。

 十字架がはっきりと示されるとき、人は自分の所有を捨て、その人の自分の人生に対する価値観に勝る価値でもってキリストに対する信仰を持つことが出来る。不完全で受け入れられないもののために神がご自身のすべてを与えてくださるからこそ、私たちは自分が堅く手放すことが出来ないと思っている自分の財産や得てきたものを離れてこの方の呼びかけに応えることが出来るようになるのである。(多く赦された者はより多く愛することが出来る、とあるとおり、多く持っているものを救う神の愛は人の限度より更に深い。)
 キリストにつながるなら、私たちは自分自身によってではなく、キリストの故に完全なものとされる。それゆえ、「そのうえで私についてきなさい」との呼びかけに応じることは、唯一のキリストの完全に預かることなのであった。

 「あなたが完全になりたいなら」とのメッセージは主御自身によって完全とされるために主が自らを最も貧しくされた贖いの十字架に基づいている。
 人には出来ないが、神には出来る。人が自分の人生を投げ出してキリストを仰ぐ完全な信仰に至ることはキリストの与えられたいのちの価値を知るまでは人には出来ないことであろう。しかし、神にはどんなことでも出来るとじっと見つめて厳粛に語られるとき、そこには、主がすべてを与えて私たちを買い取り、完全なものとしてくださるイエス様の十字架に基づいて語られていると知ることができる。青年はこの時点で主の十字架の業を見ていない。しかし、私たちはいま、キリストの贖いの上で語られている御言葉を聞いている。そして、それは恵みのメッセージである。私たちがすべてを捨てて主に従うことは神の与える恵みのいのちによって生きるということに他ならない。

(以下、今日のテーマに関する議論と話題)